|超平面と場所が揺らす映画
レイヤーの異なるさまざまなリアリティがゆるやかに重なり合いながら併存しているという独特の世界観は、よくいわれるように、とりわけ『アトモスフィア』が主題化しているような、「3.11」以後の日本社会でしばしば指摘されるようになっている(*4)。
とはいえ、『土瀝青 Asphalt』の風景ショットにおいては、佐々木氏の風景映画においてはしばしばその傾向が認められるが、本作では特にその「平面的」な構図が目を引くように思われる。土浦港に停泊する白い船の横腹や波打つ海面、歩道の脇に並んではためく旗、空き地になっている枯れ草が繁茂した場所に立つ大きめの看板や、家屋の壁にかかる看板のイメージなどとも重なり合い、画面は、あたかもデスクトップのような何層ものレイヤーが重なり合う「超平面性」(村上隆=東浩紀)を獲得している。本作の画面では、少々比喩的にいってしまえば、映画の奥行きの感覚が線遠近法的な縦の構図を形作るというよりは、いくつもの空間(ウィンドウ)が並列的に開いたまま、観客(ユーザ)の目の前に提示されているような印象が強調されているように見える。
その傾向は、これまでの佐々木氏の作品の大きな特徴でもあった「手ブレ映像」という手法にも、微妙な、しかし決定的な変化を伴わずにはいない。たとえば、『土瀝青 Asphalt』では端的にいって、これまでのような手ブレ映像が目に見えて少ない。その理由は単純である。本作で撮影者は終始、自転車に乗りながら撮影をしているからである。そのために、画面は重力を欠き、絶えず地面から一定の浮いた地点に視点が据えられ、横に横に滑走していく。その意味で、本作のイメージには前作までよりもさらに、インターネットのようなバーチャルな情報空間を思わせる抽象的でニュートラルな空間と、現実世界との連続性がシームレスに感じられることになる。
ただ、急いでつけ加えておかなければならないのは、そればかりでなく、したがって、本作の画面には自転車の接するアスファルトの微細な起伏から伝わる微妙で不規則な振動が時にキャメラを揺らすのであり、どこか現実の物質的な肌理や手触りといった感覚が穴を穿つようにしてポツポツと沸き起こる(この感覚は、三宅唱が『Playback』で描いた、ひび割れたアスファルトのうえを村上淳がスケートボードで滑走するシーンのイメージとも重なる)。本作は、わたしたちの現実そのものが持っているだろう、現実と虚構、リアルとネットの複雑な介入、両義性をこうした撮影手法で巧みに形象化しているように思うのだ(*5)。
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|社稷的想像力の現代的可能性
ところで、その変化の内実を、最後に、『土瀝青 Asphalt』という本作の題名やモティーフと直接に関わることとして、「土地」と「コミュニティ」の問題としてざっと捉えてみたいと思う。わたしの考えでは、『土瀝青 Asphalt』は、現代日本におけるいわば「社稷的想像力」の可能性をきわめて鮮やかに追求した映画だと捉えることができる。どういうことか。
視点を広げたい。日本社会は明治以降の近代化――それは佐々木氏の描く21世紀の郊外化にまで基本的には直結しているわけだが――との関わりにおいて、しばしば地域共同体的な「土地」を問題化してきた。
もとより、あらためていえば、この映画の中心的なモティーフとなっている『土』は、「日本最初の農民文学の傑作」と呼ばれる長編小説である。『土瀝青 Asphalt』でも、「お品は生来土を踏まない日はないといっていい位であった。[…]お品はこうして冷たい屍に成ってからもその足の底は棺桶の板一枚を隔てただけで更に永久に土と相接しているのであった」(*6) という『土』の一節が朗読されるように、長塚の小説は、当時の民衆が生まれてから死ぬまでのあいだ、「永久に土と相接している」事実が幾度も強調される。
すなわち、ここには、近代化を日増しに推し進めていた当時の明治政府によって破壊されようとしていた日本の伝統的なひとびとの生活と倫理の基盤が、茨城の農村という土地に仮託して描かれている。この土地の問題を、権藤成卿をはじめとした当時の農本主義者たちは、「社稷」の復権の問題として見出した。社稷とは、本来、古代中国の王侯が祀った土地や五穀の神のことである。たとえば、権藤はその主著『自治民範』(1927)において、大化の改新の施策や鎌倉時代の貞永式目を「社稷の公典に遵依する規度」として評価する一方で、「一種異様な郡縣組織」をもたらした明治国家の中央集権的な政治体制を強く異議を呈する(*7)。
彼の考えでは、明治維新によって日本の国家的基盤である社稷、より具体的には農地が危うくなり、社会の「自治」や「道徳」の可能性は著しく損なわれた。実際、昭和恐慌のさいの農業の危機(昭和農業恐慌)を背景にして、権藤は日本の根源的な正統性が国家や天皇などにではなく、倫理の源としての社稷にあることを何度も強調する。曰く、
「社稷は国民衣食住の大源である、国民道徳の大源である、国民漸化の大源である、日本の典墳たる記紀に神祇を「アメツチノカミ」を訓せるは実に社稷の意にして、アメツチは天地、天地は自然である、其自然に生々化々無限の力がある、我国の建立は悉く社稷を基礎として建立されたものである」 (*8)。
こうした戦前の農本主義的な精神自体は、現代の日本ではほとんど忘れ去られている。だが一方で、日本における「自治」(地方自治)のイメージは、なおもこうした当時の農本主義の香りを色濃く残しているともいえる。なぜならば、日本の道徳は、衣食住の絶対的基盤である土地にこそ根ざすものであって、しかもその土地は「祭り」によって祝福されなければならない、という類の言説は、現在でも決して消失したわけではないだろうからだ。
たとえば、まさにかつてバブル期における「土地の商品化」に強く反発して「土地の公有化」を主張した作家・司馬遼太郎(『土地と日本人』)や、文明によって汚染された大地や森林(『風の谷のナウシカ』『もののけ姫』)、また近代における共同体・神話的な自然(『となりのトトロ』)を描き続けるアニメ映画監督・宮崎駿が、いずれも戦後日本最大の「国民作家」となった事実も、「社稷」が日本人の想像力を陰に陽に規定していることの一例だといえよう。
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*4 たとえば、宇野常寛『リトル・ピープルの時代』幻冬舎、2011年などを参照。
*5 また、興味深いのは、以上のように手ブレを抑えたことにより本作は前作までと比較して、撮影者自体が持つ積極的な主観性といった要素が希薄な反面、時折、不意に撮影者の能動的行為が作中に介入する。無数の鯉がいる池に撮影者の腕が現れ、餌を撒く場面などである。
*6 長塚節『土』新潮文庫、1967年、42頁。
*7 権藤成卿『自治民範』黒色戦線社、1972年、183頁。
*8 同前、255頁。