【自作を語る】『フクシマからの風』 text 加藤鉄

10年間の農的生活を打ち切って、私を再びカメラに向かわせたものは何だったのでしょうか。1995年から4年間、私は青森県六ケ所村に通い、核燃料の巨大施設に対峙し続けて一軒、 土地を売らず、稲を守り育てていた老人(小泉金吾さん)の記録映画『田神有楽』を完成させました。その野武士のような生き方に魅せられて、私も映画完成後、隣町に移り住み、畑作りの生活に一人で飛び込みました。以後10年間、泥と汗にまみれた月日は早く、小泉さんも今は亡くなり、そして3.11 の原発事故。

事故から1ヶ月半経った2011年4月30日、とにかく福島がどんな状況にあるのか、実際に行って自分たちの目で確かめてみたい、ということで集まった「六ヶ所みらい映画プロジェクト」に関わる3名(島田恵、高坂明雄、加藤鉄)で、飯舘村〜南相馬〜川内村へ、二泊三日の行程で現地に足を踏み入れたのがそもそもの始まりでした。その後、知人からカメラとテープが提供されますが、実際に撮影へとスタッフに呼びかけ、重い腰を上げるのに数週間を要しました。その間、自分の部屋の片隅にいつもビデオカメラが入ったバッグがあるのを見るにつけ、自分のやる気だけが試されている気がして なりませんでした。これだけお膳立てされながら、尻込みし躊躇しているのはなぜなのか?毎日何度となく自問していました。言葉を失ったままの私を、何か引き留めるものがあったのです。

では、撮影を開始するに当たって、自分なりに思いをハッキリ出し得たのか。「否」だったと思います。今でも「自分はフクシマに呼ばれたのだ…」としか言いようがありません。

それにしても、その3日間に出会った村の人たちの実に魅力的だったことか。作品に登場してくれた人はもとより、それこそ宿の女将から、現地を案内してくれた婦人まで。どの人たちも皆、困難のただ中で、人知れぬ苦しみや悲しみを内に抱えながら、なんと和やかに温かく、にこやかに“までい”(心をこめて・丁寧)に接してくれたことでしょう。そうした人々の触れ合いが印象深く、 気になり、惹きつけられるように福島へカメラとともに通い始めたのだと思います。

製作資金の目途はありませんでしたが、プロデュースを買って出て製作を全面的 にバックアップしてくれた中川登三男氏をはじめ、かつての仕事仲間や友人が協力してくれました。 また、福島では「放射能から子供を守る会」の佐藤幸子氏から宿泊施設を借りることができ、青森〜福島を何度も往復する形で撮影を進めることが出来ました。作品のエンディングタイトルで個々のパート部を特定しなかったのは、極小のスタッフ編成のため、一人何役も兼ねることが多かったからです。

『フクシマからの風』は、私がこれまでの人生から共感し共鳴したいと思う人々を撮影 したものに違いないのですが、自分にとっても、不思議なさまざまな出会いにより、奇跡のように出来あがった作品なのです。

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|作品情報

『フクシマからの風 第一章 喪失あるいは螢』
監督:加藤鉄
撮影:内藤雅行、高田稔、加藤鉄/ 編集:高田稔/ 整音:吉田茂一
プロデューサー:中川登三男
2012年/日本/HDV/カラー/16:9/100分
7月28日(土)よりポレポレ東中野で公開

|執筆者プロフィール

加藤鉄 かとう・てつ 
1951年生まれ。学生時代より映画を作り始め、初監督作はPFF入選作品『愛していると言ってくれ』(1980)。1983年発表の『寓話・伝令』では、オーストリア・ブルーデンツ国際映画祭監督賞受賞。『グッドバイ』(1989)では脚本も担当し、ATG映画脚本奨励賞を、『ただひとたびの人』(1993)ではトリノ国際映画祭で審査員特別賞を受賞した。2002年には青森県六ケ所村の核燃料施設建設に反対の意志を貫く老人を描いた初のドキュメンタリー映画『田神有楽』を発表。本作が監督6作目。