【論考】 ロジャー・コーマンと日本のロジャー・コーマンたち(前編) text モルモット吉田


「僕なんかが営々として八ミリや十六ミリを撮っているときに何を望んでいたかというと、ここに一人のロジャー・コーマンがなぜいないんだということだったですよね。つまり、若い才能はたぶん、アメリカと同じように日本にもいるはずだけど、その才能を集めて、生かして、未来に解き放つという、そういう肝心かなめの人間がいないという切実なきびしさってのはすごく感じてましたからね」

『野ゆき山ゆき海べゆき』(86年)を完成させた直後の大林宣彦の発言(『キネマ旬報 1986 NO.946』)である。「東京国際ファンタスティック映画祭’86」の特集で映画評論家の石上三登志と対談した「ロジャー・コーマンは映画に対して根源的な存在だ」からの引用だ。

日本にはロジャー・コーマンがいない――大林の言葉には、かつての若き映画作家が39歳で『HOUSE』(77年)の公開にこぎつけ、商業映画デビューをようやく実現させた嘆きが込められている。もし、ロジャー・コーマンがいたなら、『HOUSE』は10年早く実現していたに違いない。コーマンのプロデュースで商業映画デビューした監督たちのデビュー時の年齢を記してみれば、大林の言葉が実感できるだろう。ロン・ハワード(23歳)、フランシス・フォード・コッポラ(24歳)、モンテ・ヘルマン(27歳)、ジョナサン・デミ(30歳)である。













ロン・ハワード、『コーマン帝国』より  © 2011, KOTB, LLC. All Rights Reserved.


では『HOUSE』の10年前、1967年前後の大林は何をしていたのか。1968年5月18日~6月30日にかけて新宿のアンダーグラウンド蠍座で特集上映「大林宣彦回顧展 その映画への愛と祈り」が開かれ、『EMOTION 伝説の午後 いつか見たドラキュラ』(67年)、『CONFESSION 遙かなる憧れギロチン恋の旅』(68年)など、大林の個人映画が4本上映されていた。ここで象徴的なのは、奇しくも直前の5月9~17日まで蠍座で上映されていたのが足立正生の監督した実験映画『銀河系』(67年)だったことである。

大林宣彦と足立正生。1歳違いの同時代に生きた2人の映画作家は、実験映画の運動体となったフィルム・アンデパンダンに共に参加するなど、60年代前半には既に顔を合わせていた。『映画/革命』(足立正生/河出書房新社)で自身が語るところによれば、「大林さんと会ったのもその頃で、当時『小型映画』の編集者で、原稿依頼に来て話し込んだりしていた」という。

日大映画学科在学中に新映研で共同制作した実験映画『鎖陰』(63年)で注目を集めた足立は、次回作『銀河系』の製作まで時間があったことから、黎明期のピンク映画で頭角をあらわしていた若松孝二の『血は太陽より赤い』(66年)で助監督を務めた。これをきっかけに、以降は脚本家としての能力を買われ『引き裂かれた情事』『胎児が密漁する時』(ともに66年)など次々と執筆。そして同年には若松のプロデュースでピンク映画初監督作『堕胎』(66年)を発表した。共同監督として若松の名がクレジットされているが、これはピンク映画界では無名だったための興行的な措置である。

足立が若松映画に初参加した『血は太陽より赤い』が3月に公開され、11月にはもう監督作『堕胎』が公開されているのだ。わずか半年で監督まで任せてしまうのだから、いかに若松が足立の才能に惚れ込んでいたかが分かるだろう。大林が叶わなかった「才能を集めて、生かして、未来に解き放つ」存在に足立はめぐり逢ったのだ。実際、『銀河系』の製作にあたっては若松に製作費を出資させることにも成功している。この年、足立は27歳だった。

 

「だから俺は、日本のロジャー・コーマンと呼ばれているんだ」

得意気に語る若松孝二。『実録連合赤軍 あさま山荘への道程』(08年)のDVD発売にあわせてインタビューを行った際、90年代後半から低迷していた若松が復活するきっかけとなった『完全なる飼育 赤い殺意』(04年)と『17歳の風景 少年は何を見たのか』(05年)が連続撮影されたことに話が及んだ時の発言である。

若松は如何に効率良く2本の映画を連動して撮影したかを語った後で、冒頭の言葉を口にした。一部で若松がそう称されていることは知っていたが、自分で言わなくてもいい気がする。だが、「『完全なる飼育』の製作費を一部流用して『17歳の風景』を撮っちゃったから、製作会社に明細出せって言われると困るんだ」と、平然と言い放つ若松を、日本のロジャー・コーマンと呼ばないわけにはいかない。

1本の映画を撮るついでに、もう1本撮ってしまえば効率的だ――という発想は、コーマンが『血のバケツ』(59年)のセットを使って2日で『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』(60年)を、『忍者と悪女』(63年)のセットを流用して『古城の亡霊』(63年)を撮ったというエピソードに通じるが、『完全なる飼育』と『17歳の風景』以前にも若松は自身のプロダクション=若松プロで量産体制にあった60年代後半には、この手法を積極的に活用している。小平義雄事件をモチーフにした『日本暴行暗黒史 暴虐魔』(67年)の撮影に女優を大勢集めたので、前年に起きたシカゴ看護婦大量殺人をもとにした映画を思い立ち、ついでに撮ってしまおうと即興に近い形で撮影したのが『犯された白衣』(67年)である。

量産というだけならば、同時代の他のピンク映画の監督たちも引けをとらない。若松映画が独創的なのは、若松タスクフォースともいうべき若き映画人たちが方々から集結し、若松のための脚本を執筆したことが若松映画の個性を際立たせた。日活の助監督だった早稲田出身グループである大和屋竺、曽根中生、田中陽造らに続いて日大映画学科出身の足立、沖島勲が参加した時期が若松プロの最盛期と言えるだろう。

この頃若松は、若松プロの増産体制を進めている。足立の『堕胎』の直前には大和屋の監督デビュー作となった『裏切りの季節』(66年)をプロデュースし、続けて『とべない沈黙』(66年)を公開したばかりの黒木和雄が参加する予定になっていた。若松の撮影と並走して足立・大和屋・黒木がローテーションで監督することで一気に製作本数の倍増を画策したのだ。最終的に黒木は不参加に終わったものの、大和屋と足立が対抗しあってそれぞれの特徴を若松映画の脚本に塗り込め、自らの監督作も発表したことで、“反権力と復讐”にまとめられがちな若松プロの映画群に多彩な変化をもたらした。足立が監督した『女学生ゲリラ』(68年)のロケハンにつきあった若松と大和屋が帰り道に富士裾野の荒野を前に交わした会話が『処女ゲバゲバ』(68年)を生み、異物感あふれる2本の映画を連続して撮影することができたのは、その好例である。

若松が日本のロジャー・コーマンと自負するのは、独立プロダクションでありながらローバジェットで効率的な量産を可能にしただけにとどまらず、足立、大和屋以外にも若手映画人を数多く監督デビューさせたからである。前出のコーマン帝国デビュー監督に倣って、若松王国からデビューした監督たちの当時の年齢を記せば、足立(27歳)、大和屋(29歳)、沖島(29歳)、小水一男(23歳)、林静一(28歳)である。デビュー作ではないが、山本晋也、高橋伴明らも初期の監督作を若松プロから発表している。ともに20代前半の若さだった。

若松自身は27歳で監督デビューしたが、それ以前はヤクザを経てテレビ映画の制作進行をしていた。時には映画の助監督に駆り出されることもあり、大蔵映画の第1作となった『太平洋戦争と姫ゆり部隊』(62年)にも参加している。この時、撮影現場に唐突に現れた男が演出に口を挟んだことで末端の助監督だった若松を激怒させた。それが、もう一人の日本のロジャー・コーマンこと大蔵映画の社長大蔵貢である。

大蔵貢が何故、日本のロジャー・コーマンなのか。言わずと知れた後期の新東宝に乗り込んだ物言う社長として、製作への介入から「女優を二号にしたんではない。二号を女優にしてやったんだ」発言まで傲岸不遜な言動の数々と、再評価の声も含めた毀誉褒貶に満ちた「日本最大の見世物映画商人」(『興行師たちの映画史 エクスプロイテーション・フィルム全史』柳下毅一郎/青土社)として語られる怪人である。

都内に30数館の映画館を経営する興行のベテランだった大蔵は、新東宝社長就任直前にも「下番線の館に、封切で客の来ないものは勿論来るはずがないから、娯楽版をつけるとか題名で驚かすような洋画をつけて三本建(ママ)にするなりして、番組の妙味で、封切で当たらなかった映画も生かせる」(『キネマ旬報 1955 NO.123』)と提言するなど、後の 新東宝・大蔵時代を予感させる発言をしている。

実際、1955年12月末に新東宝の社長に就任するや、「増収を図り興行を安定させるには“新東宝カラーの確立”が焦眉の急務だ。(略)製作費の節減に大ナタをふるったことはいうまでもないが、映画は“見せもの”だから、製作費を二千万円節約しても、完成した映画は逆に二千万円多くかけたようにお客さまに見せなければならない」(『わが芸と金と恋』大蔵貢/東京書房)と、製作費を大幅に削り始めた。製作費1500万円の内、直接費600万円、間接費900万円が大蔵時代の新東宝の製作費の平均と言われている。  

ギャラの高い監督・俳優は使わない、残業手当が発生する夜間シーンは削除、日帰り可能なロケーション以外は宿泊費が発生するので行わない、雨を降らせるシーンも止めてしまえというコストダウンの徹底は、結果として監督、俳優の大量離脱を引き起こした。しかし、逆に言えば撮影所内の若手の監督・俳優が起用される機会の増加にもつながったのだ。それに加えて「私は、映画の脚本は必ず自身で検討・改訂する。オリジナル物は、原案から題名まで自分で決定する場合が多い」(前掲書)という大蔵イズムに満ちたエロ・グロ・アナクロニズム(性典・残虐怪談・天皇)が主流となり、良くも悪くも日本のロジャー・コーマンと冠するにふさわしい映画が量産された。








 








ロジャー・コーマン本人、『コーマン帝国』より  © 2011, KOTB, LLC. All Rights Reserved.



一方、本家のコーマンも70年代に入るとニュー・ワールド・ピクチャーズを設立し、製作と共に配給業務に乗り出した。より効率的に自作とプロデュース作品の収益を増やすためである。コーマンは、それまでにも手腕を買われて大手映画会社の経営を持ちかけられたこともあったと言うが、会社全体を統括する権利を主張したために実現しなかった。つまり、大蔵と同じくワンマン経営を目指したのだ。ただし、大蔵が助監督時代の若松孝二を激怒させたような気まぐれに現場に現れては演出に介入したり、脚本を書きなおしたりしたりすることはなく、コーマンは脚本と演出に関しては若い映画人に積極的に委ねていた。最終的な局面で編集に手を入れることはあったとは言え、経営面での決定権を握ることこそが重要だったのだ。そしてコーマン帝国は1年あまりでアメリカ有数のインディペンデント配給会社へと成長した。

「私は常にスピードを口にしているくらいだから、至って気短で面倒なことは大キライ。会議などというものは一向に好かない」

「会議は二十分しかつづかず、(略)(a)形式主義と(b)時間の無駄という理由で、二度と会議をひらきたがりませんでした」

この2つの文章は、同一人物について語られたものだと思うだろうか。前者が大蔵貢の自伝『わが芸と金と恋』からの引用であり、後者はロジャー・コーマンの自伝『私はいかにハリウッドで100本の映画をつくり、しかも10セントも損をしなかったか―――ロジャー・コーマン自伝』(ロジャー・コーマン/ジム・ジェローム 石上三登志・菅野彰子 訳 早川書房)からの助手の証言である。1本の映画にゴーを出すか否か、大蔵もコーマンも民主的な手続きを拒否して興行師としての自身の勘だけを重視したのだ。確かに大蔵が当時誰も手をつけなかったタブーである天皇を前面に押し出した『明治天皇と日露大戦争』(57年)に製作費1億円(公称)を投入して国内の興行記録を塗り替える大ヒットを導いたことからしても、ワンマン経営でなければ到底実現しなかった企画だろう。新東宝を追い出された大蔵が設立した大蔵映画は、海外のB級映画を次々と輸入していくことになる。その中に、コーマン映画が含まれていたのは必然的な巡り合わせだったのだ。


 

『コーマン帝国』
監督:アレックス・ステイプルトン
出演:ロジャー・コーマン、デイヴィッド・キャラデイン、ブルース・ダーン他
2011年/アメリカ/91分/カラー 配給:ビーズインターナショナル
2012年5月12日より オーディトリウム渋谷にて「コーマン・スクール2012〜みんな大好き、ロジャー・コーマン!」開催
5月19日より、名古屋シネマテーク、神戸アートビレッジセンター他にて公開予定



【執筆者プロフィール】 モルモット吉田