【特別寄稿】現代映画と「情報風土」――佐々木友輔『土瀝青 Asphalt』小論 text 渡邉大輔

|社稷から「社会」へ――祭祀共同体の現在

また、そればかりではない。社稷概念は、佐々木氏の映画作品の主題とも関連しているといえる。そもそも、言葉面からも察しがつくように、社稷は「社会」という日本語そのものとも密接に関係している。もともと中国では、土地の神、あるいは神を中心とする地縁的な共同体を「社」と呼び、その社の祭礼において民衆が寄り合うことを「会」と呼んだ。この「社会」という語は幕末から明治にかけて、地域、あるいは同業者の団体や趣味的な同人組織を意味する言葉として用いられていた。それが、西洋のsocietyやGesellschaftの翻訳語として転用される時期については諸説があるが、ひとまず斎藤毅氏の研究によれば、遅くとも明治10年前後には現在の意味での「社会」が一般的に普及したと見られている*9。また事実、岩崎正弥氏が指摘しているように、少なくとも権藤にとっては、社稷は従来考えられているような社会契約論的な自然状態ではなく、「人類の社会状態」と同一視されていた*10

いずれにせよ、societyやGesellschaftを指す以前の、この「社会」が土地の祭り、あるいは地域の小さな同人組織を意味していたことは、図らずもまさに、今日の日本のソーシャルメディアをはじめとしたネット環境がつねに「趣味的共同体」(クラスタ)によって駆動する「祭り」や「炎上」を付随させている事実に思いいたる時、じつに示唆的である。

また、今日、明治以来の中央集権制(郡県制)が転換期を迎え、地方分権・地方自治が喫緊の政治的主題となりつつある。これには、坂口恭平氏からイケダハヤト氏、あるいは國分功一郎氏にいたるまで、ここ最近の「地方」や「地域」に文化的・公共的基盤の活路を見いだそうとする知識人や文化人の動向も深く関わっていることは紛れもない。

生活の再建(国民の生活が第一!)をもっとも革新的な政治課題のひとつと見なすという意味で、「地域主義」にせよ「コミュニティ・デザイン」にせよ、あるいは「どんぐりと民主主義」にせよ、それらはいずれ新しいタイプの「社稷主義」とでも呼べるものを招き寄せつつあるだろう(さらにいえば、戦前の社稷=農本主義がファシズムに向かっていった点も考えると、「ネトウヨ」や「嫌韓」、「集団的自衛権行使容認」も含めた今日の日本の政治的保守化の徴候は不気味なまでに暗示的である)

現代日本における社会的=ソーシャルなものは、かつてユルゲン・ハーバーマスやハンナ・アーレントが理想化したような、中性的な市民的社交空間としては結集されず、むしろ何かを祭りの神輿としてかつぐことによってはじめて有機的かつ猥雑な生命を帯びる。現代のウェブ環境においては、ある意味で「社会」が文字通り再現されているというわけだ。

|現代映画と情報風土――まだ見ぬ映画の沃野へ向かって

結論をいえば、佐々木氏の『土瀝青 Asphalt』が興味深いのは、こうした新しいタイプの「社稷的想像力」のようなものを映画の形でじつに的確に描き出している点にあるだろう。それは、「台宿ふれあい祭り」や「守谷市商工まつり~きらめき守谷夢彩都フェスタ~」をはじめ、本作のなかに挿入される、無数の地域による「祭り」(フェスティバル)のシークエンスに端的に示されている。

まだ日が高い夏の夕暮れ、路上に法被を着た男衆が神輿や山車を出して練り歩き、家族連れなどの見物客でごった返す。高い柱から吊るしたロープのうえを軽業師が伝い下る。いくつもの出店が立ち並び、浴衣姿の男女が歩く。町内会の盆踊りのシークエンスには、前作『アトモスフィア』の主人公である若いカップルが登場する……。『土瀝青 Asphalt』に登場するこうしたいくつもの祭りの場面は、すでに述べた現代のネット環境の構造とゆるやかに結びつく表象空間と相俟って、情報社会の社稷主義というべき独特の感性を結晶化させている。

映画の前半で、撮影者はイオンのショッピングモールに寄ったさいに、モールの人間が製作したとおぼしい「イオン神社」なる社を写すが(そして、そのショットはすぐあとに元日の取手大師を写す)、これは、佐々木氏のなかで社稷の根幹である祭りや祭祀が徹頭徹尾、郊外的でネット的な環境と見分けがつかなくなっているという現状のリアリティを強烈に物語っている。以前、佐々木氏自身が提案した言葉でいい直せば、この映画は、現代の「情報風土」(情報環境に生まれる固有の土着性や風土性)の諸相を、明治以来の土地や共同体をめぐる歴史的なパースペクティヴのもとに表現した作品だといえるだろう。

そして、その試みは、きわめて優れた映像理論家でもある彼が、モーリス・メルロ=ポンティやマルティン・ハイデガー、エドワード・レルフといった現象学者の知見を積極的に参照して定式化した「場所映画」という概念とも、おそらくは明確に響き合っている。佐々木氏のいう「場所映画」とは、「「映画制作者‐カメラ」によって「撮られた映画」なのではなく、「映画制作者‐カメラ」によって実践的に「生きられた映像」」*11)のことを意味する(*12)。そこでは、撮影者の固有で具体的な身体性が大きな役割を担うが、その図式は同時に、その身体が拠って立つ、まさにそこで「生きる」多層的でありながら固有の「場所」(土地)のありようも浮き彫りにする。「土」から「土瀝青」、そして「情報風土」へ――佐々木氏の新作は、映像と日本社会が辿り続けたこの100年余りの「土地」と撮影者、そして観客とのあり方を、新たな「社稷的想像力」のもとに刷新するような野心作である。

この先にこそ、映画史のまだ見ぬ、新たな沃野(ヘテロトピア)が拓けているのではないだろうか。

*9 斎藤毅『明治のことば』講談社学術文庫、2005年、第五章。
*10 『制度の研究』第一号、1935年10月、12頁、岩崎正弥「大正・昭和前期農本思想の社会史的研究」、京都大学学術情報リポジトリ、1995年、109頁。
*11 佐々木友輔「映画による場所論――<郊外的環境>を捉えるために」、東京芸術大学大学院美術研究科博士後期課程(先端芸術表現専攻)学位論文、東京芸術大学大学院、2013年、117頁。
*12 つけ加えておけば、佐々木氏の映像理論の中核をなす「場所映画」の概念は、映画制作者とカメラ(撮影機械)と場所が一体となり、「生きられた映像」(映画として生きる)という存在論的条件を創出するとされる。
わたしなどがここで想起するのは、フッサール現象学やハイデガーから強い批判的影響を受けているベルナール・スティグレールの技術哲学的な映画論である。スティグレールによれば、わたしたちの時間意識(時間対象)には、内的な時間意識につねにすでに先行して、産業的・技術的な時間対象(「第三次過去把持」)が存在し、前者の可能性の条件をさえ構制しているとされる。そして、その産業的・技術的時間対象を中心に担うのが、20世紀に「記憶の外在化」を大々的に拡大した映画という複製メディアだとされるのだ。いわば、わたしたちの経験や記憶には、つねに「映画」がその条件として先行している。
この観点は、佐々木氏の「場所映画」の構想にも少なからぬ示唆を提供するものと思われる。ベルナール・スティグレール『技術と時間3 映画の時間と<難‐存在>の問題』石田英敬監修、西兼志訳、法政大学出版局、2013年を参照。

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|作品情報

『土瀝青 asphalt 』

デジタル/186分/2013
監督:佐々木友輔 原作:長塚節『土』 朗読:菊地裕貴 音楽:田中文久

1910年に執筆された長塚節による唯一の長編小説『土』。節の故郷である石下町国生を舞台として、そこに生きる農民の勘次とお品、二人の子であるおつぎと與吉、お品の父である卯平ら家族の物語である。『土瀝青』は、『土』を編集・再構成したテキストの朗読と、現在の茨城県全土を移動しながら撮影した映像をかさねあわせることによって、百年の時を隔てた二つの「場所」に関する表現を映画の上で出会わせる。映画の盲域、ショット=風景の裏に隠された基層の秩序を捉えるために構築された方法論〈場所映画〉の実践である本作は、映像作家・佐々木友輔が『夢ばかり、眠りはない』以来取り組んできた、映画による場所論/郊外論の集大成である。

|プロフィール

渡邉大輔 Daisuke Watanabe
1982年栃木県生まれ。映画史研究・批評。日本大学芸術学部、跡見女子大学ほか非常勤講師、早大演博招聘研究員。『週刊金曜日』書評委員。著作に『イメージの進行形―ソーシャル時代の映画と映像文化』(人文書院、2012)。共著多数。