Camera-Eye Myth : Episode. 9 Brothers(2) / Oblivion
朗読:菊地裕貴
音楽:田中文久
主題歌『さよならのうた』
作詞・作曲:田中文久
歌:植田裕子
ヴァイオリン:秋山利奈
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郊外映画の風景論(9)
郊外的風景の次の百年に向けて
1. 問いに答える
これまで、郊外を舞台・主題としたさまざまな日本映画を対象として、郊外論や風景論の観点から分析と批判をおこなってきた。もちろん、まだ取り上げていない作品の中にも重要なものは数多く残っているし、一度取り上げた作品でも、ほんとうは個別にじっくり論じるべきものがいくつもある。しかし本連載も残り2回を残すのみである。映像作家を名乗ってこのテキストを書いている以上、最後にはやはり、暫定的であれ、次のような問いに答えなければならないだろう。
「ではお前はどうするのか?」
今回は、わたし自身の映画制作の方法論や経験を踏まえながら、従来の映画が描いてきた郊外の風景を更新できるような映画制作のありかたを提案したいと思う。そこでキーワードとなるのが「スケール」だ。ランドスケープ・デザイナーの石川初によれば、スケールとは、「ある対象を眺めるときに、関連する周囲の空間や物事をどこまで視野に入れるかという「視界の規模」のようなもの」である(『ランドスケール・ブック——地上へのまなざし』、p.10)。スケールを変えることによって、場所に対する先入観や硬直しがちな思考がほぐされ、新たな視点を得ることができるのだ。実際石川は、地図やGPS、AR(拡張現実)アプリケーションなどさまざまなツールを駆使することで、ある土地を異なる複数のスケールで捉え、重層的なその場所のありようを描き出す活動を展開しており、映画やドキュメンタリーに携わる者にも多くの示唆を与えてくれる。
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2. ヘテロトピーの再解釈
さて、そもそもこの連載で中心的な問題としてきたのも、「郊外」と呼ばれる場所をどのようなスケールで捉えるかということだった。ヘテロトピーとイゾトピーという語を通じて見てきたように、「郊外」は——もちろん、それ以外の場所についても言えることなのだが——どのようなスケールを設定するかによってその姿を大きく変える。例えば『空中庭園』では、雑多なものをフレームの外に追いやることによって、クリーンでイゾトピック(同質的・画一的)な風景の広がる住宅地を描き出していたし、一方『サウダーヂ』では、団地や商店街、山地や更地など広範なロケ地をめぐり、それぞれ異なるあり方をする場所を切り取り、羅列することで、都市と農村の混在という日本の郊外の歴史的経緯を強調したヘテロトピックな風景を現出させていた。またそうしたヘテロトピックな風景を構成する諸要素の配置・配分次第で、『悪人』に登場するような地域住民の監視の目の届かない「悪所」にもなり得るし、『下妻物語』の(不満を抱えつつも)愛すべき「故郷」にもなり得るのである。
さて、こうした多様なる郊外観のうち、どれがもっとも的確に日本の郊外の現状を捉えているかを問うことにはあまり意味がない。おそらくそのどれもがある部分では正しく、ある部分では間違っているのだから。むしろ、いずれかひとつを選ぶのではなく、『空中庭園』のような看板ひとつない住宅街を抜けると、キッチュなオブジェや看板が並ぶ『国道20号線』的なロードサイドに出て、そこで車に乗り5分ほど行けば『下妻物語』のように広大な田園風景が広がっている……といったあり方を想像するほうが、郊外と呼ばれる場所の実態に即していると言えるのではないか。チグハグなショットの連なりによってヘテロトピックな場所のあり方を描き出す「風景映画」的方法(第2回・第3回を参照)と同様に、「均質性」や「郊外的」という語で語られ得る映画群のうちに含まれる風景の多様性そのものが、ある意味で、郊外のヘテロトピー(混在性)を表しているのである。
以上のような見取り図のもとに、2つの課題を設定しよう。
(1)ある場所に対して、異なる複数のスケールを使い分けながら撮影をおこなうこと。既存の郊外映画に見られるようなイメージの紋切り型をなぞるばかりではなく、これまで描かれてこなかった別のあり方、別の層(レイヤー)を発見し、映像に記録していくこと。
(2)異なるスケールで捉えられた風景が、それぞれどのようにして結びついているのかを探ること。「多様」なあり方を「多様」なまま描き出すのでは、複数の場所のあり方が混在するヘテロトピアとしての郊外像から一歩も外に出ておらず、不充分である。事物の喪失ではなく事物の再配置、場所性の欠如ではなく新しい場所性の創出としてヘテロトピーを捉えるためには、ショットとショットの「間」、郊外映画と郊外映画の「間」に何があるのかを問い、そこまで含めて映像化することが必要である。
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3. 移動すること
このような課題に取り組むための手段のひとつとして、複数の交通手段を駆使しての「移動撮影」が挙げられる。
第一に、移動することはスケールを広げることである。長い距離を移動しながら撮影をおこなうことで、固定した視点から撮影され場所の経験が断片化されたショットとショットの「間」に連続性を持たせることができる。また、長い時間・距離を移動すればするほど、得られる映像は撮影者の意図から離れていく。余計なものを排除して、見たいもの、撮りたいものだけをイゾトピックに囲み込む、といったことができなくなるのだ。映画やドキュメンタリーの歴史の中ではすでに嫌というほど語られてきたことであるが、やはり、予期せぬものとの出会い、思いがけぬ接触は、ある場所への理解を深める上で不可欠なものである。
第二に、移動手段を変えることは、スケールを変えることである。
筆者が2013年に制作した『土瀝青 asphalt』では、徒歩の他に、自転車、自家用車、バス、電車などを適宜利用しながら撮影をおこなった。例えば、自動車に乗って窓から外の景色にカメラを向けると、道路標識や量販店のロゴマーク、交通安全の標語が一字ずつ等間隔に並ぶ看板など、自動車で移動する者の速度に合わせて「見せること」が意図された事物の存在が際立つ。窓ガラス越しに見るそれらは、質量を持った物体としてよりも、まるでARアプリケーションで見るエアタグのように、ある風景に対して付与された注釈のように感じられるだろう。一方、同じ道を徒歩で歩いてみると、ちょっとした脇道、街路樹や花壇の手入れ具合、舗装されたアスファルトのひび割れや繁茂した雑草、看板やガードレールの経年劣化といったディティールが目に入る。自動車のように一定の速度で景色が流れていくのではなく、少し歩いては立ち止まって撮り、また少し歩いて立ち止まり……といった動作を繰り返し、次第に安定したリズムが出来上がっていく。さらに、歩行による足の上げ下げなど、映像は常に撮影者の動作を反映して揺れることになり、そのひとの歩調や疲れ具合を通じて、その場所の気候や勾配といったものが浮かび上がってくるのだ。
このように、移動手段を変えるだけで、見えるものも、その見え方も、驚くほど変化する。同じひとつの土地を異なる速度と距離によって分節し、どのようなスケールで見た時にどのような風景が浮かび上がってくるのかを具体的に知ることで、ある風景と風景、ショットとショット、郊外映画と郊外映画の「間」にどのような関係が築かれているかを知ることができるだろう。
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4. 揺動メディア
スケールを変えるためには、必ずしもツールを丸ごと取り替えなければならないというわけではない。例えば先に紹介した石川初が、本来は位置情報を取得するためのツールであるGPSを絵筆として用いて、地図上に自らの移動の軌跡で「地上絵」を描いてみせたように(参考 http://portal.nifty.com/2010/08/06/a/)、あるツールの利用方法を変えることによって、まったく別のスケールを導入することができるのだ。
私が『土瀝青』という作品で試みたことは、まさに、映画というメディアの利用方法、もしくはビデオカメラというツールの利用方法を変えることであった。映画が視覚的に「見ること」を前提とするメディアであるという前提を読み替え、揺れや震えを記録・再生する「揺動メディア」として捉えなおすこと。より正確を期すなら、見るものと見られるものとの間に一定の距離を置き、主客の分離を前提とする「視覚の視覚性」とでも言うべきものから、撮影者・カメラ(撮影装置)・場所がそれぞれを揺らし合う「視覚の揺動性」への転換である。
しかし、では、映像に記録された揺動を排除すべきノイズとみなすのではなく、それを場所論のために活用するとは一体どのようなことだろうか。
揺動を記録する手段として有効なのが、自転車での撮影である。自転車は、常に2つの車輪が地に接して地形と並行に移動することによって、その道の起伏を揺動としてカメラに伝えたり、下り坂では移動速度が速く、上り坂では遅く……というように、カメラを三脚などで固定して撮るのでは決して捉えることのできない、その土地のコンディションを鮮やかに可視化する。例えば、以前私が住んでいた家の近くに、立派な街路樹が植えられ、美しい景観を備えた道路があった。しかし自転車で撮影をしてみると、実はその道には、ただ立ち止まって見るだけでは気づかなかった大きな凹凸や段差があり、並行して伸びる県道(古い建物が多い上に道が狭く、あまり整備が行き届いていないように見える)以上に激しい揺れが記録されたのだ。どうやらその道路は、2011年の震災によってアスファルトが激しいダメージを受けていたようで、その傷が車輪を通じてカメラに伝わり、揺動として記録されたのである。
もちろん、揺動メディアと言っても、映画が映画である以上、それが眼を使って「見るもの」であるということには違いない。視覚メディアとしての映画と揺動メディアとしての映画は、チャンネルを変えるように切り替えが出来るものではなく、ひとつの映画の中にかさなりあうようにしてしか存在し得ないのだ。すなわち、「見ること」と「揺れること」、さらには「聴くこと」といった複数のプログラムを同時に——それぞれの自律は保たせながら——走らせることで、ひとつの画面を多層化するのである。
この試みによって、第7章と第8章で取り上げた「見ること」に働きかける権力をどう捉えるかという問題に関しても、これまでとは異なるアプローチが可能になるかもしれない。例えば、「見ること」に対してある権力が働きかけてきても、同じ時、「揺れること」にはその権力が及ばないということがある(当然、その逆も有り得る)。多層性を利用することで、権力の内と外を同時に映像化することができるのだ。監視や管理といった語で語られる諸問題を過大評価(絶対視)するのでも過小評価(無視)するのでもなく、それらが埋め込まれた場所と人間(そして映画)との関わり合い、相互の駆け引きを精緻に描き出すこと。そのような目的のためにカメラを用いることができるのではないだろうか。
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|参考文献/関連資料
※スケールを変えること、ツールの利用方法を変えることに関する優れた実践例として
石川初 著『ランドスケールブック—地上へのまなざし』、LIXIL出版、2011年
渡邉英徳 著『データを紡いで社会につなぐ デジタルアーカイブのつくり方』、講談社現代新書、2013年
今和泉隆行 著『みんなの空想地図』、白水社、2013年
かつしかけいた「かつしかから、まちについて」(ウェブサイト)、http://libertysketch.com
ルーシァン・キャステーヌ=テイラー、ヴェレナ・パラヴェル共同監督『リヴァイアサン』、2012年
マヤ・デレン監督『聖なる騎士たち:ハイチの生きた神々』、1981年
※筆者の構想する「映画による場所論」および「揺動メディア論」に関して
萩野亮+編集部 編『ソーシャル・ドキュメンタリー』、フィルムアート社、2012年
木村裕之、佐々木友輔 編『土瀝青——場所が揺らす映画』、トポフィル、2014年
佐々木友輔「二種類の幽霊、二種類のメディア」、『ART CRITIQUE n. 04 メディウムのプロスティテューション』(櫻井拓 編)所収、2014年
かわなかのぶひろ『映画・日常の実験』、1975年
ダニエル・マイリック、エドゥアルド・サンチェス共同監督『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』、1999年
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【News】木村裕之+佐々木友輔編『土瀝青 場所が揺らす映画』(トポフィル)刊行★記念イベントも開催
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|プロフィール
佐々木友輔 Yusuke Sasaki (制作・撮影・編集)
1985年神戸生まれの映像作家・企画者。映画制作を中心に、展覧会企画や執筆など様々な領域を横断して活動している。イメージフォーラム・フェスティバル2003一般公募部門大賞。主な上映に「夢ばかり、眠りはない」UPLINK FACTORY、「新景カサネガフチ」イメージフォーラム・シネマテーク、「アトモスフィア」新宿眼科画廊、「土瀝青 asphalt」KINEATTIC、主な著作に『floating view “郊外”からうまれるアート』(編著、トポフィル)がある。
Blog http://qspds996.hatenablog.jp/
菊地裕貴 Yuki Kikuchi (テクスト朗読)
1989年生まれ、福島県郡山市出身。文字を声に、声を文字に、といった言葉による表現活動をおこなう。おもに朗読、ストーリーテリング中心のパフォーマンスを媒体とする。メッセージの読解に重きを置き、言葉を用いたアウトプットの繊細さを追究。故郷福島県の方言を取りあげた作品も多く発表。おもな作品に「うがい朗読」「福島さすけねProject」「あどけない話、たくさんの智恵子たちへ」がある。
HP http://www.yukikikuchi.com/
田中文久 Fumihisa Tanaka (主題歌・音楽)
作曲家・サウンドアーティスト。1986生まれ、長野県出身。音楽に関する様々な技術やテクノロジーを駆使し、楽曲制作だけでなく空間へのアプローチや研究用途等、音楽の新しい在り方を模索・提示するなどしている。主な作品に、『GYRE 3rd anniversary 』『スカイプラネタリウム ~一千光年の宇宙の旅~』『スカイプラネタリウムⅡ ~星に、願いを~』CDブック『みみなぞ』など。また、初期作品及び一部の短編を除くほぼ全ての佐々木友輔監督作品で音楽と主題歌の作曲を担当している。
HP http://www.fumihisatanaka.net/