【Review】庵野秀明論ーエヴァの呪縛・「イメージ」を越えてー(第27回東京国際映画祭 特集「庵野秀明の世界」に寄せて)text 鈴木祐太

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90年代に作られた「庵野秀明」のパブリック・イメージ

「庵野秀明」という語が持つ誘惑は代えがたい。そして庵野秀明ほどイメージが不定型な作家も居ない。『風立ちぬ』(2013.劇場)の主演、『ヱヴァンゲリヲン』シリーズの総監督、そして今回の東京国際映画祭での特集。不定型な彼に定型や「作家性」を求めるのは野暮かもしれない。しかし、野暮を承知で描かせて欲しい。僕らは庵野秀明にある幻想を見てきた。かつて蓮實重彦は小津安二郎を「日本的」と言う人間ほど小津映画を観ていない、なまじ観ていてもそこに勝手な「小津イメージ」を重ね合わせているだけであると喝破した。庵野秀明にも同様のことが起きているのではないか?というのが本論執筆のきっかけだ。

字数の問題もあり駆け足になるが、庵野秀明に対し、そして彼の作品に対し我々はどんなイメージを被せていたのか、そしてそこから華麗なる脱出を見せる庵野秀明について少しばかり考えたい。

まず『新世紀エヴァンゲリオン』(1995-96.TV)について少し考えたい。この作品は、人類を脅かす「使徒」と呼ばれる謎の敵との戦いを縦軸として、その使徒に対抗すべく開発された人型兵器「エヴァンゲリオン」に乗る三人の少年少女の苦悩や葛藤を横軸に、かなり屈折した人間描写と共に物語を進めていた。少なくとも24話までは曲がりなりにもこの縦軸と横軸の関係を守っていたが、問題は25話とそれに続く最終回だ。突然に主人公・碇シンジの内的心情の世界を延々と描き出し、視聴者を困惑させ、そこから現在まで続く激しい論争が起きた。『エヴァ』以前の監督作『トップをねらえ!』(1988-1989.OVA)『ふしぎの海のナディア』(1990-1991.TV)が大団円を迎えたことと比べてもかなり異様なラストを迎えており、エヴァは「庵野の作家性が全開になった作品」として捉えられた。では我々はこの作品のどこに庵野の「作家としての特徴」を見たのだろうか。そこで「カタストロフ」つまり破壊のイメージについて注目したい。

庵野が破壊しようとしたもの、「カタストロフ」の対象は明確だ。物語はずっと「人類補完計画」と「人類の存亡」を追いかけていたが、肝心の主人公・碇シンジは常に個別の他人との関係に意識を向け続け、世界の行方については無関心を貫いていた。そして、最終回では「周りに他人が居る状況で自分は生きられるか」、作品内の言葉を借りれば「僕はここに居ても良いのか?」という葛藤に終始した。

つまり、『新世紀エヴァンゲリオン』から我々が抱く、庵野的カタストロフの印象は「庵野の攻撃対象は他人の存在なのではないか?」ということだ。いわば「内向き(心の中)に破壊のベクトル」が向いているのである。参考までに『新世紀エヴァンゲリオン』製作当時の庵野の姿勢について触れておく。

(エヴァンゲリオン第拾九話についての鶴巻和哉の発言)

 「(前略)それでも(エヴァに)乗らないんですか?」って重ねて聞いてみたら「あそこのシンジはものすごく怒っているから、心が閉じていてそうしたことに気がつかないんだ」と。

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』パンフレット(2009)より

「カタストロフの対象が他人である」こと、つまり「私があなたを受け入れられるか」=「あくまでシンジの内的心情を描く」のが「エヴァンゲリオン」だというイメージは現在でも根強い。また、『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを君に』(1997.劇場)も再びシンジの内的心情を描き出しておりこうしたイメージを更に補強している。

『エヴァ』におけるカタストロフのイメージとはまた別の話だが、当時の庵野は、既に巨匠となっていた宮崎駿に対する公然とした批判や『ドキュメント「ラブ&ポップ」』(1998.書籍)の冒頭、『エヴァ』製作後に着の身着のままで放浪する様子を描いた部分(庵野の公式HPにも同様の記述がある)から「狂気の天才」としてのイメージが形成されていた。

また、エヴァ終了後、庵野は『ラブ&ポップ』(1998.劇場)『式日』(2000.劇場)などの実写作品を撮り上げる。『ガメラ3 邪神覚醒』(1999.劇場)の撮影を追ったドキュメント『GAMERA1999』(1999.OV)は、通常のメイキングと異なりスタッフ間の軋轢などのスキャンダラスな部分を強くピックアップしており、「先鋭的」「生真面目」という印象はぬぐい去れない。むしろ当時の彼にはそうした仕事が求められていた、といえるかもしれない。

注意しなければならないのは、いずれも周囲の人間の伝聞や記述、作品から想起されるイメージであるという点だ。あくまでそれは、業界内外で形成された庵野に対する一つの共同幻想である。確かに強固で説得力のある「共同幻想」だ。しかし、その「共同幻想」は現在まで通底するものなのだろうか?

『ラブ&ポップ』©1998ラブ&ポップ製作機構

『エヴァ』後、庵野は『彼氏彼女の事情』(1998-99.TV)の監督を務めたものの、以降は『新劇場版』制作までTVアニメーションや劇場アニメの演出からは遠ざかる(OVAの監督やアニメーター・コンテマンとしての参加はいくつかある)。その10年間について少し考えたい。

2000年代以降は庵野のような「極めて個性的な作家」が生きづらい世の中になったといえる。90年代に『機動戦艦ナデシコ』(1996-1997.TV)『南海奇皇』(1998,1999.TV)など、作家性の強い作品の脚本を多く手がけた脚本家の會川昇は「90年代前半には『作家主義の時代』が来た」と述懐しつつ、次のように振り返る。

(「作家主義」の時代について)

ただ、そういった傾向も『カードキャプターさくら』によって全部押し流されてしまったなあ。あの作品の、作家性を凌駕する視聴者への奉仕精神が、すべての結論のような気がする(笑)。

                  『月刊アニメスタイル』第4号(2012)より

『カードキャプターさくら』(1998-1999.TV)以後、多くのアニメ監督はその姿勢を変化せざるを得なかった。当然その流れを引きずる現在のアニメの主観客層に「作家のアニメ」が歓迎されるような余地はない、と言って良いだろう。前述の會川自身もホビーアニメと東映特撮を除けば現在は深夜アニメの脚本が中心となっている。

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