【特別寄稿】現代映画と「情報風土」――佐々木友輔『土瀝青 Asphalt』小論 text 渡邉大輔

|単独的なものの回帰、あるいは幽霊的なもの

長塚の『土』の舞台となった茨城の農村=郊外の周辺地域を歴巡るごくごく平凡な風景と、幾度もの季節や恒例行事の連続によって構成される本作は佐々木氏の映画のなかでもとりわけコンセプチュアルでミニマルな冗長性や反復性を備えている。また、21世紀の風景と、100年前の長塚の『土』の風景、そして、佐々木氏自身の過去作の風景が複層的に重なりあう複雑な構造は、また別種の冗長性を作品に加味しているといえる。

それにつけ加えて重要なポイントは、佐々木氏の作品群が、ジョナス・メカスや足立正生らからの強い影響を受けた「風景映画」の一種として構成されている点にもあるだろう。佐々木氏自身は、このジャンルを独自に理論化し、「場所映画」という新たな概念を提示しているが、ディジタルキャメラの手ブレ映像によって似たような郊外の風景がリズミカルかつ純化された形で反復されていく映像は、それ自体がきわめて「冗長性」を打ち出すものだ。

その冗長性は、本作においては、さらに「季節」の描写として展開されているとも思われる。繰りかえすように、本作では7回にわたって、巡り来る四季が描かれる。そもそも「季節」や「日付」という表象を考える時に面白いのは、かつてジャック・デリダが『シボレート』(1986)というパウル・ツェラン論で論じたように、それらは、シンギュラリティと反復性が(デリダふうにいえば)「幽霊的」に重なり合う特異な冗長性(パターン)としてみなされるからである。たとえば、「3月11日」に亡くなったひとびとは、そのひとりひとりは、固有のシンギュラリティを備えた死を死んでいるにもかかわらず、回帰する同じ「3月11日」に一緒に追悼される。また、「春」や「夏」といった季節は、1年経つごとに変わらず回帰するものだが、同時に、その個々の春や夏は、一度として同じものは回帰しない固有のものだ。『土』が刊行された大正元年の「四季」と、『土瀝青Asphalt』が発表された平成25年の「四季」は、いわば同じものなのに違う――パターンはこの本質的なズレの間に幽霊のように宿る。佐々木氏の映像表現の固有性のひとつは、いかにも逆説的にも、こうした多様なパターン化されたズレのうちにこそあるわけだ。

|写実と参照――リアリティのスケールフリー化

さらに、したがって、それらの特徴は、佐々木氏が試みているのが、いわば映画における新しい「リアリズム」の探求や創造に通じるものであることを示してもいる。たとえば、文芸批評の領域でかつて論じられてきたように、日本の近代文学における「リアリズム」(自然主義)の様式は、ヨーロッパのロマン主義などから輸入した「風景」に対する主体の固有の内面的投射から派生してきたものであった*2。その意味で、表現におけるリアリズムの立ち上げは、「風景」の描写と密接に関連している。

よく知られるように、本作のモティーフである『土』は、「日本最初の農民文学の傑作」と呼ばれる小説作品である。この小説では、茨城の貧農の一家の生活を題材にした物語が語られるが、全編にわたって単線的な農民家族の物語を大幅に逸脱するように詳密で写実的な情景描写が覆い尽くし、ナラティヴの安定さるべき結構をしばしば逸脱する作風が長らくポレミカルな評価を受け続けてきた。図らずも、『土』自体の持つそうした独特のリアリズムの「冗長性」は、『手紙』、あるいは『夢ばかり、眠りはない』以降の佐々木氏自身の映画世界の特徴ともまた、はっきりと重なるように見受けられる。そして、明治期に生まれた新しいリアリズムを担った『土』の「写実」は、『土瀝青 Asphalt』をはじめとする諸作品で佐々木氏が取り組んでいる、映画における新しいリアリズムの創出にも重なっている。

そうした『土瀝青 Asphalt』の独特のリアリズムが最初に示されたのが、『新景カサネガフチ』と『アトモスフィア』、そして映画作品以外では、さきほども挙げた美術展であるだろう。わたしはその表現を、ソーシャルメディアのTwitterの機能になぞらえて「リツイート的」と形容したことがある*3。それらで佐々木氏が試みているのは、いわば「いま・ここ」(現実)に現勢化している世界が、通常ならばわたしたちには見えない潜勢的なポテンシャルや可能世界と切り離されることなく、曖昧に重なり合い、それらが多重的に戯れ合うようなリアリティだといえる。たとえば、『新景カサネガフチ』では、現在と過去の累ヶ淵伝説、あるいは、『アトモスフィア』では、日常世界と、原発事故後の非日常な例外状態、そして、今回の『土瀝青 Asphalt』では、現在と『土』で描かれた20世紀初頭の農村世界といったふうに、複数の異なる世界やテクストが相互にネットワーク状に絡まりながら、完全に遊離しあうことなく、存在している。その意味で、佐々木氏の映画は、『ネットワーク・ミュージッキング――参照の時代の音楽文化』(2009)の井手口彰典氏の言葉を用いれば、「参照」の映画だということができるかもしれない。

たとえば、『土瀝青 Asphalt』の冒頭近くでは、夜の郊外のバイパス沿いのネオンにほのかに照らされた舗道を手持ちのキャメラが震えるように彷徨っていると、iPhoneの比較的大きな着信音が聞こえ、画面に不鮮明に写りこんだ佐々木氏と思われる撮影者がiPhoneを耳元に当てる。と、受話器越しのようなくぐもった声で『土』の朗読が始まる。画面はそのまま再び夜の舗道の彷徨に切り替わり、続いていたiPhoneからの朗読はいつしかまた、オフボイスのナレーションに切り替わり、続いていき、またそこには画面の現実世界に吹く風の音が重なっていく……。

あるいは、また別のシーン。『土』のナレーションが続くなか、雨が降る屋外からイオンモールに入り、そのなかのフードコートに入っていく。マクドナルドが見える座席の一角にキャメラが置かれると、すぐに画面は撮影者が手に取るスマートフォンのディスプレイを写す。スマホを操る手は、Twitterのタイムラインを開く。無数の雑多なツイートが流れるタイムラインを滑らかにスクロールしていくと、そのなかに長塚節のいわゆる「bot」があり、『土』の一節の断片がツイートされている。映画は、その『土』のツイートに被せるように、同じ文面を朗読してみせる……。

すなわち、この一連のシークエンスには、21世紀初頭の現実の世界と、ナレーションが叙述する20世紀初頭の『土』の物語世界、現実世界とバーチャルな情報環境、フレーム外のナレーションとフレーム内の声、バーチャルな電子音と現実の環境音……と、じつに多層的・複層的なイメージと音響が折り重なり合い、相互に浸潤、ハッキングしながら映画世界を多様化させていく。こうした「リアリティのスケールフリー化」とも呼びうる状況は、映画世界の人物や事象の行動様式(感覚-運動図式)がその場の状況や時間と安定的かつ密接に連動しておらず、純粋で脱コード的な光学‐音響的イメージの連なりが世界をリゾーム的に貫いては生成変化させているという点で、かつて『シネマ』(1983-85)のジル・ドゥルーズが現代映画の表象空間に見出した「時間イメージ」を、よりラディカル――ないしはよりベタ――に先鋭化させていると見ることも可能だろう。この手法を、佐々木氏はおそらく『アトモスフィア』で理論的・実践的に体系化させた。

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*2 柄谷行人『底本 日本近代文学の起源』岩波現代文庫、2008年。
*3 渡邉大輔「浮遊するまなざしのかなたに――映像圏からfloating viewへ」、佐々木友輔編『floating view――郊外からうまれるアート』トポフィル、2011年、100~109頁。

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