その部屋には一組の男女が横になっている。見覚えがある部屋だ。一目でわかる。その類いの部屋が私たちに与える印象は極めて複雑なものである。「高級」でも「二束三文」でもなく、それでいて一種の哀しみを漂わせ、来るべき愉楽への憧れと嫌悪感のちょうど中間の地点に私たちの意識を滑り込ませる。その部屋が私たちをそういった異様に入り組んだ感覚にさせることを、その部屋に入る前から私たちにはすでにわかっている。誰もが決して一泊よりも多くその部屋で過ごすことはなく、日中には誰もが眼をそらすであろう部屋。これほどいびつで、奇妙に捻れた部屋が一体ほかにあるのだろうか?しかも、私たちのほとんどはそのことに気づいてさえいないのだ。
その男女がビルの玄関からその部屋に辿り着くまでには多少の時間を要したはずだ。それをスクリーンが描写することはないとはいえ、私たちはその男女がどのような思いでその部屋への足取りを辿ったかということについて想像せざるを得ない。足取りは重かっただろうか、軽かっただろうか。エレベーターを使ったのであれば、果たして彼らはエレベーターの中で会話をしたのか。そこに会話があったことを私たちとしては祈らずにはいられないが、あったとすればそれはどのようなものであったか。想像は弾み、彼らが一体今日の昼間にどこにいて、朝が来てどこへ向かうかということについて、私たちは考え始めてしまうだろう。仕事はなんなのか。あるいは、これは日常的な出来事なのか、ある種の「情事」なのか。
あるいは彼らはこの部屋でのみ今私たちが見ているような姿を纏っているのであって、この部屋を出た瞬間に別の人間に変容するのかもしれない。彼らはいま仮にそういう風に見えているのであって、昼間は別の人間としての生を生きているのかもしれない。私たちはそういう風に想像をめぐらすのであったが、実際のところを私たちが知る時はついに訪れない。スクリーンに映し出されるのはあくまでその部屋と、その部屋にいる彼らの姿と、その部屋だけに流れている時間である。ほとんどピクリとも動くことはないカメラが、ただでさえ繊細そうな彼らの仕草を極めて生々しいものにする。
と、スクリーンにはテレビの画面が映し出される。女性は泰然とした表情で画面を眺めている。その女性を私たちは眺めている。テレビに映し出されるのは紛れもない、あの日の出来事である。そこで初めて私たちは彼と彼女が、自分と同じ世界を、少なくとも近い未来か近い過去、おそらくは同一の時間軸の中で生きていることに、その可能性に思い当たる。なぜいままでそれに気付かなかったのか。私たちは少しだけ不思議に思う。
「なんだかあたしたち、不謹慎ね」と彼女はつぶやいた。その言葉は部屋の暗さの中で少しだけ異化されたように取り残される。その発言はその部屋にはおよそ似つかわしくない言葉だ。けれども、誰かによって発せられるべき言葉だったようだ。その言葉が発せられることによって、部屋に流れていた散漫で持続的な時間は、一瞬凍り付いたように緊張する。
どこか舌足らずな彼女は、その言葉を、何か別の空間から引き継ぎ、それをまたいま彼女のいる空間へと投げ返すかのように発した。禁句だぜ、とでも言いたげな表情を、彼は浮かべている。彼女が出来事を眺めていたその同じテレビに、今度は別の、 全く異なる別種の映像が映し出され、彼女は電気を消す。ただでさえ暗い部屋はさらに暗くなり、二人は再びその部屋だけに流れる時間を過ごし始める。
同じ画面が、かくも別種の存在にすり代わってしまうことに私たちは驚く。と同時に、その全く異なる二つの映像と、いま、私たちが見ている映画が、同じカメラという機械によって記録されているということに戸惑いを覚えるかもしれない。
けれども、あの出来事から何度目かの揺れが、彼と彼女を再び、その時間から引き戻してしまう。スクリーンの中の男女はそれでも、その部屋の時間の中になんとか、どうにかしてとどまろうとしているようだった。 そうすることで、いまの自分たちの姿をできるだけ引き延ばそうとするかのようである。
一方で、映画館にいる私たちには、その揺れが現実のものでないことを頭の片隅で正しく意識しながらも、自分たちがついこの間、あるいは昨日、一時間前・・・いつか、近い過去のどこかの時点で遭遇したあの<揺れ>を追体験していることもまた認識する。その<揺れ>は、部屋の時間と外の時間を往復する映画内の男女と、映画館と映画館の外を往復する私たちとの心理的な隔たりを、奇妙な意味と方法で、幾分縮める。かくして私たちは<揺れ>によって彼らがいるその部屋と私たちがいる映画館との間に横たわるアナロジーに思い当たるのだったが、すぐに私たちは、その考えはあまりにもばかげているとともに、そうであったから一体何だというのであろう、と意識からそのアイデアを振り払う。けれども、その考えはもう頭から離れない。こびりつく。
「もうむりやりだよな」と幾度目かの行為のあとで、男性がつぶやく。とはいえ、それは快楽のはずである。その部屋では快楽しかおこらないはずであった。この日本の、どこにいようが、どれほど外の世界が不条理であろうが、 そこに行けば、一晩だけはあの気分に浸ることができるはずであった。その部屋は密かな情愛と親密さの記号として人知れずその機能を果たし続けてきたはずだった。けれども、今ではそうではないし、本当はこれまでも決してそうではなかった。これまでも、その部屋はどこか私たちを後ろめたい気分にさせてきたし、私たちは自分でも気づかずに、没入と言うよりは疎外感を、快楽というよりはいっそう激しくなる痛みをその部屋で受け取ってきたのだ。相手との関係が親密であれ、いささかの倦怠を伴うものであれ。考えがそこに至って初めて、私たちはその部屋が映画館のそれというよりも、世に存在するほとんど全ての四角い部屋のアナロジーとして機能し始めていることに気づく。
国映新作はかように痛切な物語であった。二作目は今岡信治氏が手がけるとのことであり、注目せずにはおれない。
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【映画情報】
『1BR—らぶほてる』
(2013年/日本/76分/カラー)
企画:朝倉大介 監督:大西裕 楽曲提供:宇波拓
脚本:深井朝子 出演:山岸ゆか、守屋文雄 配給:ポレポレ東中野
3/22より名古屋シネマスコーレ、今春大阪・第七藝術劇場ほか全国公開中
【執筆者プロフィール】
井上二郎(いのうえ・じろう)
1990年生まれ。雑誌MIRAGE編集、翻訳者。写真、映像を使って作品を制作。