Camera-Eye Myth : Episode.2 Fathers(1) / Heterotopia
朗読:菊地裕貴
音楽:田中文久
主題歌『さよならのうた』
作詞・作曲:田中文久
歌:植田裕子
ヴァイオリン:秋山利奈
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郊外映画の風景論(2)
ふたつの均質な風景
1. 均質な郊外
物質感のないプラスティックのようなテクスチャで、似たような住宅や街路樹がコピー&ペーストされたように並ぶ均質な郊外住宅。初めて訪れた土地なのに既視感を覚えるような、全国一律で差のない無個性で均質なロードサイド。この殺伐とした風景が、彼をあのような凶行へと駆り立てたに違いない——。こうした言葉を、誰しも一度は耳にしたことがあるだろう。社会学や建築における専門的な議論から週刊誌のゴシップ的言説に至るまで、郊外について語る上で「均質性」は必ずと言って良いほど登場する重要なキーワードである。そしてそれは、映画に描かれた郊外について考えるときにも例外ではない。
郊外と均質性を結びつける議論は日本発祥ではなく、アメリカの郊外(サバーブ)でもしばしばそのような見方が為されてきた。たとえば『シザーハンズ』に登場するカラフルな郊外住宅地を思い浮かべてみてほしい。晴天の青空のもと、パステルカラーで塗り分けられた似通ったデザインの住宅群と、きれいに刈り揃えられた緑の芝生の風景は、物質感や現実感が希薄な、のっぺりとした印象を観る者に与える。また早朝のシーンでは、ほとんど同じタイミングで家々のドアが開き、男たちがやはりパステルカラーに塗られた自動車に乗り込んで職場へ出かけていく。ここでは、住宅地の風景が均質化しているだけでなく、そこで暮らす人びとの家族構成や生活様式もまた均質化していることが示されているというわけだ。
均質性を持った風景は、美しく、清潔で安全だという印象を与える一方で、どこか無機質でよそよそしく、殺伐としているようにも見える。このうち前者を強調すれば、豊かで快適な理想の場所としての郊外を視覚化した映像になるだろうし、後者を強調するならば、不気味なほどに管理が行き届き、窮屈で閉塞感に満ちた病理の場所としての郊外を視覚化した映像となるだろう。均質性は、ユートピアからディストピアまで、郊外にまつわる様々な神話を産出する源泉なのだ。
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2. 二種類の均質性
しかし、ここで注意しておくべきなのは、『シザーハンズ』の住宅地のような意味での均質性とは異なる、もうひとつの均質性が存在するということである。
このことについては、建築家・原広司の『空間―機能から様相へ』に収められている「均質空間論」が参考になる。原は、近代に支配的な空間の捉え方として「均質空間」という概念を提出している。均質空間とは、「意味性、場所性を抽象して、自然から空間を切断したところに現れる操作可能な空間」のことであるが、それは建築の内部だけでなく、いまや都市空間全体にも見出せるものだという(p.41)。鉄道や自動車など交通メディアの発展による移動性の増大によって、これまで都市形成の基礎に据えられていた地域共同体や古い都市のあり方、その土地に固有の風土性といったものの重要性が低下し、その場所がそのようにしてあることの根拠が失われた結果、地域固有の場所性が失われて雑多なものが無秩序に遍在する「均質」な空間が出現してきたというわけだ。
『シザーハンズ』に見られる均質性が物理的な均質性であるのに対して、こちらは文脈的な均質性であると言えるだろう。本稿ではこの二種類を、アンリ・ルフェーブルの空間概念を借りて「イゾトピックな均質性」と「ヘテロトピックな均質性」として区別しておくことにしたい。「イゾトピー iso-topie」は類似した空間を意味する語で、もう一方の「ヘテロトピー hetero-topie」は、これまでその場所が持っていた物の配置の秩序が奪われることによって、共通な空間や座が失われた場所のことを指す。
日本において郊外化による風景の変貌が指摘され始めたのは60年代末から70年代初頭にかけてのことであるが、そこで問題とされたのは、どちらかと言うとヘテロトピックな均質性のほうであった。多くの郊外都市建設に影響を与えたエベネザー・ハワードの田園都市論(garden city)では、都市と農村の人工的な折衷や、人口を限定した自律した都市のあり方が提唱されている。しかし日本では結果的に、このうち前者だけを採用するようなかたちとなった。郊外には自律した小都市であるよりも大都市のベッドタウンとしての役割が求められ、都市と農村が「折衷」するのではなく、たんに「混在」しているだけというような、ヘテロトピックな風景が各地に拡大していったのだ。
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