【特別寄稿】現代映画と「情報風土」――佐々木友輔『土瀝青 Asphalt』小論 text 渡邉大輔

映像作家・佐々木友輔さんの新作映画『土瀝青 Asphalt』(2013)をめぐる対談・論考集『土瀝青 場所が揺らす映画』が、11月1日、トポフィルより刊行されました。11月22日(土)には、刊行を記念して、石川初氏と沢山遼氏をトークゲストに迎えて『土瀝青 Asphalt』の上映イベントが渋谷イメージフォーラムで開催されます。

以下に掲載するのは、『土瀝青 場所が揺らす映画』に収録された、批評家・渡邉大輔さんによる論考です。トポフィルさんと渡邉さんの許諾を得て、全文の紹介がかないました(掲載にあたり一部改稿)。

なお佐々木友輔さんは、当サイトでも短篇動画+テクストによる「Camera-Eye Myth/郊外映画の風景論」を4月より連載中。『土瀝青』と姉妹のようなこちらのシリーズもぜひあわせてご覧ください。

(萩野亮=neoneo編集室)

 

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|『土』を追体験する

『土瀝青 Asphalt』は、佐々木友輔氏の長編監督第5作である。

本作は、冒頭に「この映画は長塚節の小説『土』を原作とする」というスーパーインポーズが挿入されることからもわかる通り、明治の末に活動した歌人・小説家の長塚節の代表的な長編『土』(1910年連載、12年刊行)を中心的なモティーフとしている。そして、オープニングからほぼ全編にわたって、作家自身が小型のDVキャメラを携えて茨城県近郊の風景を点綴するように撮影したショットの連なりと、それに被さるようにして、女性ナレーション(菊池裕貴)による『土』の朗読が挿入されるだけの、きわめてシンプルな構成から成り立っている。

映画の風景――およびそれをまなざす視点人物の行動――は、そこに被さるちょうど百年前の『土』の物語や叙述の内容と直接・間接に呼応している。『土』のおよそ7年間にわたる物語をなぞるように、映画は四季おりおりの風景を映し出していく。そして、わたしたち観客は、目の前の現在の茨城の風景を見ると同時に、それを通して20世紀初頭の『土』の物語世界を追体験していくことになる。

はじめに作品の位置づけを記しておくと、この3時間以上におよぶ大作は、佐々木氏の東京藝術大学大学院美術研究科先端芸術表現専攻博士課程の学位取得論文と併せて製作されたものでもある。そのことからも明らかなように、この長編はさまざまな点で、これまでの佐々木氏のフィルム群と密接に関わるとともに、それらを総括するような内容にもなっている。

|「パターン」と冗長さ

わたしはこれまでにも何度か、著作を含め佐々木氏の作品については論じているが、そこで一貫して注目してきたのは、彼の諸作品に通底するある種の「冗長さ」だった。この冗長さというのは、文字通りの脚本や演出の尺の長さや手数の多さという意味でもあるが、より抽象的、そして、ポジティヴな意味で、それは作品世界が示す反復化・規則化される「パターン」(redundancy)の前景化ということでもある。

たとえば、それが典型的に表れている作品が、彼のデビュー長編である『手紙』(2002)である。この1時間弱の作品は、自室で、ある人物(佐々木氏自身)が、友人にメールを送る様子が描かれ、キャメラは終始、その人物の操る携帯電話のディスプレイをクロースアップで映し出す。このほとんど変化のない映像自体が「冗長」でもあるのだが、いわばこのフィルムで佐々木氏は、今日のわたしたちの日常や行動様式に氾濫する「コミュニケーション」の様相それ自体を巧みに視覚化してみせた。わたしたちの社会は、ひとびとの交わす日々の膨大で微細なコミュニケーション(いまふうにいえば、「ビッグデータ」だろうか)を次々と可視化し、数値化可能なものとしている。その動きは、一方では、携帯電話やインターネットをはじめとする情報環境、また他方では、全国どこでもほとんど代わり映えのしない均質な風景、ライフスタイルを浸透させる「郊外」の生活環境の台頭に集約されるものだろう。

そして、今日の社会のリアリティや文化的な秩序感覚のかなり多くの部分は、そうした無数のコミュニケーションの、反復的で連鎖的な蓄積から創発しているとされる。そうしてさきほどの「冗長性」とは、そのような可視化・数値化したコミュニケーション=ビッグデータの重ね掛け(累積)が拡大させる形式的な規則性やパターンのことを指す。その意味では、佐々木氏の作品群は、『精神の生態学』のグレゴリー・ベイトソンがいう意味での「差異を生む差異」としての「情報」に様式化されており、「情報化」された経験の諸相を巧みに描き出しているだろう。

たとえば、佐々木氏自身は、2012年の萩野亮氏によるインタビューのなかで、以下のように述べている。

「いま自分がドキュメンタリー的な表現をするうえで、フィクションやドラマの要素を入れることなしには描けない場所や風景があるのではないか、ということが、これまで作品を作りながら少しずつ見えてきたことなんです。たとえばインターネットなどの情報メディアは「情報空間」など場所の比喩で語られますが、その「場所」ではカメラを回せない。ネット上でのコミュニケーションは、人によっては生活の大半を占める重要な経験になっているはずなのに、そんな当たり前の風景すら当たり前に取れないのだとしたら、映画は21世紀の記録装置として欠陥品になってしまうのではないか、と一人で勝手に危機感を抱えています。[…]そういう「見えないもの」をどう可視化するかという問題意識はずっと持っていたと言えるかもしれません」*1)。

いずれにせよ、佐々木氏は、初期から一貫して、映画や映像メディアと、情報環境に象徴されるこうした文化や社会の「冗長化」が生み出すインパクトの巨大さに対して、現在、もっとも自覚的で鋭敏な映像作家のひとりだといってよい。実際、そうした冗長性は、モティーフや映像表現のさまざまな面で、以後の長編でも認められる。

2008年の秋葉原連続無差別殺傷事件に材を採った『夢ばかり、眠りはない』(2010)では、事件の背景にあったネット環境に目配せがされつつ、物語の冒頭直後から現れるモノローグ(朗読)は、終始「君」という二人称への語りかけというコミュニケーションの挙動に憑かれている。同時に、そこには、「君」である「K」という人物のイメージが、事件の犯人である青年のイニシャルから、モノローグの語り手である「小林千花」、その語りの不可視の起源としての「佐々木累」、カフカ『城』の「K」や梶井基次郎『Kの昇天』の「K君」、夏目漱石『こゝろ』の「K」……といった膨大な数の「K」のオーバーラップとも重なり、物語表現のうえでの冗長性をも持ち込んでいた。この絶え間ない「コミュニケーションKommunikation」や「カップリングKopplung」の主題は、三遊亭円朝の落語『真景累ヶ淵』をモティーフにした続く『新景カサネガフチ』(2011)、若いカップルを主人公に郊外的環境の多層性を描き出した『アトモスフィア』(2012)といった一連の長編でも共通している。また、わたしたちに冗長なライフスタイル(ファスト風土化)を強いる「郊外的」な環境については、佐々木氏のみならず、2010年代になっても、入江悠、富田克也、瀬田なつき、三宅唱など、有望な若手インディーズ映画作家たちの重要なモティーフであり続けているが、彼は2011年2~3月にという「郊外とアート」をテーマとした美術展を開催してもいる。

ともあれ、現在の「映画」が置かれている状況に呼応し、情報技術や郊外環境への深い関心を背景に「冗長さの映像美学」ともいうべき独自のスタイルを確立しつつある佐々木氏の姿勢は、新作の『土瀝青Asphalt』でもはっきりと窺われるものだ。

*1 佐々木友輔「可能性としての<郊外>」、萩野亮+編集部編『ソーシャル・ドキュメンタリー――現代日本を記録する映像たち』フィルムアート社、2012年、115頁。

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