【Essay】「うたはたましいの記録である」①友川カズキ text 金子鉄夫

映画 『友川カズキ 花々の過失』より

 

自分の家の前で立ち止まり
覚悟を決めてドアを押す
地獄でもあるまいによ
生きてるって言ってみろ
(『生きてるって言ってみろ』)

 

骨抜きである。友川カズキ、1950年秋田県生まれ。先行する時代の赤裸々な代弁者、岡林信康の歌を聴いてシンガーを目指し、74年『上京の状況』でデビュー。フォークシンガーという枠に嵌めるにはあまりに激しい、この個性についていったい何が書けるというのか。とりあえず代表曲と認識する『生きてるって言ってみろ』を聴く。荒々しい強姦まがいのギターのストロークが痛い。文学的なんていうには野蛮すぎる詩、血反吐を吐いてるかのような歌唱法は言わずもがな。絶叫する哲学者(映画『花々の過失』より)友川カズキ、存在自体が赤くひらいた傷口である。

 

戦争反対もけっこうだが人間反対じゃないのか
(『ピストル』)

 

友川の痛さ、傷口のままの身の晒し方に髄から痺れれば見えてくるのは友川の生地である秋田の寒空。そして東京へと展開する無情な旅。それは嘗て世間を騒がした連続射殺魔永山則夫が全身で体現した痛さかもしれない。生きているというために永山は北海道の奥地から東京へやってきてピストルを握り人を殺め獄中ではペンを握った。同時代人である友川はピストルの代わりにギターを握った。そこに大差はない。ギターを握り71年、当時の若者の過激な温床であった中津川フォークジャンボリーに飛び入り参加し75年『やっと一枚目』からコンスタントにアルバムを出し続け、間には長谷川利行を彷彿とさせる絵筆を奮ったりして、2011年には『花々の過失』という自身のドキュメンタリーに出演したり今もって健在だ。友川が永山が生きた抜いた当時、60年代から70年代初頭の状況を省みれば実に多くの表現者または表現者くずれが様々なメソッドを駆使し爆ぜた。

結果、砂埃舞う狂乱のカルチャーが華ひらいた。そう切羽詰った我が国の変革を目指して。

しかし変革は国家の徹底的なまでの暴力によって露と消え資本の坩堝の濁流へと飲み込まれた。その当時から現在に至るまで友川は目立った断絶もなくだが紆余曲折経て尚も歌い続ける。友川は明確な形で社会全体を批判しはしなかったが、その底辺で殺伐を生きる人々を代弁してきたようにおもう。ときに「夢のラップ、もういっちょ」と競輪に材をとりながら遊戯もみせながらデビュー時の状況との蟠りを解消するなどという安易な方向へは傾倒せず2010年代に頭突っ込んだ今、還暦を越えてもステージに立ち続けるその様は日本の傷口であるような凄味をもっている。若かりし頃、ジャケットでの鋭い視線を変わらず所持しながら友川はますます無残に散る昨今の状況に何を見るのか、と殊更に現在を持ち出してきても仕方ないが60年代、70年代と比較できぬほどの情報に脅威し身動きもとれない圧迫感(明日、首を吊るのはあなたかもしれない)にあえいでいる現在、まだ自分は何者になってはいない、今も何者にもなれるかもしれないからもがき続けると自らの人生を語る友川の生き様こそ共鳴すべきではないのか。

 

映画『友川カズキ 花々の過失』より

 

この唄は死にぞこないの唄、生きぞこないよりはマシだもんな 
(『死にぞこないの唄』)

 

同じ「友」つながりといえば陳腐だが同じ1950年生まれのシンガー友部正人と比較すればその丸裸の傷口が顕著だ。友川が何者になれるかもしれないという希望、夢というにはあまりに生易しい「祈り」ともいうべき焦がれをもっているのに対して友部は何者にもなれないという、ある種の諦念から出発しているようにみえる。質は違うが同等の傷口であることは確かなのだが友部の場合、突き放している分、清々しいし傷口の生臭さを感じさせない。痛いはずではあるのだが痛さを浮力すなわちユーモアで翻しながら飄々としている。一方、友川は痛みを痛みのまま加工せず寧ろ過剰に歌う。互いの表現ひとつとっても違いは明らかだ。更にいえば秋田から上京してきた友川に対して友部は、その東京、吉祥寺で生を受けながら各地を転々としてきた生粋の「吟遊詩人」だ。友川は「吟遊詩人」になれなかった詩人だ。それは友川が好む中也然りだ。だからこそ東京という花の都にへばりついて負って流れた血を担保に詩を紡ぐしかない。

この「しかない」の切実さこそ中也であり友川の「うた」である。ちょっと印象だけで書いて申し訳ないが友部が吉祥寺という雰囲気に器用に収まるのに対して友川はやはり西村賢太(友川自身、氏の著作のあとがきを書いていたりする)が書くようなドヤ街でもがいている印象がある。そのドヤ街で昔と寸分違わず枯れるなどという形容に抗いながら自らの肌を剥いて血を流しガナっている。上記した西村賢太に託けるわけではないが老年といっても差し支えのない体にムチ打ち、まだ何者になれるかもしれないと焦がれる友川自身が友川カズキという激しい私小説だ。やはりこの異能の詩人を、全身詩人で果てようとする友川に対して血の流し方も覚束ない僕が書くのは無理がある。字数も制限があるので尚更だ。見渡してみれば友川の唄的、殺伐がどこかしこも散在して臭い日本。のっぴきならないことこのうえない。しかし生きる「しかない」。そのとき友川カズキという傷口は何かの端緒になるのではないかと友川の痛い声を聴きながら漠としておもうのだ。

映画 『友川カズキ 花々の過失』より

友川カズキの初のドキュメンタリー映画 『友川カズキ 花々の過失』DVD発売中
◎特別篇ライブ映像収録 + 豪華ブックレット(64ページ)付き
 監督: ヴィンセント・ムーン
 字幕: 英語字幕あり
 定価: 3,500円(税込)
 特典映像: 「テイクアウェイショー」、「星を食べた話」、「ピストル」、「海みたいな空だ」、「生きてるって言ってみろ」収録
 画面サイズ: 16:9

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|プロフィール

金子鉄夫 Kaneko Tetsuo 
詩人。83年広島県呉市生まれ。詩集に『ちちこわし』(思潮社)がある。