【Book】ブックレビュー『逸脱の映像』(松本俊夫著)text 風間 正

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松本俊夫は日本で初めて、映像作家という言葉を定着させたことで知られる。なぜ松本は、自らを「映画監督」(長編劇映画は4作を監督)ではなく、「映像作家」と称したのか?「映画」という言葉ではなく「映像」という言葉にこだわり続けたのはなぜか?そこには明確な理由があった。

本書は、1980年から83年までに『月刊イメージフォーラム』に連載されていた論評「逸脱の映像」を中心に、1970年代後半から2011年までに発表された論評及び、70年代後半から2012年までに行われた対談(武満徹・西嶋憲生・武邑光裕 等との)を編纂したものである。つまり、30年前の論評を発掘する形でオムニバス的なものとなっているが、そこには、1950年代から現在に至る松本の制作姿勢と体験・実験精神・越境思想といった行動原理が貫かれている。いわば、松本の映像に対する行動規範を解き明かすものと言えよう。

「逸脱の映像」は、いわゆる劇映画の枠に留まらない実験的映画や映像芸術(インスタレーション・マルチスクリーン・ミニマルアート・キネティックアート・コンセプチュアルアート etc )の魅力を、ロラン・バルト、ジュリア・クリステヴァ、メルロ・ポンティ等の理論を援用し、記号学・現象学的視点から明らかにしている。

松本は、日進月歩を続ける映像制作の技術面 (フィルム-VTR-CG-デジタル=プログラミング etc ) に対して、常に積極的に新技術を使うことを推奨してきた。その背景には、記号論や哲学を映像の文脈に援用した様々な理論的研究があるが、「創ること/観ること」の両者を往還する映像体験、つまり固定化した表現領域・形態を「逸脱」するための道具として新技術を取り入れるべきだと、松本は考えてきたのである。

巷でよく耳にする「映画のような出会い」とか「あれは映画のようだった」といった表層的な臨場感や同一化を超えたところに、映像に固有のアクチュアリティー(現在性)を体験するという不変的事実がある。これこそが、映像作品における物語消費の枠を超えた幅広い意味での映像の魅力である。

松本は、かように意味中心主義の映画の見方に対し警鐘を鳴らし続け、「ストーリーや言語世界に還元できない映像体験」についての探求を怠らなかった。例えば作品を「わかる/わからない」という観客の反応に対して、ストーリーや登場人物だけを理解しようとしても、それは不毛な行為であると言える。なぜなら、同じ映像作品であっても、見る場所や空間、状況によってその印象は大きく異なるからだ。従って、作品と観客の「見る/見られる」という関係性の理解や、「心象と文脈」「記憶と身体」などの二元的価値を超えた相互作用的な映像体験が引き起こす強度(intensity)こそが重要であり、それが映像におけるアクチュアリティ(現在性)である。それはまた表層的現実からの逸脱でもある。

松本の言う「逸脱の映像」という本書全体が意味するものは、知覚が自動化した人間に陥らない為の処方箋であると同時に、いかなる映像制作の形式・手法にも囚われない松本のアヴァンギャルドな制作姿勢と思想の表出であるように思う。そして、これは松本の前作「映像の探求」(三一書房.1991)でも述べられていた「越境する思想とも通底する。

一見、正反対に見えるモノや概念をぶつけて二元論を越境するといった松本独自の制作姿勢は、いつの時代でも一貫し、サブタイトルにもなっている「拡張・変容・実験精神」は、松本の映像制作及び理論のまさに真髄となる。映画から心象メージ内の映像(想像力・夢)までの幅広い意味での個人的映像体験が、我々を取り巻くメディア(テレビ・インターネット)における新技術により氾濫するデータ映像と拮抗しながらも「常にパラレルな時空間の中で映像体験そのものを捉える必要がある事」を本書は我々に示している。

記号の洪水として情報処理が進めば、映像芸術を理解する事はできず、知覚は自動化し、映像は消費材にしかなり得ない。松本は今日の情報負荷社会を予見していたに相違ない。「意味中心主義の文化になればなるほど、視覚はその見取り図を追従する機能に抽象化されるのである。」と松本はいう。

現代社会では、映像メディアの役割が、ともすれば言語文化を凌駕し、経済システムの中でコントロールされていることは明白である。「人類創世記から現在までの情報量と現代社会に生きる我々が一日に受ける情報量は同量である」という驚愕の事実が一般常識になりつつある。情報の洪水状態が常態化している現代人にとって、映像は情報を得るための手段、もしくは物語消費のための一つの形態へと成り下がっている。「合理主義の体系にとって、元来、映像というものはおぞましさやいかがわしさをいっぱい孕んでいたものだったと思うのです。それを情報だとか称して、いかがわしくないものに一生懸命飼育しているのが、再現的な伝達機能を重視する現前性のメタフィジックであって、それがコード化された映像の惰性態を自然化する元凶なのです。」と松本は主張する。

情報負荷社会の中でメディア操作によって飼育された人間にならないために、またそういったメディア操作を目的とした映像を機能させないためにも、本書は我々現代人にとっての必読書と言える。しかし、何よりも『逸脱の映像』は、身体的で多様な映像の原初の力を取り戻すために、30年の時を経て掘り起こされたタイムカプセルのように、我々現代人に揺さぶりをかけてくるのだ。

【書誌情報】

『逸脱の映像 拡張・変容・実験精神』松本俊夫=著 
宇川直宏=装幀 金子遊=編

月曜社 本体価格3,600円

2013年9月刊行46判 上製312頁

目次・出版社詳細ページ
http://getsuyosha.jp/kikan/isbn9784865030044.html

【執筆者プロフィール】

風間 正(かざま・せい)
映像作家・研究者。1956年 東京生まれ。中央大卒。芸術学博士。1981年、大津はつねと共にVisual Brainsを結成、映像作家として活動を開始。マルチメディアを駆使したアート作品を発表する一方、ディレクターとして様々なジャンルの映像制作業務を数多く手掛ける。早稲田大学芸術学校、明星大学にて教授を経て、現在は、戦争体験者へのインタビューを元にした作品『記憶のマチエール』シリーズを制作中。著書に『現代映像芸術論』(出版文化研究会、2007)がある。