『ひかりのおと』は劇映画である。
しかし監督の山崎樹一郎が岡山県に移住し、農業を営みながら本作を撮影していることや、完成した映画が、岡山県内をくまなく巡回上映していることなどは、東京に住むneoneo編集室のメンバー周辺にも逐一伝わってきていた。編者などはその営みが気になって、監督の住む真庭市で行われた上映会に駆けつけたほどである。閉館した旅館の広間を貸し切って、地元の人と肩を寄せ合い観たことや、上映後は車座になってみんなで感想を述べ合うなど、東京ではなかなか得られぬ強烈な映画体験に、いたく感銘を受け帰ってきたものだ。
山崎監督及び上映スタッフの、文字通り「地に足をつけた」映画の展開手法は、かつて土本典昭が、不知火海周辺の水俣病の未認定患者のいる部落をひとつひとつ巡回上映したことに着想のヒントを得た、と聞いた。それとは目的は異なるものの、彼らにもきわめてドキュメンタルな意図があるといえる。それに呼応するかのように、今回の東京上映にあわせ、監督と同じく岡山県に移住した評者から論考が届いた。
(neoneo編集室 佐藤寛朗)
一頭の牛を曳いた男が、高速道路の歩道橋をトボトボと横切って行く。
現代の農村を象徴しているかのようなこの冒頭のシーンは、そのまま『ひかりのおと』という作品が今の時代に撮られることの意味を暗示しているようだ。
都市と農村という明確な区分がもはや成立せず、そのような区分が実は都市から農村を見た時の一方的な押しつけでしかなかったという事実。そして、現代における農村は、すでに都市的なものに穿たれ、すみずみまで浸透されているという現実。
『ひかりのおと』はそうした現実に対する土地からの応答なのだ。
主人公の雄介は、父親のけがをきっかけに、岡山県北の山間の故郷に戻る。3世代にわたって続く酪農に携わりながらも、東京で追い求めていた音楽への夢も捨てきれないまま、また、恋人陽子との関係もぎこちない中悶々と過ごしている。物語は雄介が自分の抱えているこれら全ての問題にどのように折り合いをつけ、向き合っていくのかという過程を酪農の日々の情景とともに描く。
雄介には幼いころ家を出た母親がいた。音楽は、その母親が雄介に授けてくれたものだ。家のすぐ脇を通る高速道路の騒音がうるさいだろうと、苦しい生活の中、雄介にオルガンを買い与えてくれたのだった。
物語の後半、叔父の義行に連れられて、雄介は長らく音信不通であった母親のところに行く。母親が弾くピアノの音を、小雪がちらつく夜の車中でじっと聞き入っているそのとき、おそらく雄介の中で何かが氷解したのだろう。母親が家を出た理由、音楽を通じた自分と母との連続性、そして、それは母との和解であり、再び音楽を始めることへのきっかけとなる。
一方で、恋人の陽子とは、陽子と前夫・夏生との子供である亮太が夏生の家の唯一の家督相続者であるため、関係を踏み出せないでいた。
家督や家業を継ぐこと。それは今となっては、ある限られた地域や状況、職業だけの出来事であり、前近代的・封建遺制だといって、批判することは容易い。しかし、そうした態度こそが「都市から見た農村」というイメージの構築を成立させる視線でもあるはずだ。そもそも、すべての因習から自由な人間など存在するはずはないのだから。
雄介を家業である酪農に繋ぎ止めるものが、父親に代表される因習的なものであるとすれば、そこから逃れようと自由を求める精神こそ、母親が雄介に残した音楽ではなかったか。酪農を取るか、音楽を取るかは、事実上、雄介にとっては父親を選ぶか、母親を選ぶかという問題に他ならない。この物語が、見るものに奥行きを持って感じられるのは、こういった複層的な背景が積み重ねられているためだろう。実際、この映画に登場するものたち全員が家族関係において欠損の徴を帯びている(完結していない)ことは話として出来すぎていると言えないこともないのだが、それがいっこうに不自然に感じられず説得力を持つのは、その関係や過程を周到に追跡して描いてみせたことの結果である。
映画の終盤、陽子は雄介の祖母から手紙を受け取る。その手紙には、雄介の家族が酪農を始めた経緯と顛末が綴られており、「ありのままにすべてを受け入れなさい」という陽子に託されたメッセージがあった。
ありのままにすべてを受け入れるという行為は、決してなしくずし的に現状を肯定することではない。自分自身の内面の声に静かに耳を傾け、己が命ずるままに己の道を進むということを意味する。雄介もまた、酪農/音楽、農村/都会、父親/母親という枠組み、あれか/これかという機制にとらわれることなく自らの道を歩むことを選択するだろう。あらゆる既存のシステムにとらわれることなく己の道を歩んで行くことこそ「新しい生」の誕生と言える。
時流に乗って器用に安易な満足を提供するでもなく、かといって既存の流れにこれみよがしに抗うのでもなく、むしろそうしたものから無関係に自由に世の中の流れを横切ってみせること。冒頭の牛飼いのごとく、おずおずと、しかし、どこか悠然と横切ることの爽快さ。それは、この映画が見るもののうちに自然と呼び起こす感覚ではないか。
それゆえにこの映画はマイナー映画である。マイナーであるとは、徹底的に土地に根ざし、頑に土地の生活に密着する姿勢である。そのために、見るものにある普遍的な感情を呼び起こす。『ひかりのおと』は、その上映形式(岡山県内全域にて、全51会場100スクリーンでのキャラバン巡回上映)をも含めて、あえてマイナーな姿勢にこだわった作品である。マイナーであること、それは決してメジャーになれないという意味ではなく、ひとつの決然とした態度の表明なのだ。
【作品情報】
『ひかりのおと』 The Sound of Light
(2011年/89分/カラー/16:9/HDV/日本)
出演:藤久善友 森 衣里 真砂 豪 佐藤豊行 中本良子 佐藤順子 辻 総一郎
坂本光一 大倉朝恵 浅雄 涼 大塚雅史
脚本・監督:山崎樹一郎
プロデューサー:桑原広考 加納一穂 岡本 隆
撮影:俵 謙太/照明:大和久 健/録音:近藤崇生(丹下音響) 大森博之
音楽:増岡彩子/監督補:木村文洋/演出助手:兼沢 晋 進 巧一
照明助手:吉川慎太郎 蟻正恭子/録音助手:野崎貴史
衣装:園部典子/メイク:横田蕗子/制作主任:冨永威允
制作進行:黒川 愛 梶井洋志 堀 理雄 藤田光平 加藤稚菜
宣伝美術:竹内幸生/宣伝写真:杉浦慶太/WEBデザイン:古林正江
翻訳:Anthony Scott スコット美晴
挿入歌:「青空」 作詞:みど 作曲:あやこ
音楽協力:吉田光利 地底レコード?特別協力:三浦牧場
製作協力:シネマニワ/製作・配給:陽光プロジェクト
オーディトリウム渋谷にて公開中(2/9-3/1)
※2011年10月〜2012年3月、五ヶ月にわたり岡山県内全域にて、公民館、ライブハウス、旅館、学校、カフェ、古民家、田んぼなど、全51会場100スクリーンで、キャラバン巡回上映
【執筆者紹介】
小林耕二(こばやし・こうじ)
1969年広島生まれ。東京外国語大学大学院言語文化研究科博士前期課程(チェコ語専攻)修了。チェコのカレル大学で美学を学ぶ。2011年から岡山県総社市に移住。総社市でシンポジウム「回想のマヤ・デレン」を開催。2013年から総社土曜大学を主催する。