【Review】『アイ・ウェイウェイは謝らない』 「世界の中にある中国」「中国の中にある世界」への挑戦 text 松井茂

アイ・ウェイウェイサブ4b『アイ・ウェイウェイは謝らない』より ©2012 Never Sorry, LLC. All Rights Reserved


どういうわけか、僕は、アイ・ウェイウェイの書評をこれまでに2度書き、今回ドキュメンタリー映画『アイ・ウェイウェイは謝らない』の評を3度目のテキストとして書いている。「どういうわけか」という理由は、恥を忍んで言ってしまうと、この人のことを依頼をうけるまでよくわかっていなかったからである。アイ・ウェイウェイは何をする人なのか? 何をしたい人なのか? アーティストなのか? アクティビストなのか? 言ってみれば悪ふざけがすぎやしないか? 等々考えていた。

アイ・ウェイウェイが、圧倒的な芸術家であり、圧倒的な思想家であり、圧倒的な詐欺師でもあることは、矛盾せずに同居している。そして、こうした輻輳せざるを得ない立場が見えるのが、今回の映画の良いところだと思う。

とにかくコトは単純ではない。私たちはまず中国を知らねばならない。「世界の中にある中国」、「中国の中にある世界」を、である。中国が世界文明に冠たる歴史発祥の地のひとつであることに想いを馳せながら、同時に、近現代の人権や文化政策、経済状況を考えなければならない。とはいえ、中国と世界の間の情報は、金盾(きんじゅん)と呼ばれるネットワークの検閲システムによって遮られている。中国からすれば、国内の情報を世界に出さないし、世界の情報を国内に入れないことが政策である。いわゆる世界の側からすれば、中国の情報を外に暴き出そうとし、世界の情報を中国に注入しようとせめぎ合っている。完全に真逆の価値観に立つ者たちが、情報のトレードを行う最前線(アヴァンギャルド)でイメージゲームを展開し、結果的には双方向に遮断がある。

第二次世界大戦後にアメリカを中心とする自由主義陣営と、ソビエト連邦を中心とする社会主義陣営の対立が冷戦として展開した。こうした情報戦が、情報社会のインフラストラクチャーを形成し、メディア技術を世界中に整備する。1970年代頃から、冷戦における戦闘の単位となった「情報」という概念を分母とする表現が、コンセプチュアル・アートとして登場した。また、メディア技術自体は軍用で、民生化するのは冷戦後であり、ネット・アートやGPSを利用したメディア・アートの登場は1990年代になる。

アイ・ウェイウェイの仕事を捉え直すと、基本的には冷戦によって生じたコンテクストの延長にある新たな戦域の展開である、と思われる。世界と中国、中国と世界の境界面の出来事は、現代の最前線(アヴァンギャルド)なのだ。それ故に、冷戦期にアメリカでアートを学んだアイ・ウェイウェイにとって、コンセプチュアル・アートの手法は、中心的な戦術である。私見では、こうした表現手法は少々わざとらしく、古くさく見える側面もある。

現代の最前線(アヴァンギャルド)は、アジアにとっての現代とヨーロッパにとっての近代を問う問題であり、東西問題に加えアジア問題が入り組む布陣で展開する。挙げ句の果てに、アイ・ウェイウェイの行為は「世界の中にある中国」「中国の中にある世界」、いずれに対しても思想の表明と実践で向き合うことになる。それが、今回の映画や、多く刊行されているアイ・ウェイウェイの書籍などを通じた私の理解である。つまり、アイ・ウェイウェイの仕事は、「自由」の意味を伝達する表現行為の探求であり、「世界の中にある中国」では芸術家であり、「中国の中にある世界」では政治犯と呼ばれることになる。

こうした状況は、自由主義に基づく個人主義の意義をあぶり出してくる。一元的な価値観をふりかざしても意味が無い。実際、中国には問題があるだろう。しかし、東西冷戦が終結し、現在のアジアにおける個人や自由の象徴を、芸術という概念で読み解けば事足りるかのようなことも違う話ではないか。それは、ハンス・ウルリッヒ・オブリストによる「アイ・ウェイウェイは語る」(みすず書房、2011年)に感じられた違和感でもある。私には違和感としか言いようがない。自由主義の尖兵としての中国人アーティストというような扱いだろうか? 実際には「世界の中にある中国」「中国の中にある世界」、いずれに対しても向き合う「自由」もあるのだ。もっともアイ・ウェイウェイ自身はオブリストさえも利用するわけだから、私が違和感を持とうが、持つまいが関係はないのだが。

アイ・ウェイウェイの仕事の面白さは、手当たり次第、使える戦術を使うことにある。その理由は、繰り返しにもなるが、「世界の中にある中国」に対しても「中国の中にある世界」に対しても違和感を持っている点にあるだろう。あらゆる既成概念への疑念を抱え込む。「世界の中にある中国」に対しては「中国の中にある世界」を根拠に、「中国の中にある世界」に対しては「世界の中にある中国」を根拠に絶えず換喩していく。《コカコーラのロゴが入った漢時代の壷》(1994年)などは、「世界の中にある中国」「中国の中にある世界」への両義性の持ち方が鮮やかな詐術となって、二項対立自体を包含する好例となっているだろう。

こうしたイメージゲームが展開している場は、二項対立の境界線上にあるのだが、アイ・ウェイウェイの解答は、どちらかを選ぶ「自由」ではなく、いずれに対しても向き合う、一網打尽の「自由」だ。私自身にこうした解釈を促したのは、実は、映画『アイ・ウェイウェイは謝らない』よりも牧陽一編著未未読本」(集広舎、2012年)に収録された、宮本真佐美によるテキストと、インタビュー「自由とは具体的なものだ」だった。ちなみにこの本自体、極めて優れたドキュメンタリーであり、編著者たちが、現在の世界をアイ・ウェイウェイを介してどのように読み、問題として捉えているのかを見事に表出したアンソロジーになっている。中国を介し、アイ・ウェイウェイを介した世界の眺め方の提案である。

映画『アイ・ウェイウェイは謝らない』では、2008年の四川大地震に端を発した、《公民調査》プロジェクトの映像が多く見られるのが興味深い。このプロジェクトは、アイ・ウェイウェイがスイスの建築家ヘルツォーク&ド・ムーロンに協力した《鳥の巣》を会場にした、北京オリンピックの開催と同時期に始まる。アイ・ウェイウェイにとっては、《鳥の巣》は、中国政府に依頼された仕事ではなく、ヘルツォーク&ド・ムーロンに要請された仕事である。しかし、この問題もまた、「世界の中にある中国」と「中国の中にある世界」の境界に立った、両義的な問題を孕んでいた。映画は、あまりこの問題には立ち入らなかったが、私見ではバランスを失している印象をうけた。より正確には、アイ・ウェイウェイ自身の振れ幅を取りあげきれない位置からの視点に監督が立っているのではないかと思われた。


アイ・ウェイウェイサブ1b『アイ・ウェイウェイは謝らない』より ©2012 Never Sorry, LLC. All Rights Reserved



とはいえ、私がこの映画でアイ・ウェイウェイの《公民調査》をめぐる活動を深く知ることができたのは収穫だった。そしてこの事件は、アイ・ウェイウェイを決定的に「世界の中にある中国」と「中国の中にある世界」の間で、芸術家と政治犯の両極に引き裂いていく。そして映画は、英雄的な芸術家像を主題に編集されていく。母は子供を誇りに思いつつ、悲しみ、妻とは別の女性との間に子供がいる。それもまた事実である。しかし、オブリストによるアイ・ウェイウェイのように、西欧の自由主義、個人主義的な芸術観による、口当たりのよい英雄像が提案されているような気がするという見方は、意地が悪すぎるだろうか? もちろんこの映画は、「中国の中にある世界」ではなく、「世界の中にある中国」だけを想定し、中国以外の世界で上映される。そこにアリソン・クレイマン監督の意図があることも理解できるし、それはそれで必要だ。

この映画を観て、アイ・ウェイウェイを考え、私自身どこにいるのだろうか? なにものだろうか? どこへ向かっているのか? 様々な自問自答を迫られる。フェアな視点などありえないのだ。芸術と政治を切り分けることもできない。自由主義の自由だけが自由ではなく、さまざまな自由が想像できる。こうした思考のスプリング・ボードとして、私はアイ・ウェイウェイを発見しつつあるように思う。アイ・ウェイウェイを考えることが現代を考えることになる。彼自身の作品や発言、フリッカーやツイッター、書籍、展覧会、カタログ、膨大な動画、そこに表出されているものは、一元的な近代化を価値としない、ブランド化不能な、強烈な「自由」、まつろわぬ精神である。アイ・ウェイウェイの90年代からの友人で、現在も活動を共にする中国を代表するロック・スター、左小祖咒(ズオシャオズージョウ)に言わせれば、「自由」は「きっつーい」のである。「自由」を問う姿勢を疎外するものと、アイ・ウェイウェイは徹底的に戦う。問うことは表現形式の問題として、芸術にも政治にもなり得る。アイ・ウェイウェイを好きか嫌いかで語ってもはじまらない。それが現代である。

「艾未未読本」の中に次のようなコメントがあった。ルーマニアのノーベル賞作家、ヘルター・ミュラーが、アイ・ウェイウェイに「ツイッターでもいいし、インターネットでもいい、あなた方はその力を強調、誇張しすぎではないですか」と述べたという。これに対して、「もし我々が真っ暗な部屋にいて、この蝋燭しかない時、我々は必ずこの蝋燭に火を灯す。なぜなら他に可能性がないからだ。それが中国の状況なのだ」と答える。

蝋燭を灯すことは表現であり政治である。これはロマン主義的な、ヒロイックな感傷でもなんでもない。繰り返しておけば、アイ・ウェイウェイの仕事の面白さは、手当たり次第、使える戦術を使うことにある。「自由」にやれることを片っ端から試していく。これを単なるアート・ヒストリーの一側面として捉え、コンセプチュアル・アートの手法は古くみえると言ってもはじまらないことに気がつく。むしろアイ・ウェイウェイを通じて、現代において自由を表現することは、芸術と政治の不即不離を認めたときにはじめて可能になることだと教えられる。

アイ・ウェイウェイはいまや、現代のビッグデータである。彼の活動をベースにした展覧会がキュレーションされ、ドキュメンタリーやアンソロジーが編集される。これによって見えてくる世界の断面図は、鮮やかなものもあれば、ステレオタイプのものもある。アリソン・クレイマン監督の編集は後者だ。私にはこれといった逡巡も感じさせない構成が、ステレオタイプに物語を形成しているように思われた。本作は様々な賞も受賞しているが、それはひとえに題材となったアイ・ウェイウェイのアクチュアリティへの称賛だろう。監督にはこれからもアイ・ウェイウェイを撮り続けてもらいたいと思う。そこに監督自身の発見が発現するのか、しないのか?

とはいえ、この映画に登場するアイ・ウェイウェイ自身の言葉や表情や活動には、テキストや情報だった知識を血肉化するインパクトがあった。『アイ・ウェイウェイは謝らない』を、未未読本」「アイ・ウェイウェイは語る」とあわせて観ることで、誰もが現代の問題を内面化することができるはずだ。四川大地震の問題は、いまの日本に置換すれば「特定秘密保護法」の問題を考える有効な手立てになるはずだし、欧米を経由したアジア圏の普遍性を考えるきっかけになる。アイ・ウェイウェイが指摘する通り「自由は具体的なもの」であるべきなのだ。


アイ・ウェイウェイメインb       『アイ・ウェイウェイは謝らない』より ©2012 Never Sorry, LLC. All Rights Reserved


【上映情報】

 『アイ・ウェイウェイは謝らない』
(2012年/アメリカ/91分/カラー/デジタル/ビスタ/5.1ch/中国語‣英語)

原題:Ai WeiWei:Never Sorry
監督・撮影・共同編集:アリソン・クレイマン
製作:ユナイテッド・エクスプレッション・メディア
製作協力:ミューズ・フィルム&テレビジョン
出演:アイ・ウェイウェイ 他 アイ・ウェイウェイに関わる様々な人々
日本語字幕:石田泰子/字幕監修:牧陽一
配給:キノ フィルムズ
宣伝:FTF
宣伝協力:フリーマン・オフィス

渋谷・シアターイメージフォーラムほか 全国順次公開中

公式サイト:http://www.aww-ayamaranai.com/index.html


【書籍情報】

ウェイウェイ本書影「艾未未読本」
牧陽一 編
発行/集広舎 発売/中国書店
A5版/並製/386頁
定価2940円(本体2800円+税)

出版社サイト:http://www.shukousha.com/
☆集広舎のサイトでは、アイ・ウェイウェイの映像作品を配信で連続公開しています!

 

【執筆者プロフィール】

松井茂(まつい しげる)
詩人。東京藝術大学芸術情報センター助教。1975年生まれ。近年は、テレビジョンと現代美術の影響関係について国内外で研究、発表、上映をしている。伊村靖子との編著『虚像の時代 東野芳明美術批評選』(河出書房新社、2013年)、川崎弘二との編著『日本の電子音楽 続 インタビュー編』(engine books、2013年)。この12月、1月に上映会「テレビジョン再検証2・洗礼:テレビマンユニオンの表現」を開催。http://amc.geidai.ac.jp/1842