この映画は、1組の夫婦、そして、二人の芸術家の物語である。
ニューヨーク在住40年の現代芸術家・篠原有司男、通称ギュウちゃん。
日本、戦後のアートシーンにおいて、前衛美術家としてトップへと駆け上がったが、満を持して渡ったニューヨークではなかなか受け入れられず苦戦。齢80にして、反骨精神を隠そうともせず、創作に命を燃やす。
有司男の妻であり、一人息子の母であり、アーティストでもある乃り子。
有司男の作家活動や生活をサポートしながらも自身の作品を作りたいという欲求の中で、葛藤の毎日を送る。アーティストとしての乃り子は、自身の分身としてのヒロイン<キューティー>と有司男を思わせる甲斐性のない男<ブリー>を操り、そんな葛藤の日々を、ドローイングとしてしたためている。
篠原有司男と乃り子、この映画の主人公である。
スクリーンに映し出されるのは、一筋縄ではいかない二人の愛と戦いの記録、そして、芸術家という人種のどこか刹那的で痛々しくもあり、スリリングでエキサイティングな日常だ。
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映画の冒頭、銀髪の髪を丁寧に梳かす乃り子のアップから物語は始まる。
どこか緊張を孕んだその顔は、芯の強さを感じさせる女性の顔であった。
映画は、そんな乃り子の視点から二人の日々と軌跡が語られる。二人の展覧会「Love is A Roar-r-r-r」が開催されるまで、4年に渡る濃密な日々と二人の関係を監督・ザッカリー・ハインザーリングが色彩豊かに描き出す。
映画の中の有司男の言動、その作品や生き様は、人を惹き付けるものがある。けれども、同時に、芸術家として生きてゆく苦しさをひやりと感じさせられる。迫力あるボクシングペインティングや(バイク彫刻に代表されるような)力強い作品群とは裏腹に、キャメラが捉える有司男やその生活、その過去は、時に、有司男の脆さを浮かび上がらせる。それは、命を削って創作にかける有司男の生き方を逆説的に物語っているようにも見える。
シーンの間に挟み込まれる過去の映像がそんな有司男の生き方をより一層際立たせる。例えば、有司男が渡米した頃のニュース映像。アナウンサーは淡々と話す。それは、有司男のスタイルがニューヨークにおいては、なかなか受け入れられなかったという事実。そのような中においても、有司男は、40年間、日本ではなくニューヨークを拠点として作家活動を続けている。あるいは、有司男がボクシングペイントをする過去の映像。映画の所々で披露される現在のアクションと比べると、やはり、老いを感じずにはいられない。それでもなお、アクションペインティングの可能性を探り、コンスタントに大作を発表し続けている。
こう見ると、有司男を取り巻く色々なことは、有司男が思うようにいかないことのほうが多い。それがもどかしくあり、そのような状況にあってこそ、有司男の反骨精神を垣間見ることができる。
そして、あるホームビデオ。若かりし日の有司男は、酒に酔い、泣き叫ぶ。「Nothig!何もないんだ!こんなにこんなに、、、」声を詰まらせ大泣きする有司男の姿は、多くの芸術家の苦しみを代弁しているかのようである。この映画を見ていくと、「何もない事」そのことが、芸術家としての創作の原動力になっているのではないかとも思わされる。
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そんな芸術家として生きる有司男という男の頼りなさ、生活力のなさは、日常の様子から否応なく伝わってくる。乃り子は、嫌々ながらも、そんな有司男のサポート役にまわる。そうして、やっと、生活だけでなく、有司男の作家活動も成り立つ。そんな乃り子の姿を、女の本能的な慈愛や母性というもので片付けようとするのは、あまりに乱暴だ。
彼女に対して「僕は旦那だから」と言い放つ有司男にとっては、乃り子がしてくれる多くの事は、妻ならそうして当たり前のことなのだろう。けれども、決してそうではない。そして、愛しているからできるのだ、と簡単に言いきってしまうこともできない。そこには、乃り子の内面的葛藤と篠原有司男という芸術家との戦いがあるのだ。それを示すかのように乃り子は、ぶっきらぼうに「あなたが情けないからよ。」と応える。
この映画は、そんな乃り子という女の強さと苦しみ、芸術家・母・妻としての葛藤を丁寧に掬いあげる。
子どものような有司男の妻と頑に無口な息子の母親という役割、芸術家としての篠原有司男のアシスタントという役割に振り回され、自分の作品に向き合う時間がないという状況は、想像に難くない。それでいて、妻や母という役割は簡単に放棄することが出来ない。そして、自分自身がやりたいことをしている人を間近に見ながら、自分自身はそのアシスタントに甘んじている。
「自分の作品を作りたい。」乃り子は、とても静かに語る。しかし、とても強い意思を持って。乃り子のそんな内側から湧き出るような欲求は、自分自身の過去や現在と向き合い作品へと昇華させようとする。この映画には、まさに、「作品を作りたい」という欲求から芸術家としての乃り子が、目を覚ます瞬間が収められている。
乃り子は、映画の中で、「<キューティー>は現実の私よりずっと上手にやってのける」というようなことを述べる。けれども、<キューティー>という表現をみつけた今の乃り子は、もっとうまく立ち回ることが出来るのではないだろうか。そう思わせる程に、映画の後半にかけ、乃り子は、変化していく。そして、自らも前に出るようになる頃には、前半とは違う輝きが顔に宿っている。それは、若かりし日の、乃り子に満ちていた輝きに似ている。「老い」だけでなく、取り戻されるものがあることを、シーンの間に挿入される過去の映像が教えてくれる(それは、多くの女性にとって、心強いものである)。
複雑な葛藤と役割に押しつぶされていた本当の乃り子を<キューティー>と<ブリー>という表現が救い出した時、有司男と乃り子は、同じリングに上がる事ができたのではないだろうか。本当の意味で彼らは、芸術家夫婦になってゆく。これはそんな過程としてもみることができる。乃り子が鮮やかな絵具をしみ込ませた(有司男がボクシングペインティングで使う)グローブで有司男に思い切りパンチをするラストシーンは、映像としても、そういう意味においても、力強くて美しい。
そんな乃り子を見ていると、苦しみや葛藤を経て成り立つ純粋な愛を、私たちはこの映画を通して発見することができるのである。
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ニューヨークで行った二人展「Love is A Roar-r-r-r」。
この<Roar-r-r-r>というのは、アメコミで使われる恐竜などの叫び声や雄叫びの表現である。二人は、自分たちの日々と作品を<Roar-r-r-r>という言葉に重ねた。
この映画から見えてくる有司男は、破天荒で天衣無縫な情けない男であり、この映画が見せてくれる乃り子は、そんな有司男に振り回されながらも自分自身を、そして、自分自身の芸術を探し求める強かな女だ。乃り子にとって、有司男との生活は常に葛藤であり、作品や自己と向き合う日々は、叫ぶような毎日であるに違いない。そして、もちろん有司男にとっても、ニューヨークでの生活はそうであっただろう。そんなカオスな二人の関係を、この映画は、淡々と軽快に、二人のクリエイティブで秘密に満ちた世界を描きだす。
けれども、それは、二人だけのパーソナルな話に終始しない。この夫婦の物語の中に描かれる感情や苦悩・葛藤は、私たちとずっと離れた遠くの世界の話では決してない。2人が生きる世界は、常に私たちのすぐそばにある。アートシーンに限らず、映画の中で描かれる二人を覆う諸々は、普遍的なメッセージである。
母や妻というその役割の息苦しさ、
女性が何かをやり遂げようとする時の難しさ、
自分がやりたくてもできないことを軽々とやってのける人の側にいることの悔しさ、
老いゆえの変化、
世間に受け入れられない空しさ、
先の見えない毎日を生きる切迫した不安、
情熱や希望、それにともなう失望、
そして、「愛」というものについて。
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二人の生活を通して見えてくることは、きっと、私たちのすぐ隣に、私たちの中に、まさにあり得ることで、泥臭くて生々しい現実である。ザッカリー・ハインザーリングが操るキャメラは、そんな泥臭くて生々しい現実を瑞々しいカットで映し出してゆく。そこに添えられる清水靖晃のサキソフォンののびのびとした心地よい響きは、映画の中の二人に彩りを添える。決して前向きなだけではないこの映画において、それでも、陰鬱な気分にならずにいられるのは、色彩豊かな映像と穏やかな音楽によるところもあるだろう。そして、なにより、キャメラの前で、取り繕う事のない二人の潔さこそが、二人を輝かせ、私たちを強く惹き付ける。
着物を着た乃り子と有司男が穏やかな顔で花見をするシーンがある。
桜の木の下に寝転がった有司男の隣に乃り子が座っている。有司男の顔に花びらが落ちるのを楽しむ乃り子は、この映画の中で一番穏やかな顔をしている。
その二人の姿は、昔のホームビデオの中の二人の姿にクロスオーバーしていくように感じる。そこには、年月を経た結びつきと、そこはかとない純粋な愛情が垣間見える。
「Love is A Roar-r-r-r」
叫びたくて、悔しくて、苦しくて、まったくもって理不尽な毎日の中で、二人はそれでも必死に戦いながら生きている。そんな二人の姿と複雑な感情に埋もれたまっすぐな愛情は、なによりも魅力的だ。
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『キューティー&ボクサー』 Cutie and the Boxer
監督:ザッカリー・ハインザーリング 出演:篠原有司男、篠原乃り子
2013年/アメリカ/82分/配給:ザジフィルムズ、パルコ
http://www.cutieandboxer.com/
★渋谷シネマライズにて公開中!(ほか全国順次公開)
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|プロフィール
成澤智美 Tomomi Narisawa
1987年生まれ。主に現代美術のフィールドで活動中。ビデオアートの制作、執筆活動の傍ら、アートキュレーショングループ『FLOR』の一員として、展示やzineのディレクションを行っている。