【Info】5/7-9開催中! 「HUMONIUM Vol.2」気鋭の映像集団によるジャンルを越えた短編・中編の最新作をオーディトリウム渋谷で一挙公開!

この度はオルタナティブスペースとしての映画館であるオーディトリウム渋谷にて、HUMONIUMによる上映会「HUMONIUM Vol.2」を開催する運びとなりました。わたしたちがここで試みるのは、今日のデジタル化した映像表現における可能性を問うことと同時に、参加する作家個人のコンテクストから、制作の動機となる部分までをさまざまな次元でつなぎあわせて行く思考の営み、またそのプロセスを上映会全体を通じて体験してもらうことです。

公式サイト http://humonium-2.tumblr.com/



上映スケジュール
2013年5月7日(火)-5月9日(木)
上映時間135分(全日 21:05-23:20)

会場
オーディトリウム渋谷 http://a-shibuya.jp/

料金
当日券のみ
一般 900円 学生 600円
整理番号制・自由席



HUMONIUM〈ユーモニウム〉とは
humoniumは形容詞humorousと、金属元素や新しく生まれた元素の名称に使用される接尾語-iumが結びついている。humorousな振る舞いを見た者はそこに言葉や思考を付与する前に笑いに襲われる。それは確固たる日常が一瞬だけ解体される事件でもある。また新たに生まれた超重元素は、特殊な条件の中で原子核を合成していくあまり、生まれても一瞬で崩壊する、不安定な物質であることが多い。この超重元素は誰の目にも触れる間もなく、自らの電子を原子核もろとも発散してしまうかもしれない。HUMONIUMはグループとして、自らが持続可能な場を様々な展示形態をとった発表において探っていく。

出品作家より
これまでいわゆる劇映画的なフィクションを作ろうと思って映像作品を作ったことはあまりないのだが、今回は作品の内容と制作方法との接続の仕方を考えながら、映画制作が普段周りで起こっていることから離れて閉じてしまうような制作方法によってではなく、制作している自己や集団、制作環境を含め極端に開くことによって、カメラ以上にその制作環境がカメラ的な機構になるような方法はないかと考えた。それはドキュメンタリーかフィクションかすらをジャンル的に区別してしまうことに対する危惧というか制作のしづらさといった感情を越えて、何かしら有機的な撹拌効果を生むことができればと思っている。

まずあるシンプルな物語構造を始めに作っておき、そこからディテールを付けてゆく。だから最終的な撮影場所やカメラの構図は始めの大きな構造よりもむしろ表面的なディティールによって決められていった。俳優の台詞などもそうで、会話もむしろ大きな構造を示唆する情報として、暗喩的であれ付与していった。そうすることで設計図である脚本が流動的なものとなる。今回の作品においては自然災害と映像の関わりという問題提起をしてみたのだが、制作期間1年間の中だけでも様々な自然災害の動画がyoutubeなどにアップロードされた。その度に何かしら脚本にその要素を盛り込んだりすることで、常に偶然的な出来事にさらされ、最終的な完成形を見えなくしてみる。

それは建築の領域においても設計図と建築家の意志が絶対的なものとして建築物が決定されることの柔軟性のなさという観点からアルゴリズミックに環境やコミュニティーとの相性を建築自体が探ってゆく方法が2000年代になってインターネットとアルゴリズミックデザインの普及によってとられるようになってきたのと似たアプローチなのかもしれない。ただ建築という物質的な完成形を最終的に求められるのと違い、映像は物質にはなれないからこそその外部に物質を求めるし、制作方法自体もあらゆる外部的な出来事や環境、コミュニティーに向けうまく解放していく方法を考えられるのではないかと思う。

今回の作品はプロトタイプとしてその方法を劇映画に適用されたものとも言えるかもしれない。そしてチームで制作するのではなくあくまで動きやすさを優位に置くことから単独的に制作が行われた反面、上映を集団的かつ複数的に行っていくことで、恣意的に決定されてしまったこの映画をまた決定不可能な場へ送り入れることができると考え、自らの制作方法との接続を関係させた上映になればと思っている。

 伊阪 柊 
 http://www.youtube.com/user/kasiuable  https://vimeo.com/user11235741

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被写体に出会ってからプリントを作るまでの行為を経て現れた写真に、初めて見える景色。

それは対象が写された現場ではなく、もっと場所も時間も遠いところで出会ったであろう光景でもあり得る。

見ることによって、わたしたちは忘れ去られた記憶をもう一度思い出すことは可能だ。いくつものメディアによって何層にも重ねられた記憶は、私たちの生活に、模倣させないことを許さず、想像の可能性を際限なく広げている。ここでの模倣は、無意識下で行われていて意識の上に登ることはないだろうが、延々と続く単純な式でカリキュレートされ、思いもよらないところで答えが出されることがある。等式の解がみせる風景は、ノスタルジーを感じさせたり、Déjà Vu(デジャヴ)として眼にフィルターをつくるかもしれない。あるいはそれが原風景だと信じるだろう。だが私は眼を通過した光そのものがみたい。見られると思っている。そして見せたい。

10秒ほどの静止するスナップ写真が連続する、今回の作品が投影される映画館の中は、ひとつの曖昧な記憶の空間となった。何かを思い出そうとする声と2種類の風景、黒い空白。そのシークエンスの中で、何か意味を見出そうとする観客は、その記憶の所有者にも成り得る。映しだされる光景は「私」からしか見えていなかった個人的な経験の記録だが、映画館という不特定多数の人間が、時間も場所も共有する空間で見ることにより、その記録から成る記憶は引力を持って、観る者の中に存在し始める。新しい計算も始まる。もしかしたらもう見えているかもしれない。そんな可能性を感じ、写真を映画館で上映することを考えた。

観るものにとって、イメージを光たらしめる要因はどこにあるのだろうか。そのようなことを考えているうちに等式の解はまた忘れ去られ、計算は続くのだろう。

 村田冬実
http://fuyumimurata.tumblr.com/