【Interview】必要なのは自分の信じることを続ける勇気ですよ――『不機嫌なママにメルシィ』インタビュー 監督・脚本・主演ギヨーム・ガリエンヌ

ギヨーム・ガリエンヌ監督

 9月27日から公開される『不機嫌なママにメルシィ』は、本国フランスで300万人を動員する大ヒットを記録。フランスのアカデミー賞に当たるセザール賞では、あの『アデル、ブルーは熱い色』を押さえて最多10部門にノミネートされ、作品賞と主演男優賞をはじめとする主要5部門を制覇した。この作品、フランスの国立劇団コメディ・フランセーズで演技派俳優として知られるギヨーム・ガリエンヌが、自らの生い立ちをベースにした戯曲の映画化。ギヨーム自らが監督・脚本・主演(ギョーム本人と母親の1人2役)を兼務して作り上げている。つまり自らの手で自身の半生を物語化し、自ら出演して自身と自身の母親までも演じ、自ら監督して映画化したということ。究極の私的映画といってもいいかもしれない。しかもジャンル分けするとすれば正統派のフレンチ・コメディ。自分自身の半生を笑い飛ばしている。この手の題材が陥りがちな、他人からするとちょっとひいてしまうような個人的センチメンタリズムがまったくない。どちらかというと隠しておきたい自身の過去をことさら受け手の心情に訴えかけることもなければ自虐的にもならずに描くことで普遍性を勝ち得ている。なぜ、このような境地をもって自分史を語ることができたのか? 本人に真意を聞いた。
(取材・構成 水上賢治 通訳 人見有羽子)


 ――作品を要約すると、女の子がほしかったママに女の子のように育てられた男の子ギヨームが“ほんとうの自分”を見つける成長物語。ママの影響下で育ったギヨームにとって母親は最大の憧れの人で。服装からしぐさ、口調まで真似するほど心酔してしまう。これを見て周囲の親戚や親は完全にギヨームがゲイだと100%確信。それを何とか矯正したい父親などはギヨームを男子校の寄宿舎に放りこんだりする。でも、ギヨーム本人は自分の性的嗜好に無自覚で。そうであるがゆえ自身の心が揺れ動き、周囲の喧騒によってさらに混乱を極めていく。映画は、そんなギヨームが性への目覚めや失恋といった様々な経験を重ねることで自分のほんとうのセクシャリティを探し出すまでが描かれます。こうさらっと物語について触れましたが、ギヨームさんにとってはご自身の逸話であって。しかも世間にカミングアウトするのにはひとつ決断が必要な私的な事柄だったと思うのですが?

ギヨーム・ガリエンヌ(以下、GG) セクシャリティをめぐる経験についてカミングアウトすることは世間一般からすると決断を要することなのかもしれない。でも、僕自身はちょっと考え方が違ってね。実は、この経験を振り返ったとき、真っ先にこう思ったんだ。“これは映画の最高の題材になる”と(笑い)。とにかく最高のシナリオが出来ると思ってしまったから、自身のことを公にするかどうかなんて、もうどうでもいいことで。ためらうことなどなにもなかった。

――では、まず一人芝居による舞台があって、さらに多くの人に向けて発信することになる映画化への躊躇もなかったと。

 GG まず厳密に言うとこの作品は、よくある舞台の映画化とはちょっと違います。舞台の映画化として1番多いケースに上げられるのが好評を得た舞台を映画化するパターン。でも、『不機嫌なママにメルシィ!』に関しては舞台があって、それを映画化したというわけではない。僕はこのアイデアを思いついた時点、つまり最初の段階から映画にする構想でした。だから、より多くの人を対象にする映画化への躊躇も当然ありませんでした。映画にすることが当初からの目標でしたから。

――なぜ、舞台ではなく最初に映画だったのでしょう?

GG 舞台では絶対できないことが映画では可能になるんだ。その逆もあるのだけれど。今回のケースで言うと、一人芝居では必然的に大勢の人間を演じることになるから、どうしても登場人物のひとりひとりを丁寧に語ることができない。例えば舞台では父親はほんの一瞬しか出てこない。でも、今回の映画ではアンドレ・マルコンというすばらしい役者を迎え、彼の存在を使って自分の中にある父親をきちんと内面まで描くことができた。あと、ギヨームは誰かを相手にしたとき、いうなれば受身の姿勢になったときに本質が滲み出てくる。そこもまた一人芝居よりも映画の方がより引き出しやすい。そういうことを踏まえて、この物語はやはり映画でこそ語り尽くせるものだと思ったんだ。また、僕自身が育ってきたフランスのブルジョア界はどこか演劇的な世界なんだ。身の回りにいつも使用人だったり、招待客だったりといった他人がいるから、常に自分が舞台に立っているような誰かから見られている意識がある。自宅にいてもどこかのシアターにいるような変な感覚があるんだ。最初に知った劇場は僕の家族であり家じゃないかと思うぐらいにね。そんな舞台のような生活を、舞台化するだけではクリエイティヴといえない。だから、映画だったというのもあるんだ。

『不機嫌なママにメルシィ』より

©2013 LGM FILMS, RECTANGLE PRODUCTIONS, DON’T BE SHY PRODUCTIONS, GAUMONT, FRANCE 3 CINEMA, NEXUS FACTORY AND UFILM

――自身のことを物語るという行為は大変難しいことではないかと思います。それこそ自身を変に美化してもいけないし、逆にあまりに他者の目を気にしすぎるあまり自己を隠しすぎてもいけない。この作品は、その点のバランスが絶妙というか。赤裸々な告白ではあるのだけれど、それをこちらに必要以上に押し付けるようなひとりよがりになっていない。あくまで自分の物語を主観で語っていながら、どこか客観性も同居している。こういう境地に至る作品はなかなかないように思います。なにか自身を語る上で気をつけた点はあったのでしょうか?

GG 絶対に避けたかったことが2つあります。ひとつは、母であったり、父であったりといった僕以外の人物にとって復讐になってしまうような他人を傷つけることだけは避けようと思いました。もうひとつは慎み深くないこととでもいいましょうか。事実を拡大解釈したり捻じ曲げたりしないであくまで正直に語ることを心がけました。

――とはいえ人間の記憶は曖昧なもので。時に勝手に記憶をすりかえて事実関係をまったく違う形で頭にインプットしてしまっていたりします。

GG 確かに(笑い)。でも、僕はそういうことはあまり大きな問題ではないと思っている。脚本作りに関していうと、僕は書き始めた瞬間から劇作家に徹するというか。ひとつのドラマに仕立てることに集中する。もちろん事実関係をないがしろにするわけではないんだけど、それよりもむしろストーリーの流れであるとか、シーンごとのコントラストといったことにより感性を注ぐ。今回の場合でいうと、事実を再構築して単に再現するというのではなく、自分がそのとき体感したことをきちんと表現して、受け手に感じてもらうことを目指した。例えば劇中でジェレミーが女の子とセックスする場面をギヨームが目撃してしまうシーンがある。当時、16歳のギヨームはまだまだナイーヴで子供っぽい。ほかの同級生はもうセックスに興味深々なのに、ギヨームはまだピュアで恋に恋するような感じ。異性への意識ともまた別次元でジェレミーに憧れて恋焦がれている。それがセックスという動物的かつ肉体的行為を目の当たりにしたとき、自分がまったく違う次元で恋していたことにショックを受ける、という場面だけど、実際の僕はジェレミーが女の子とセックスしている場面に遭遇していない。ただ、憧れのジェレミーへの想いがどうやら勘違いで成就しなかったことはほんとうで大きなショックを受けたことは事実。この自分の受けたショックそのものをありのままに感じられるよう表現しようとなったとき、さっき話したシーンに自然となっていったんだ。これこそが事実を表現することなんじゃないかな。
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