【Review】飯舘村を考える―『飯舘村 放射能と帰村』と『わすれない ふくしま』text 岩崎孝正

『飯舘村 放射能と帰村』より ©土井敏邦

福島県相馬郡飯舘村は、阿武隈山系の北部にある人口約6000人、世帯数は1700戸の小さな村である。夏は阿武隈高地からヤマセが吹き、冬は寒さがとくに厳しい。数年に一度は不作が訪れるといわれる村である。厳しさとともに歩んだ村は「までいライフ」という生活実践を生み、事故後、標語は全国的に広まっている。

まるで四季にとけこむように暮らしていた村民たちを混乱に陥れたのは、福島第一原子力発電所の事故後である。突如として降りかかった高線量の放射性物質の影響により、2011年4月11日に計画的避難区域、その後、2012年7月17日、避難指示解除準備区域・居住制限区域・帰還困難区域に指定され「全村避難」となった。村は以後、放射性物質の影響から土地で生活することが出来ない。

飯舘村を舞台に、二つのドキュメンタリー映画がつくられた。故郷を失った彼らはいまどのような生活を送っているのだろうか。戦後、原発事故により居住を制限された村はない。不名誉な称号を与えられてしまった村の者の生活を、映像によって記録する貴重な試みである。

『飯舘村 放射能と帰村』は土井敏邦監督、『わすれない ふくしま』は四ノ宮浩監督、ともに飯舘村を主な舞台としている。土井監督は主に長谷川さん一家、志賀さん一家を取材している。四ノ宮監督は飯舘村の高橋さん一家、相馬市の酪農家である菅野さん一家、浪江町のエム牧場の吉沢さんを取材している。

故郷を喪失した者の言葉や身体はどこへ向かうのか。彼らの言葉は、時が経つにつれて重さを増すはずだ。

パレスチナ、沖縄、福島、そして民主主義—–土井敏邦監督『飯舘村 放射能と帰村』

飯舘村へ向かうルートはいくつかある。相馬から向かう霊山へと入る国道115号線、南相馬から向かう県道12号線、いわき経由だと国道399号線がある(ただし現在は通行止)。冒頭、土井監督の車両は県道12号線(原町川俣線)から飯舘村へと入る。2012年3月、カメラは、雪深い村の風景を映しだす。まるで、2011年の3月15日の雪のように、静かに積もる。この雪が飯舘村に高線量の放射性物質を運んだのだ。

『飯舘村 放射能と帰村』の登場人物のひとりである長谷川健一さんは、放射性物質の影響により、みすみす牛を屠殺処分しなければならない酪農家の一人である。彼は酪農家として自身のカメラで撮影した飯舘村を、写真展で紹介し、また、全国へ講演活動を継続するなどして状況を伝えている。自身の生活に根づいた言葉は、ジャーナリストの伝える言葉とは別の響きを持つ。土井監督の映像は、彼の野太い声ににじむやりきれなさや、悔しさをひろっている。

長谷川さん一家は、年の暮れ、前田地区へ車で自宅へと帰る。2011年12月31日、事故の終息宣言がなされたものの、誰もが不安を隠せない状況にあった。長谷川健一さんは、みなで食卓を囲んでいるなかで、言葉を探すかのように口を開く。「3月11日の地震から、牛(ベコ)の処分、それから避難……」。「前が見えないというのが、ものすごい不安だ」。「(酪農家の息子が別の土地で生活をはじめ)家族が、バラバラになって」。訛りが強くとつとつ語る言葉は、講演会で猛々しい声をふるう長谷川健一さんとは違った一面を見せる。祖父である利治さんは「悪い夢であれば良かったんだけどな」という。一家は、現実と夢の境のないような避難生活に心労を重ねていたはずだ。事故の収束宣言がなされた後でも、彼らは流転する日々を送っていたのだ。

『飯舘村 放射能と帰村』より ©土井敏邦

土井監督は、彼らの避難生活をやさしい眼差しでとらえるいっぽうで、不安や恐怖感、怒りの感情の対象をさぐっている。飯舘村の者は汚染により土地を失い、家族は離ればなれとなり暮らしている者が多い。村民たちをとりまく問題はどこにあるのか。その追及は、第二部の「除染」でなされるのだが、その前に、土井監督はなぜ飯舘村を取材したのかをみよう。中東をフィールドワークしてきた土井監督は、なぜ日本の飯舘村をテーマに映画を撮影するにいたったのか。

彼の「日々の雑感」というブログに「『沖縄への旅』報告(1)“パレスチナ”と“オキナワ”そして“フクシマ”」と題し、つぎのようにある。

「“パレスチナ”と“オキナワ”は『生まれ育った家や土地・故郷を奪われる』という共通の接点があります。ならば、大津波によって一瞬にして家も故郷も奪われた東北の被災者たちも同じではないか──そのときやっと私の中に、“パレスチナ”を追ってきた自分が東北へ行く“意味づけ”ができたのです。(略)“伝え手”として、家や土地、故郷を失い人たちの“痛み”を他の日本人に伝え実感させるには、故郷で生きている住民の“生活”と、まさにこれから故郷を追われようとする人びとの“思い”が見えていないと難しいのです。それをきちんと記録し伝えようとすれば、まだ避難前で住民の“生活”が存在し、これから避難を余儀なくされ、その過程が見えていることが重要な要素となります。それが、事故から1ヵ月後にやっと『計画的避難区域』の(ママ)指定され、その後も実際の避難まで1ヵ月以上もかかった飯舘村だったのです」

http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20130205.htmlより)という。

パレスチナ(ガザ地区)、沖縄、福島の問題は、歴史的な経緯は違う。だが監督はここで重要な問題を語っている。目をひくのは、「生まれ育った家や土地・故郷を奪われる問題」としての「パレスチナ、オキナワ、フクシマ」だ。

たとえばパレスチナのガザ地区は、イスラエルによる占領によって先住者たちが難民化している。沖縄は日米安保条約と、米軍基地問題によって身代わりとなり土地を収奪された。福島県は、原発問題である。

監督の語る「パレスチナ、沖縄、福島」は、いずれも「生まれ育った家や土地・故郷を奪われる問題」ということは明白である。ただ飯舘村は、過去のパレスチナや沖縄のように、軍の暴力で土地を収奪されたわけではない。問題は、権力の姿が数十年の間に変化し、見えにくくなったことにある。土井監督のドキュメンタリーが貴重なのは、問題を現在進行形の民衆の歴史として記録しているからだ。中東をフィールドワークしてきた監督のするどい視点は本作でも生かされている。

土井監督は、本作の第二部「除染」でさらに深い問題に足をふみいれている。監督は、原発と放射能汚染を、政治と経済の問題として発展させているのだ。村の除染事業を通して、新たな村の再建と住民自治が、いかに結びつくのかをテーマにしている。除染事業は政府、企業、行政が主導しているが、とくに私が注視したのは、村民たちが自らの置かれた状況をどう考え、発言をしたのかである。

たとえば、2011年4月に山木屋地区で行われた説明会では、村民たちは東京電力に対して怒る。彼らは政府や福島県の放射線健康リスク管理アドバイザーに「100ミリシーベルトでも安全だ」と騙され、避難勧告もなく数か月間にわたり無用な被ばくをした。彼らが怒るのも、当然である。

第二部の「避難区域見直しに関する懇談会」で、村民たちは避難指示解除準備区域・居住制限区域・帰還困難区域の再編の説明を受ける。避難指示解除準備区域は、年間積算線量が20ミリシーベルト以下の地域、居住制限区域は、それをこえる地域に適用される。最後の帰還困難区域は、年間積算線量が50ミリシーベルトをこえるおそれがあり、5年たっても20ミリシーベルト以下に下がらない地域だ。福島県内のバリケードは帰還困難区域にあり、許可証を持たなければなかに入れない。だが、いずれも村民に不満があっても、もはや線引きは政府によって決定されている。村民たちは会場で自らが置かれている状況を発言する。だが、彼らは杓子定規に決まっている条件を一方的に飲まされるという立場は変わらないのだ。

さらに「前田地区 除染作業実施のための住民説明会」だ。除染事業も避難区域見直しと同様、もはや政府によって決定されている。村民たちはここでも一方的に条件を飲まされる立場なのだ。原発事故→避難→避難先の決定→避難区域の再編→除染→避難区域の再編→……と、村民たちは帰村するまで、終わらない禅問答をくりかえしてしまうのだろうか。

実は、いずれも村民たちは意思決定のプロセスに参加していないのだ。問題を決定しているのは、つねに国、政府、県、隣接する市町村の者たちである。原発の運転開始は、過去の双葉郡が決定している。避難区域の再編は政府による決定である。除染事業は、政府、企業、行政の三つ巴の思惑によって決定されている。ここに欠けている存在は、実は村民たちなのだ。

『飯舘村 放射能と帰村』より ©土井敏邦

ほんらい、意思決定には民主主義的なプロセスがあるはずだ。つまり、原発の立地・避難問題・除染事業のいずれも、村民たちの意志を反映した議会の決定により成立し、実行させなければならない。だが村民たちは、問題の当事者であるにもかかわらず、プロセスに参加できないまま周縁化されてしまう。

むろん立法するのは国会だ。避難先の土地を約束したのは、県である。だが、いずれも村民たちはプロセスに参加できない仕組みなのだ。

私たちは、過去のパレスチナや沖縄を参照することにより、村に降りかかった未曽有の事態を克服する想像力を養うことが出来るのではないか。なぜなら、遠かったはずのパレスチナや沖縄が、福島の原発事故後、いずれも目の前にある地続きの問題として浮びあがっているのだから。飯舘村は、私たちの民主主義という制度の問題をあぶりだしているのだ。