【Eassy】映写機とともに~『旅する映写機』に寄せて text 永吉洋介

永吉洋介さん b永吉洋介さん

裏通りにある寂れた名画座であれ、最新のピカピカのシネコンであれ、スクリーンと座席だけの空間こそが映画館の中心であって、スクリーンの大きさやソファーの快適さ、完全入替制、自由席と指定席といった座席システムは話題になるわけですが、その隣にある映写室、そこで用いられる映写機に関心が向けられることはほとんどありません。森田惠子監督の『旅する映写機』(2013年)は映画館によく足を運ぶ人でもあまり知らない映写機、そのなかでも35ミリフィルムの古い映写機とそれを扱う裏方の人たちに光を当てた映画です。映写機が「旅する」というのは映画館が新しくオープンする時、閉館した映画館から古い映写機を譲ってもらうということで、この映画はそうした映写機の旅を辿ること、また古い映写機を探し出す旅を通して、経営に苦労しながらも、様々な場所で映画上映に情熱を持って取り組む人たちを見つけて、その姿を描き出します。『旅する映写機』は1月25日(土)から31日(金)まで大阪の第七芸術劇場にて、また2月22日から横浜黄金町のシネマ・ジャック&ベティにて公開される予定です。

さて、この映画には映写技師の永吉洋介さんが特別協力として参加されています。(パンフレットでは「名機」とされる様々な映写機について詳しい解説をされています。)永吉さんは移動(出張)映写を専門にする鈴木映画で仕事をされた後、NPO法人が運営する「深谷シネマ」(埼玉県深谷市)を館主の竹石研二さんと二人三脚で支えてきました。当初は映写機の案内人として、この映画に登場する構想があったようなのですが、観客の前には姿を現さない映写技師らしく、映画に出演することはありませんでした。今回、『旅する映写機』の上映にあたって、映写機と共に過ごした青年時代について寄稿いただきました。
(藤田修平)


映写機とともに~『旅する映写機』に寄せて  永吉洋介

私は現在、自分のことを「映写機マニア」と称して、名画座・飯田橋ギンレイホールの映写機保存活動のお手伝いをしています。映写機が次々と廃棄されていくなかで、出来るだけ映写機を救いだして、後世に残していこうという活動です。そうしたことに関わっているぐらいだから、昔から映写機が好きだったと思われるかも知れませんが、そうではありません。父親が機械関係に全く興味がなかったこともあり、プラモデルやミニ四駆にも興味持たず、どちらかというと機械音痴な子供でした。小中学生の頃に、体育館で行われていた映画上映会でも、自分の後ろにあった映写機の存在など気にもしませんでした。

映画がフィルムで上映されているということを初めて知ったのは、宮崎の映画館でアルバイトをした大学3年生の時でした。それまで映画館というのはテレビの巨大版という印象で、ビデオ(VHS)の上を行くハイテクな装置で上映しているのだろうと想像していたのですが、実際ははるかにローテクな仕組みで上映されており、フィルムの物量とフィルムを映写機に掛けたり、外したりといった労力に戸惑いました。それは1998年のことで、もうすぐ21世紀になるというのに、なんて原始的なことをしているのだろう、と当時ですら時代錯誤に感じたものです。しかし、フィルムと映写機の歴史を知り、それが100年も変わらぬ形で続いていること、人間が手間隙かけて映写するというアナログさに惹かれていったのです。[注:映画の上映は35ミリフィルムの一コマ一コマに光を当てて、それをスクリーン上に拡大して投影します。]そんな自らの経験から、映写機の魅力を世代問わず誰もが感じることの出来るものだと思っています。完全デジタル社会に生きる100年後の人たちにとっても、紙と鉛筆の魅力は忘れられないだろうというのと同じと言えるかもしれません。


映写技師になるまで~宮崎を出て、福岡から東京へ

私はいわゆる「ビデオ世代」で、映画は家で見ることの方が圧倒的に多く、映画館に通っていた訳ではなかったのですが、上映する側に立ってみると、映画館という特別な空間の中で、お客さんを感動させることのできる仕事に高揚感を覚えました。また、大学時代に引きこもりになりかけた経験があったので、家から外に出て、映画館で映画を見てもらうことに社会的意義も感じたのです。それで映画館主を目指そうと思い、宮崎の大学(農学部)を中退し、福岡の映画館で本格的にアルバイトを始めました。そこの従業員は女性が多かったので、映写担当となり、69歳のベテラン技師さんに指導を受けました。

人見知りで、接客も営業も大の苦手でしたので、一人作業が多い映写担当になれたのは運が良かったと思います。映画館主になった時には、映写を自ら担当し、経費削減に繋げたいと考えていたので、映写の技術と知識を意欲的に学んでいきました。本屋で映写関連の本を探し(当時はまだネットもしていない・・)、映写技師に教えてもらえないことは独学で勉強しました。生まれて初めて興味を持った機械が映写機だったのです。

そのうちに映画館で学べることに限界を感じました。フィルム編集(繋いだりバラシたり)、フィルムの管理、フィルムチェック、映写機装填、映写機清掃といった最低限の操作しか許されないのです。それ以外のことはどんな小さなことでも業者を呼んで対応しなければなりません。それで、悩んだ末に映画館を辞め、転職を決意しました。映写機の会社も考えましたが、「最低でも電気工事士の免許がないと・・」と言われ、現実の厳しさを知り、映写について書かれた本にあった「映写技術連盟」という組織に電話で相談して、東京の鈴木映画という移動映写を行う会社を紹介してもらいました。鈴木映画は従業員を募集していなかったのですが、当時の私に熱意を感じてくれたのか特別に雇ってくれたのでした。入社したのは2000年7月のことで、「将来はデジタルシネマになるからフィルム映写を覚えたところで潰しが効かないぞ」と言われました。もうデジタルシネマの波は打ち寄せつつあったのです。しかし、私は100年の歴史を持つフィルム映写を覚えることを無駄だとは考えてはいませんでした。

福岡の映画館で基本的な映写技術を身につけたと思っていたのですが、そうではありませんでした。鈴木映画は(ホールや体育館といった映画館以外の場所で行う)移動映写を行う会社で、ほぼ全自動で行う映画館の映写とは異なり、何もない状態から映写機を設営し、フィルムを1巻1巻をほぼ手動で切り替えなければなりません。[注:映画を見ているとシーンの終わりごろに右上に黒い点が点滅することがありますが、それはリールの切り替えの合図です。]元々、映写のセンスがない自分にとって難易度が高く、何度も先輩から怒られました。また、大学時代にエコブームを先取りしていたせいで、無駄に排気ガスを撒き散らしたり、ガソリン使ったりしてはならぬ、という教えのもと、免許はあれど車にはほとんど乗っていない状況だったので、移動映写には必須である車の運転もままならず、苦しい日々が続きました。映写技師特有の見せかけのプライド(知らないことも知っている振りをする、出来ない事も出来る振りをする)を持つことも自分には出来ず、映写技師には向いていないことを痛感する日々が続きました。先輩からも「向いていないから辞めた方が良い」と何度かアドバイスもらいました。しかし、根性だけはあったからか「仕事を覚えるまでは」と続けました。そして、鈴木映画で働き始めて2年、鈴木文夫社長から「埼玉の深谷で映画館を始める男がいるから手伝ってみないか」という話を頂きました。

川越スカラ座の映写機(フジセントラルF7 平岡工業1967年製)               映画『旅する映写機』より 川越スカラ座の映写機(フジセントラルF7 平岡工業1967年製)©2013 Keiko Morita All Rights Reserved.


深谷シネマでの奮闘

「給料出ないぞ」と先輩からは止められました。しかし、映画館主を目指していた私にはまたとないチャンスだと思い、埼玉県深谷市への転居を決意しました。2002年7月のことでしたが、しばらく深谷では映画ボランティアのおじいさんの家に居候していました。やはり最初は給料が出なかったのです。それでも映画館が軌道に乗れば大丈夫だろう、と思っていたのですが、まともな給料になるまで1年掛かりました。

NPO法人として運営された深谷シネマは設備費用を寄付で賄おうとしていたのですが、思うように集まらず、仕方ないので映写機を私が購入して、映画館にレンタルすることにしました。そのレンタル代がしばらく生活費となったのですが、ある程度していた貯金は映写機購入にほぼ消えてしまいました。その映写機は鈴木映画で使っていたものと同じタイプの移動用の映写機(「新響」というメーカー)でした。

映画館で使う映写機はフィルムの交換や切り替えなどの人手のかかる作業を省くため、円盤(プラッター)を用いた半自動映写機か、12000フィート(フィルムにして2時間超)のリールを掛けることのできる大型の映写機を選択します。この頃も閉館する映画館が続出していたので、そうした映写機を譲ってもらえたはずですが、当時の深谷シネマは映画館に勤めたことがない人間の集まりで、映画館用の映写機の存在を知らず、映写機といえば移動用の(映画館の外に持ち出して使う)映写機だったわけです。

映画館で使うなんて考えられない映写機でしたが、新響は馴染み深い、いい映写機だし、もし映画館が駄目になっても今後の自分に役に立つだろうと思って購入したわけですが、結果的にそれが幸いしました。設営は独力ででき、毎日4回上映を手動で切り替えながら映写したので、(全自動の映写機と比べて)映写の技術は向上しました。また、構造がシンプルで、不具合を起こしても、試行錯誤しながら自分で対処できました。そして、2006年に映画館用の全自動の映写機をついに(閉館した映画館から)譲ってもらい、深谷シネマに導入した後は、その映写機を移動映写にまわすことができました。その結果、映画館の経営も楽になり、私の収入も増えて、新たな貯金も出来るようになりました。また、電気工事士の勉強をして、資格も取りました。(移動映写を行っている内に習得できたことが多く、映写機のお陰で資格を取れたとも言えます。)深谷に来た当初は未熟な映写技師だったのですが、失敗も困難も重圧も経験し、ようやく自分が映写技師になったような気持ちになりました。そうは言っても深谷シネマには最小限のスタッフしかいないため、映写中に他の仕事をする必要があり、人為的失敗が何度もあったことをこの場を借りて告白します。

映写機のトラブルも何度か経験しましたが、「映画の神様がいる」と感じたことも何度かあります。最も強く感じたのは移動映写の際に映写機が壊れた時です。ネジの緩みで接触不良を起こし、その部分が焼きついてランプが点灯しなったのですが、偶然にもその数週間前に予備の移動映写機を購入したばかりで、すぐにそれを取りに行き、本番に間に合ったのです。もし予備の映写機を購入していなかったら、もし現場が遠かったら、もし準備時間に余裕がなかったら、上映会が中止になっていたことでしょう。映画館での失敗や上映中止は、お客さんに謝罪したり、招待券を配布したりすることで対応はできますが、移動映写の場合は1日限りの上映会がほとんどであり、失敗も上映中止も許されることではないのです。移動映写は機材の準備、上映会場への移動、映写機やスクリーンの設営、と本番を迎えるまでも細心の注意と、そして「運」も必要なのです。


デジタル化の時代へ

そんな移動映写の仕事も年々減ってきました。デジタル化の到来です。地方の小さな上映会ではDVDやブルーレイ上映が主流になっています。ブルーレイ上映だと移動映写を頼まなくてもホールに設置されたプロジェクターで簡単に出来るのです。深谷シネマも2008年に簡易的なプロジェクターを購入して移動上映を始めましたが、フィルム映写機と比べると驚く程手軽で簡単です。(映画館での上映はセキュリティ重視のDCI規格というハリウッドが決めた規格に沿って行うことになり、難易度は高くなっています。)

地方の上映会が簡単になるのは良いことであり、デジタル化のメリットはその点にあると思いますが、やりがいが乏しいのも事実です。例えばブルーレイ上映だと必要なのは、プレーヤーとプロジェクターと映写台、モニター、ミキサーくらいで、電源は100Vなので壁コンセントからすぐにとれます。フィルム映写機だと、映写機2台に整流器2台、映写台、巻き返し機、シネマプロセッサー、ミキサー、と必要なものが3倍以上あります。電源も200V(単相)を必要とするので、分電盤から取り出し、映写機の傍まで電源ケーブルを這わせる必要があります。上映中もフィルム映写機はフィルムの切り替え作業があるので気が抜けません。機材の物量と作業量はブルーレイ上映とは比べ物にならないのです。クオリティに関しても、デジタルの場合は機材のスペックによりますが、フィルム映写機の場合は映写機の整備状態や調整による部分も大きいので、技師としてのやりがいも奥深さもあります。上映トラブルに関してもフィルム上映の場合は、人間の経験(知識と技術)でカバーできる部分が多いのです。

フィルム映写技師の仕事は視覚、聴覚、臭覚、触覚を使います。ピント(フィルム走行の振動で微妙にズレる映写機もある)がズレていないか、光は画面均一に出ているか、2台の映写機で光量に差がないか、フィルム装填は間違っていないか、各所に緩みはないか、などなど目でしっかり確認をし、音(走行音、ノイズ)に異常がないか気にかけ、映写機から油がこびりついた匂いはしないか、アセテートフィルムの劣化のサインである酢酸の匂いはしないか気にかけ、フィルムは硬いか柔らかいか傷んでいないか、巻きは緩いか固いか、各部分のテンションは適当か、ローラーの回転はスムーズか等々、指で触って確認します。特に年代物の映写機を使っている場合や、切れやすい古いプリントの場合は上映中も気が抜けません。

大心劇場の映写機(フジセントラルF-5 富士精密工業1954年製)と館主の小松秀吉さん映画『旅する映写機』より 大心劇場の映写機(フジセントラルF-5 富士精密工業1954年製)と館主の小松秀吉さん ©2013 Keiko Morita All Rights Reserved.


映写機は相棒であり仲間であり恩人

デジタル化によって、映写の仕事に対する意欲が下がっていき、深谷シネマではボランティアで働いても採算が厳しくなったこともあり、映画館主になる夢を諦めて、深谷シネマを退職しました。そして、実家のある福岡に帰って電気工事の仕事を探そうと思い、関東を離れる決意をしましたが、いざそうなってみると映写機に対して未練を持っていることを痛感し、映写機のお陰で貯まった貯金が続くまでは関東に残り、映写機に関わることを続けようと考え直しました。

それから2年半が経過しましたが、映写機は私にとってはやはり相棒であり仲間であり恩人です。私よりも長い期間、映写機に助けられてきた映画業界が恩を忘れ、映写機を廃棄していく現状を悲しく感じます。この2年半、関東に残っていたお陰で、映写機保存活動を行っているギンレイホールのオーナー・加藤忠さんと知り合うことが出来ました。加藤さんは17年ほど前に当時の社長が急逝し、閉館の危機にあったギンレイホールの経営を、請われて引き継ぎ、経営を立て直した方です。引き継いだ当時から古い映写機を捨てずに保管されていたようで、「映写機には映画を見たお客の感動が染み込んでいる。今まで陰で映画館を支えてきたこの産業遺産を廃棄するなんて信じられない」と加藤さんはよく言われています。

かつてギンレイホールで使われていた映写機は昭和20年代に作られたローヤルニューL型という、昭和初期の映写機業界をリードしていた高密工業が作った映写機です。もう60年近く経っている映写機なのですが、今でもたまに上映イベントで活躍しています。引退した映写機にも活躍の場を与えたいと、映写機職人に整備してもらい、上映をされているのです。

フィルムも生産されなくなり、現像所も縮小し、映画館はほぼ完全デジタル化し、映写機の活躍の場がなくなりつつあるのが現実なのですが、映画会社が廃棄しなければフィルムは残っています。フィルムセンターも数万本のフィルムを保管してくれています。フィルムや映写機も永遠ではありませんが、先人たちが作り上げてきた100年の歴史を持つ文化遺産を、出来る限り長く後世に引き継いでいって欲しいと願っています。

永吉洋介さんと森田惠子監督永吉洋介さん(左)と『旅する映写機』森田惠子監督

【映画情報】

『旅する映写機』チラシB『旅する映写機』
(2013年/105分/日本/『旅する映写機』製作委員会/監督:森田惠子)

監督・製作・撮影  森田惠子 
構成・編集  四宮鉄男
音楽 遠藤春雄
語り 中村啓子

2014年1月25日(土) より 大阪・第七藝術劇場で公開
2月22日より、横浜シネマジャック&ベティで公開

公式サイト:
http://www.eishaki.com/

【執筆者プロフィール】

永吉洋介(ながよし・ようすけ)
1977年福岡生まれ。宮崎大学農学部中退。宮崎及び福岡の映画館でアルバイトした後、東京の鈴木映画(移動映写)に2年、埼玉の深谷シネマにおよそ9年勤務。11年8月から現在までは東京でフリーの映写技師として活動中。映写機の歴史を調べることをライフワークに、ギンレイホールが行っている映写機保存活動を手伝っている。