【Report】 フィルムとビデオの先へ 「イメージフォーラム・フェスティバル2012」 text 中村のり子


今年も、GWにイメージフォーラムフェスティバルの東京上映を見に行った。わたしが見ることのできたのは6プログラム21作品、中国のアイ・ウェイウェイの2作品以外は日本の作品だった。持ち味の異なる映像を順番に見ながら、ぼんやりと頭に浮かんできたことは、アナログ/デジタルという質の違いの表出、であった。

たとえば、それが素朴な方法で表れていたのは佐藤健人作品『May』(2011)だ。自分と奥さんと娘という家族の日々をビデオカメラで撮り、次々と新作をつくっている佐藤だが、本作では8ミリフィルムが登場する。2年前まで住んでいたアパートを久しぶりに3人で訪れる場面に、当時撮った8ミリのホームムービーが重ねられると、時間のズレが浮かび上がる。フィルムの映像は肉眼の感覚に近いという通り、“記憶”や“過去”が似合う。この性質に素直に便乗し、8ミリという媒体の普遍性を見せている。そして、自分と家族が同じしぐさを繰り返すことを通して、時間の流れと自分たちの変容をゆるやかに示す。ラストは、自宅で8ミリ映写機をかけて3人で自分たちのフィルムを見るシーンで締めくくり、この短編を“物語”としてまとめている。映画愛の深い佐藤作品は、常に物語性を感じさせる。

  *大木裕之『ニホンノカテイ→』

対して、大木裕之作品『ニホンノカテイ→』(2012)である。友人知人の家族模様を思いのままにビデオカメラにおさめ、次々と感覚的につないでいった作品で、その無秩序な流れに巻き込まれるうちに全編が終わる。大木の映像作品は、“理解”しようとすると魅力がわからなくなる。その点に関して大木は確信犯的で、自分の現実における物事の認識と映像世界とを同期させるという試みをしてゆく。目の前の人びとや出来事を自ら知覚して、時間が進行していくこと(タイトルに加えられている『→』である)そのものを感じとろうとする作品だ。適当に撮影しているように見えるし、実際に大木自身は適当なのかもしれないが、彼の相手と関わる態度がワンショットごとに明快に現れるため、力が宿っている。そして強度を持たせるところ、外すところと呼吸のように自在な編集を経て、得体の知れないフォルムが出来上がる。しかし『ニホンノカテイ→』は『May』のように、一つのまとまりを見せることはない。大木は物語性を軽やかに拒み続けているのだ。その戦法は、デジタルビデオの殺風景な質感を得て加速している。

今回の上映作品の中で、8ミリフィルムを使って8ミリという媒体自体について追求することを、もっとも面白味をもって実現したのは金谷祐希『FU嶽三十六景』(2011)だろう。シーツを広げて作った野外スクリーンに映写機を向けて始まる本作は、まず富士山の見える景色について語る人びとによる風景論として展開する。そこに、いろいろな場所から見える富士山景がカットインされるのだが、新宿やら渋谷やらが出てくるにつれて様子がおかしい。これらの風景ショットは、大小さまざまに記録された富士山のシルエットを、無関係な風景に二重露光して作ったものである。日本において「富士山景」という共通イメージが、無根拠に説得力を持っているということに気づかされる。これだけでも本作は成り立ち得るのだが、実はこの要素は表層のしかけに過ぎない。いつの間にやら人びとの話は、同じ“富士”でもフジフィルムの「シングル8」という消えゆく規格へと移っていくのだ。ここ10年ほど、生産販売終了の方針が出るたびに映像作家たちが反対して生き延びさせてきた日本独自の8ミリ規格だが、とうとう生産を終えて現像の打ち切りも決まった今、シングル8を愛好してきた作家たちが次々に登場してその魅力を語る姿は一級の記録になっている。そして彼らの話を聞きながら、前半の富士山の二重露光がシングル8の特質の実例として思い起こされる。この有機的な構造を、インタビューまで8ミリで撮り切ってまとめ上げた金谷の手腕に驚かされた。何かそれ自体について語らなければならない時とは、その何かが終息していく時にほかならないということである。

20代の金谷が世代的には馴染みのない8ミリの方へ向かったのに対して、これまで散々8ミリで作品をつくってきたかわなかのぶひろ、萩原朔美といったベテラン勢が屈託なくビデオカメラで新作を重ねていることは興味深い。かわなかの『岐路 crisis』(2012)は、昨年3月11日の大震災の日をきっかけにしつつ、主題を自分自身へと移していく。がん治療のために声帯を取り除く手術が7月11日であるとつぶやきながら、かつて暮らした土地へと足を運ぶ。喫茶店でマスターと世間話をするかわなかの声は、人生最後の肉声の記録となる。いざ入院しても病室でカメラを回し続け、可愛い看護婦さんを逃さずキャッチする。そんな生活が淡々とつづられ、意識はふいに亡くなった原田芳雄へとつながる。昔かわなかが撮った、健在だった原田のしゃがれた歌声を聞きながら、本作は終わる。萩原の『目の中の水』(2012)は、こちらも病気を患い、目の硝子体を取り除いたことで起こった視界の変化について表した短編だ。静謐な水のゆらぎと、音楽の透明感のある響きが心に迫る。単に技術的に映像が美しいのではなく、おそらく萩原の身体にまつわる切実さ、張りつめた感情が作用している結果である。かわなかも萩原も、老いてゆく自分自身の現実に対して、ビデオカメラという現在の時代の媒体を使って向き合おうとする。人間の行動が生々しく現れるビデオの身体性が、彼らの志向と呼応している。

 *石田尚志+牧野貴『光の絵巻』

「アナログとデジタル」としてのフィルムとビデオは、その性質がはっきりと異なるため、つくる側にも見る側にも違った現象を引き起こす。その事実には自覚的であるべきだ。ただしその差異に固執して、“映像”という大きな主題を見失ってしまうと、この表現分野は小さく閉じてしまう。その意味で、今回もっとも過激な発想でこの境界を乗り越えていたのが石田尚志と牧野貴のコラボレーション作品『光の絵巻』(2011)である。石田がフィルムに描画したものを、牧野がテレシネ・編集して戻し、その刺激を受けて石田がピアノを奏で、牧野がドラムを叩いて一発レコーディングで完成したという。これは、フィルムとビデオそれぞれの個性を利用した上で、一貫して“映画”としての魅力を目指した作品だ。あまりにも尖鋭な二人の作家が意識と感覚をぶつけ合い、互いの限界を越えて高め合った果てに生まれた、最新形の“光”がはっきりと表れていることに絶句した。16分の映像は、めくるめく変化を見せながら進んでゆく。冒頭は、まさに絵巻のように横に流れていく線の動き、それが途中で逆方向に代わり、やがてフィルムを想起させる縦の動きへと移る。さらに次第に、直線的な動きではなくなり、面のような球のような気配がどんどんと外側へ向けて広がり始める。ピアノの旋律が美しい音楽は映像とぴったり息を合わせて、見る者の知覚を圧倒していく。いかにもこのストイックな世界の中へ没入してしまいそうになるが、不思議なことにそうはならない。特筆すべきは、この作品がしきりにフレームの外側を認識させる作用も持ち合わせているということである。スクリーンの枠の中に閉じるのではなく、そこから発せられる波動が客席に届いて広がっていく状況が明確に見えてくるのだ。この覚醒された拡張性に、牧野が常に言及している“プロパガンダではない自由で開かれた映像”や、石田の美術作品が示す空間の捉え方の、もっとも新しいかたちの実践を見る思いがした。

イメージフォーラム・フェスティバル2012 ~エマージング・リズムス~
ニューフィルム・ジャパン(招待部門)、ジャパン・トゥモロウ(一般公募部門)など

名古屋 6/13~6/16 愛知芸術文化センターにて

京都 6/16~6/22 京都シネマにて
横浜 7/14~7/16 横浜美術館にて
※チケットぴあ、ローソンチケットなどで特別鑑賞券を発売中


【執筆者プロフィール】 中村のり子(なかむら・のりこ)  84年生。明治学院大学文学部芸術学科卒。イメージフォーラム研究所で映像制作を学び、亡き祖父の過去を探った『中村三郎上等兵』が「第11回ゆふいん文化・記録映画祭」松川賞、イメージフォーラム2009入選。09年に「場外シネマ研究所」を立ち上げ、不定期で上映イベントを企画している。