【ゲスト連載】Camera-Eye Myth/郊外映画の風景論 #08「Brothers(1) / Reset/地域映画の発見」 image/text 佐々木友輔

 

Camera-Eye Myth : Episode. 8 Brothers(1) / Reset

朗読:菊地裕貴
音楽:田中文久
キャラクターデザイン・原画:門眞妙

主題歌『さよならのうた』
作詞・作曲:田中文久
歌:植田裕子
ヴァイオリン:秋山利奈

郊外映画の風景論(8)
地域映画の発見

1. 地域映画とはなにか

前回は、「広告」としての住宅/家族/生活の実践における「見せないこと」にフォーカスして、そのために利用される二つの権力と映画との関係について論じてきた。そこで今回は、「見せること」の側からこの問題について考えてみることにしたい。

もしも『トゥルーマン・ショー』の主人公トゥルーマンが、最後まで自らが監視されていることに気づかず、日々の生活が24時間テレビ中継されていることを知らないままであれば、この映画はたんなる50年代風ホームドラマのままエンドクレジットを迎えただろう——。前回わたしはそのように書いた。トゥルーマンを取り囲む見えない権力は、何らかの「綻び」を通じてしか描くことができないのだ、と。しかし近年の日本では、ある意味で、最後まで「綻び」が生じない『トゥルーマン・ショー』とでも言うべきフィルムが制作されている。それは「地域映画」と呼ばれる作品群である。

あらかじめ説明しておくと、ここで言う地域映画とは、主に地方自治体や地域コミュニティなどが、文化振興や観光促進、コミュニティの再生・活性化を目的として制作する映画作品を指す。その盛り上がりの背景には、各地でのフィルムコミッション設立とデジタル技術の発展による作業の簡易化・低コスト化があり(増淵敏之「映画はなぜ地域を活性化するのか」 http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20110208/218350/、地元の有志だけで行う手づくり的な作品から、プロの映画制作者やタレントを招聘しての大掛かりな作品まで、制作規模も幅広い。2010年には吉本興業の支援による地域映画の制作企画「地域発信型映画」もスタートし、4年間で23作品が制作されている。

地域映画が全国公開されることは稀で、基本的には舞台となる土地の公民館や映画館、映画祭などで上映されるため、観賞機会が非常に限られている。そこで本稿では、こうした状況の中で例外的に全国に流通し、気軽に観ることのできるDVD「地域発信型映画~あなたの町から日本中を元気にする!~第3回沖縄国際映画祭出品短編作品集」に収録されている5作品を対象として、考察を進めることにしたい。

2. 『トゥルーマン・ショー』さながらの世界

新潟県十日町市を舞台にした映画『雪の中のしろうさぎ』(五藤利弘監督)の冒頭に映し出される、雪景色の十日町駅。ホームでは、実在する団体「十日町市を有名にし隊 ごったく」のメンバーたちが、招聘した芸術家の到着を待っている。このシーンで興味深いのは、彼らが持つフラッグ(「自然が育んだこだわりの街十日町市 ごったく」と書かれている)が、ショット(構図)が変わっても常にカメラに正面を向けて映っていることである。すなわちここでは、位置関係の正しさを犠牲にしてでも、フラッグに書かれた文字を観客に「読ませること」を意図した撮影が行われているのだ。

あるいは、千葉県成田市を舞台にした『ソラからジェシカ』(佐向大監督)には、まるでテレビの旅番組のようなシーンが登場する。一組の男女が成田山新勝寺の表参道をデートする姿と併せて、成田市のゆるキャラ「うなりくん」や成田ゆめ牧場のソフトクリーム、成田銘醸「長命泉」といった、その土地に縁のものが次々と映し出されるのだ。これらは物語の本筋に直接的に絡んでくるものではなく、本来ならば後景に埋没しているはずのものであるが、やはりたんなる背景や小道具であることを超えて、「見せること」を意図した広告として前景化しているのである。

同様に、自然の風景や名所・旧跡、伝統行事や新興イベントといったものもまた「広告」として振る舞う。例えば『雪の中のしろうさぎ』における一面の雪景色や、スキー場でのキャンドルナイト、岡山県津山市を舞台にした『ホルモン女』(遠藤光貴監督)に登場する津山城、静岡県・三ヶ日町を舞台にした『とんねるらんでぶー』(池田千尋監督)に登場する濱名惣社神明宮は、そのショットだけ抜き出せば、地方自治体などが制作する観光PR映像そのものである。

そしてこれらの映画の登場人物たちもまた、広告の一部として積極的にその宣伝活動に参加する。主演をつとめるタレント俳優が旅番組のように郷土料理を食して満足げな表情を浮かべたり、地元の人びとがほとんど本人役で登場して、笑顔で観光名所の魅力をアピールするのだ。それは、トゥルーマンの妻が日常会話の中に万能調理器の宣伝を挟み込んだり、友人のマーロンがさりげなく缶ビールのラベルをカメラに向けて「これこそビールだ」と宣伝してみせたりする、『トゥルーマン・ショー』さながらの世界である。地域映画の出演者たちは、トゥルーマンが無自覚のうちに果たしていた役割を自覚的に引き受けることによって、地域のために、自らの身体や生活の一部を「広告」として差し出しているのである。

こうした、地域映画が描き出す「広告」的な場所のイメージに対して、現実には存在するはずの負の側面を徹底的に排除した都合の良い虚構であると批判的な目を向ける者もいるだろう(例えば『ソラからジェシカ』には成田空港が物語の主要な舞台として登場するが、三里塚闘争という住民と国家との長きに渡る戦いの歴史は排除されてしまっている)。けれども一方で、この連載を通して述べてきたように、こうした「神話」こそが、その土地に生きる人びとの思考や行動を方向づけ、新たな場所の「現実」を産出する力となるという側面があることも忘れてはならない。事実、地域映画に見られるようなB級グルメやゆるキャラ、観光のために整備された絵葉書のような景観、市役所や地域共同体に特有のノリや空気感といったものが織りなす風景——これを仮に「地方自治体的風景」と呼んでみることにしよう——は、すでに、地方都市や郊外都市に生きる者にとってありふれたものとなっている。どれだけ薄っぺらく、嘘くさく見えたとしても、その風景は間違いなく、ある場所を構成している現実の一部なのだ。

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3. 風景の発見という物語

地域映画も、そこに描かれる地方自治体的風景も、これまでじゅうぶんな批評や研究がおこなわれてきたとは言いがたい。先頃、批評家の藤田直哉が「前衛のゾンビたち―地域アートの諸問題」と題した論考を発表して話題となったが、おそらく地域映画に関しても、同じようにただ「つくるだけ」「観るだけ」に留まらず、より踏み込んだ作品論(表現論)や社会的・経済的な構造分析をおこなうことが必要になってくるだろう。本稿では、そうした試みの端緒として、地域映画における風景と物語の関係について簡単に触れておくことにしたい。

上述した地域映画作品において描かれているのは、基本的に健全で平和な風景であり、完全な「悪人」や「悪所」の存在しない物語である。ただしそれは、50年代のアメリカで制作されたホームドラマに見られるようなユートピア的世界とも異なるものであることに注意しよう。そこには、「ユートピアとしての郊外」を描いた作品群よりもむしろ、第五回で取り上げた「そこそこ楽しい郊外」を描いた作品群との共通点が多く見られるのである。

例えば『ソラからジェシカ』において、落花生工場で働く主人公の毅は、地元・成田の現状を憂いており、「みんなこっから旅立ってくんだ。ここは中継地点でしかないんだ」と悲観的な言葉を口にする。彼はここで、たとえ成田空港という交通の要を有していても、成田という土地それ自体を目的として訪れて来る人間は僅かしかいないことを嘆いているのだ。これは、知名度の高い観光資源が乏しい地域であれば、どこでも共通して抱えている悩みであるだろう。

そんな毅の郷土への不満や不安を変えるきっかけとなるのが、ペルーからの留学生ジェシカだ。彼女は「みんなこっから旅立ってくんだ」と愚痴る毅に対して「でも、みんなここに帰ってくるじゃない」と語りかけ、彼が成田という土地を肯定的に捉え直すきっかけを与えるのである。

ここでは、風景論的な構造が物語に取り入れられている。要約すると、「風景」とはあらかじめその土地に在るものではなく、外部の視点を持った人間が、ある土地で実践的に営まれている場所の経験を美的に「見るもの」として対象化することによって「発見」あるいは「生産」されるものである。すなわち、『ソラからジェシカ』では、成田で生まれ育った毅には気づきようのなかった(対象化できるほどの距離感を持てなかった)場所のあり方が、外国からの留学生という外部の視点を通して対象化され、新たな「風景」の発見がもたらされたのだ。こうした物語構造は、『雪の中のしろうさぎ』や『ホルモン女』といった他の地域映画作品にも共通して見られるものであり、どうやら、強力な観光資源を持たない(と自己認識している)地域にとって有効な物語の「型」のひとつとなっているようである。

このことは、大阪府大阪市を舞台にした地域映画『謝謝OSAKA』(山田優人監督)において、中国人旅行者を地元の住人たちが積極的に観光案内するという物語が選ばれていることと鮮やかな対称を為している。『謝謝OSAKA』の物語が、外部の人間(旅行者や観光客)に向けて大阪という街の魅力をアピールする「広告」として機能しているのに対して、『ソラからジェシカ』の物語は、外部からの視線よりもむしろ内部の視線を強く意識し、その土地に暮らす人びとに向けて地域の魅力を再発見することを促すメッセージを発しているように見えるのである。

|参考文献/関連資料

増淵敏之 「映画はなぜ地域を活性化するのか」、「日経ビジネスオンライン」、2011年、http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20110208/218350/
藤田直哉 「前衛のゾンビたち―地域アートの諸問題」、『すばる』2014年10月号所収、集英社、2014年
鈴木一誌 編著『小川プロダクション『三里塚の夏』を観る――映画から読み解く成田闘争』、太田出版、2012年
加藤典洋 著『日本風景論』、講談社文芸文庫、2000年
柄谷行人 著『定本 日本近代文学の起源』、岩波書店、2004年
安彦一恵、佐藤康邦 編『風景の哲学』、ナカニシヤ出版、2002年
佐向大、五藤利弘、池田千尋、山田勇人、遠藤光貴 監督『地域発信型映画~あなたの町から日本中を元気にする! 第3回沖縄国際映画祭出品短編作品集』(オムニバスDVD)、2012年


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|プロフィール

佐々木友輔 Yusuke Sasaki (制作・撮影・編集)
1985年神戸生まれの映像作家・企画者。映画制作を中心に、展覧会企画や執筆など様々な領域を横断して活動している。イメージフォーラム・フェスティバル2003一般公募部門大賞。主な上映に「夢ばかり、眠りはない」UPLINK FACTORY、「新景カサネガフチ」イメージフォーラム・シネマテーク、「アトモスフィア」新宿眼科画廊、「土瀝青 asphalt」KINEATTIC、主な著作に『floating view “郊外”からうまれるアート』(編著、トポフィル)がある。
Blog http://qspds996.hatenablog.jp/

菊地裕貴 Yuki Kikuchi (テクスト朗読)
1989年生まれ、福島県郡山市出身。文字を声に、声を文字に、といった言葉による表現活動をおこなう。おもに朗読、ストーリーテリング中心のパフォーマンスを媒体とする。メッセージの読解に重きを置き、言葉を用いたアウトプットの繊細さを追究。故郷福島県の方言を取りあげた作品も多く発表。おもな作品に「うがい朗読」「福島さすけねProject」「あどけない話、たくさんの智恵子たちへ」がある。
HP http://www.yukikikuchi.com/

田中文久 Fumihisa Tanaka (主題歌・音楽)
作曲家・サウンドアーティスト。1986生まれ、長野県出身。音楽に関する様々な技術やテクノロジーを駆使し、楽曲制作だけでなく空間へのアプローチや研究用途等、音楽の新しい在り方を模索・提示するなどしている。主な作品に、『GYRE 3rd anniversary 』『スカイプラネタリウム ~一千光年の宇宙の旅~』『スカイプラネタリウムⅡ ~星に、願いを~』CDブック『みみなぞ』など。また、初期作品及び一部の短編を除くほぼ全ての佐々木友輔監督作品で音楽と主題歌の作曲を担当している。
HP http://www.fumihisatanaka.net/

門眞妙 Tae Monma(キャラクターデザイン・原画)
1985年生まれ、宮城県仙台市出身。アーティスト。少女のキャラクターを用いた絵画表現を中心に活動する。言葉にできない『感情』『時間』『一瞬』の集積と、この世界との和解を描く。主な展示に「美しいending」
、「ドラマ」 、「だけど、忘れられる」、「floating view2 トポフィリア・アップデート」など、いずれも新宿眼科画廊にて。
HP http://www.gel-con.jp/