11月29日より「いい肉の日」から『ある精肉店のはなし』がポレポレ東中野で公開されている。監督の纐纈あやさんが、大阪府貝塚市のとある精肉店(北出精肉店)に長期間にわたり取材しまとめあげたドキュメンタリーだ。纐纈さんにとっては、原発建設反対運動を続ける瀬戸内の島民を活写した『祝の島(ほうりのしま)』(2010)に続く二作目。今年10月に開催された山形国際ドキュメンタリー映画祭でも上映され、注目を集めた。
映画の主な舞台となる北出精肉店は、牛の飼養から屠畜、解体、小売りまで、つまりは精肉にまつわるすべての工程を一手に引き受ける、おそらくは日本で最後の店だった。食肉業に携わる人々への差別がいまだ根強く残る日本では、屠畜工程がフィルムに収められること自体めずらしいが、『ある精肉店のはなし』は、江戸末期から北出家に受け継がれてきた屠畜業の、最後の様子を見事に捉えた。
纐纈監督自身にこの作品の山形での評判、撮影・編集方法、映画の構成、北出家との関係や本作があつかう差別問題等々について詳しくうかがった。
(取材・構成=岡田尚文)
――まず、先日の山形国際ドキュメンタリー映画祭での観客の反応について聞かせて下さい。屠畜の描写をも含む本作に対して、「ショッキングだった」というのではなく、むしろ「映画を見てお肉が食べたくなった」といった反応の方が多くよせられていたように感じましたが、それについてはどう思われましたか。
纐纈 おっしゃる通り、観終わったあと「お肉を食べにいきました」という感想が多くて、とても嬉しかったです。それは、ひとつの目標にしていたことなんですね。映画を観て「肉を食べられなくなった」と言われるのは嫌だなと思っていました。わたしは精肉業が、私たち人間の食を支える本当に重要な、必要不可欠な仕事であり、そういう仕事を敬意をもってかたちにしたい、「またお肉が食べたい」と言ってもらえるような映画にしたい、とずっと思っていましたので。
試写会のときに、『いのちの食べかた』(2005、監督:ニコラウス・ゲイハルター)を観て肉を食べられなくなりベジタリアンになったという男性が、観終わったあと「印象が変わりました」と言ってくださった。北出さんたちが丁寧に牛を肉にしていく、心を込めて牛を扱っているその姿が、彼の印象を変えたのではないかと思います。
『いのちの食べかた』は、無機質に食べ物を生産する様子を見せることで、観客に「食」のあり方について問いかける、命あるものを機械的にあつかうことの不自然さ、不気味さから人間の業の深さが垣間見えるようでした。そしてわたしが元々屠場に対して持っていたイメージも、それまで見たことがないのに、なぜか無機質で、暗くて重くて灰色で、というものでした。
でも実際、見学させていただいたときの印象は、全く違ったんですね。本当に熱くて、エネルギーの交換がそこで行われている感じがあった。生身の人間が全身全霊でいのちあるものと真っ向から真剣勝負して、肉を生産している。これがあって、わたしの「食」があったんだと。それは衝撃でもあり、感動でもありました。最初に見たのはライン化された屠場でしたが、北出さんたちの屠畜の仕事は、さらにある意味原始的で、作業も分かりやすく見ることができて、よりいっそう有機的な営みであることを感じました。だから、私たちの食を支えている大切な仕事である、そのことを理解できるようなもの、というのが映画を作るうえで、いちばんの前提としてありました。
――山形ではもう一つ、既に亡くなっていて、写真でしか登場しない北出精肉店の先代のご主人、北出静雄さんの存在を画面の背後に感じたという感想が印象に残りました。映画のなかに映っているものだけでなく、その背後にあるものや、歴史をあぶり出すことを意識なさっていたのではないかと思いました。
纐纈 その感想も本当に嬉しかったし、「やった!」と思いました。過去を積み重ねてきている歴史や差別というものは、視覚化することが難しい部分で、重要なことはなかなか目に見えないし、それを映像としてどう表現できるのかは、ずっと考えてきたことでした。
過去の時間や、差別問題については、北出家を理解してもらうためには必要不可欠なこととしてありました。それと向き合わずして、映画を作ることはありえない。どう表現できるかは分からないけど、そのことは考え続けようと決めていました。
その入口が、静雄さんの存在だったんですね。静雄さんも長男の新司さんも、長女の澄子さん、次男の昭さんも、被差別部落に生まれ、この仕事をしているということを家族としてずっと背負ってきたわけで、そこから逃れるわけにはいかない。この仕事を生業としている以上、それに対してどう理解をもってもらうか、差別や偏見に対して自分たちが何をどう訴えていけるかということで、北出さんたちは解放運動に向かっていきました。そのいちばん中心にある思いというのは、やはり、部落差別にずっと苦しんできた親の姿だったとおっしゃいます。
いまの自分たちの存在があるのは、静雄さんの存在あってのことと、皆さんの姿から感じたんです。だから私も、静雄さんが映画のいちばんの主人公だとずっと思ってきたんですね。もういないけれども、ずっとその気配をわたし自身が感じていました。
『ある精肉店のはなし』より
――作品の具体的なところについてうかがいます。『祝の島』に引き続き、カメラマンは大久保千津奈さんと組んでらっしゃいますね。
纐纈 スタイルは『祝の島』を撮ったときと同じようなかたちで、北出さんのお宅のすぐそばに部屋を借りて、そこを拠点にして通いました。撮影はだいたい1か月の間に1回とか2回、その1回が4日間、だんじりのときは10日間くらい、というかたちで、撮影に合わせてわたしと大久保さんと、録音の増田岳彦君と、アシスタントの女の子と4人で貝塚に来て、撮影をしたら皆それぞれ帰っていく。わたしは他に仕事がないときは基本的に貝塚にいるようにして、そのあいだは毎日北出さんのところに通って、食卓で過ごしたり、地域をうろうろしたり、集まりやイベントがあるとそこに顔を出したりしていました。
撮影は、北出さん一家の日常を撮らせていただく、といっても、家まで入り込んでカメラを回すということはやはりご家族にはすごく負担になるので、1日ずっと回し続けることはせずに、何か起きそうな時にすぐに動けるように待機し続けました。基本、わたしがひとりで北出さんのところにいて、何か気配があるとスタッフに来てもらってカメラを回し始めたり、カメラを回さずに4人で食卓にずっと一緒にいて、ばぁちゃん(母の北出二三子さん)とテレビを見ながら雑談したりして、何かが起こりそうだな、というとちょっと撮影を始めたり、というスタイルです。
――初めて北出さんたちとお会いになってからカメラを回すまではけっこう時間がかかりましたか。
纐纈 映画を作らせてほしいと言ってから了承をいただくまでは、半年くらい時間がかかりました。撮影自体にだいたい1年半、トータルで約100時間撮っています。
――そのようにして撮られた映像を編集なさる際にはどのようなご苦労がありましたか。
纐纈 今回の場合は、なんといっても最後の屠畜作業からクランクインだったことです。映画のオープニングで屠畜見学会(2011年10月)がありますけれど、北出さんたちにとってあの日が最後の作業になる予定だったので、使用目的があるわけではないけれども、とにかく記録させていただけないかということで、本橋さん(写真家、プロデューサー)が写真を撮り、ムービーもまわさせていただいたのです。その時は映画にしようとは考えていなかったんです。もう終わってしまうわけで、わたし自身としては「間に合わなかったか」というところから始まりました。
でも、その見学会が終わった日の夜に「やっぱりこれを映画にしたい」、「しなきゃいけない」と思って。見学会ではなく、あの屠場で、家族だけで淡々と行われてきた作業としてもう一度最後に撮影させてほしいと思って、それで翌年(2012年3月)、屠場を閉鎖する直前にもういちど、最後の屠畜作業をしていただいたんです。
5年前、大阪のある屠場を見学したときから、屠場に関する映画を作れたらいいなとずっと思っていました。でも同時に、単なる屠場や屠畜の記録にはしたくない、という思いがありました。生き物の生死をあつかう映像を扱うことは容易ではない、なぜ、どういう目的で見せるのか、という確固とした考えがない限り、手を出してはいけないものとも思っていましたし、できた映画が、屠畜業に関わっている人たちにマイナスなものになってしまったら元も子もないので、その責任はとても大きいと感じていました。
でもそんな大きな課題がある中で、北出さんたちの映画を作りたいと思えたのは、新司さんや昭さんと話していた時のことです。今やナイフ一本で牛を解体していく作業を、現役でできる方は本当に少ないと思うんですね。でも、お二人とも声を揃えて「いやいや、自分たちにとっては小学校のときから親父に叩き込まれて自然に身につけたもので、日常の仕事の一部ですよ。なにも特別なことではありません」とおっしゃった。その時に、わたしは屠畜を彼らの日常という側面から描くことで、はじめてお客さんにも観てもらえる映画になるのではないかと思いました。特殊な技術とか、特別な場所、特別な人として、ではなく。
しかし、1回限りの屠場の仕事になってしまったので、その日常性をどう出せるか、という点では難しかったですね。いろいろ悩みましたが、ある時、わたしが北出さんたちにはじめて出会ったときから理解を深めていく過程と同じ構成で見せられないかと考えました。
屠畜見学会を最初に見て、「おーっ」て。見るだけでせいいっぱい、圧倒されてあっという間に終わる。そこから始まって、北出さんたちのお仕事や、どんな家族でどんな時間を過ごしていて、どんな雰囲気なのか。そして北出さんたちがいる地域は、どんな歴史を背負っていて、だからいまここに自分たちがあって……ということをわたしが知っていったようなかたちで追体験してもらって、それで最後の屠場の仕事を見ていただく、という構成にしていったんです。
――屠畜の場面についてですが、纐纈さんご自身は高架レールでライン化された屠場や屠畜に関する具体的な知識もおありだと思うのですけれど、何も知らない観客に提示するとなったときに、ナレーションでの説明については、どの程度必要だとお考えになったのでしょう。
纐纈 屠畜作業にはナレーションを一切付けませんでした。解説を入れた方が理解しやすくなるんじゃないかという意見もあったんですけど、わたしは、あの作業はただただ見てほしいというか、分からなくてもいいから、じっくり丁寧に見ていただきたいと思いました。最初の見学会の方では、緊張感と衝撃を、思わせぶりなことはいっさいせずにストレートに簡潔に見ていただきたかったんですね。
基本的には、わたしはナレーションをつけることはしたくないんです。映像から読み取ったり、感じ取ったりするその連続性が重要で、それがひとつの物語になるし、時間の流れになるというのが、映画としては大事なことだと思っていて、そういう映画を作りたいと常に思っています。
でも、わたしが撮りたいと思った人たちが向き合っている問題というのが、いつも大きなものとして立ちはだかっている。『祝の島』では原発問題であり、今回の『ある精肉店のはなし』では、差別問題である、ということですね。それに対しては、映像で読み取っていくことだけではなくて、そこにプラスアルファの情報がなくてはならないという苦渋の選択がありました。
そこには葛藤があるけれども、今回に関しては、わたしが「映画としてこういうふうにしたい」ということよりも、北出さんたちのいままでのことや、いま置かれている境遇を表すために何が必要かを伝えることに徹しよう、ということで、ナレーションをつけることを選びました。
――例えば、第三者にナレーションを頼む、という選択肢はなかったのでしょうか。
纐纈 今回の場合は最初から覚悟を決めて、ヘタでも自分でやろうと思っていました。ナレーションの言葉自体を、わたしから見た北出さんやその地域、という視点から発していく、それが見る人と映像との距離感をはかる上で重要になると考えました。
例えば被差別部落や差別問題を捉えようとすると、範囲は広いし歴史は深いし、地域によっても様々な違いがあります。個人によって受け取り方も体験も違うわけですよね。それを1つに大きく括ろうとすることはとても危険というか、それは私がするべきことではない。だからあくまでも自分に見えた世界、自分が出会ったものというところから外れていかないようにしよう、だからナレーションも自分でする必要がありました。それが北出さんたちにとってもいちばんのディフェンスというか、ガードになるのではないかというのもありました。