【Review】和の「だし」はどうしてこんなに魅惑的なのかーー『千年の一滴 だし しょうゆ』text 三浦哲哉



©プロダクション・エイシア/NHK



和食の「だし」と「しょうゆ」を題材にした、日本とフランスの国際共同製作によるドキュメンタリー映画である。フランスでテレビ放映されて大変な反響を呼んだそうだが、日本人が見ても面白くてためになること請け合いだ。

なにしろ題材がいい。「だし」。この半透明の液体に含まれるロマンの総量がいかばかりか、誰しもが多かれ少なかれ知っているはずだ。「だし」に人生を賭け、究極とか至高の一杯を追求する人々がいて、よくメディアにとりあげられている。漫画やテレビドラマでもそんな一途な料理人や生産者たちが幾度となく描かれてきた。「だし」には、ほとんど神秘的といいたくなるほどの魅惑があるのだ。

では「だし」の魅惑は何にあるのだろうか。まずそれは舌で感じる旨味である。本作で専門家が解説している通り、日本の「だし」には、甘味、塩味、苦味、酸味、辛味につづく第六の味覚として日本人に発見された「旨味」の成分が含まれている。それは古来、「淡味」と言われていたそうだ。よく知られているように、旨味成分にはこんぶ由来のグルタミン酸ナトリウムとかつお由来のイノシン酸とがあり、両者が出会うことで劇的な相乗効果が生まれる。また、それらは、砂糖や油と同じように、たとえ空腹でなくとも食べ続けたいと思わせ、「やみつき」にする成分であることが、科学的に検証されてもいる。しかし、「だし」の魅惑はそうした「旨味」の単純な量、要素同士の配合のバランス、化学物質の作用といった説明に還元されてしまうわけではない。

だしの「ロマン」と言ったのはまさにそこにかかっている。こんぶならこんぶ、かつお節ならかつお節が具体的にどこからやってきて来たのか。その由来をめぐる「想像力」によってこそ、「だし」は人間の魂を恍惚とさせる力を持つのではないだろうか。産地へと遡り日本列島の風土へと広がっていく想像力によって、おそらく「だし」は神秘的な輝きを帯びる。

「だし」を映像によって、というよりも、むしろ「映像として」再構成した本作から、私たちが改めて気付かされるのはそのことだ。「だし」の魅惑は想像力と強く結びついている。

とある京都の割烹で引かれる一杯の「だし」。この液体の魅惑はどこに由来するのか。カメラはこの問いに導かれるがままに、諸々の素材がどこでとられ、どのような人間の手によって加工され、そしてここに至ったのかを遡行して示す。

こんぶの場合。カメラはかつての北前船のルートを遡行して、京都の調理場から生産地である北海道の知床半島へと飛び、それが海中でどのようにして生育し、やがて流氷で根を引きちぎられて海岸に打ち寄せられるのか、あるいは漁師に採取されのかが示される。

かつお節の場合。黒潮にのって日本列島にやってくる海中のかつおの群れ、それらが鹿児島県の枕崎沖で一本釣りされる。かつお節工房でまず燻され、室(ムロ)に置いて長期間寝かされる。家付きのカビの力で水分は極限まで減少し、身は分解されて琥珀色の物質へと変化する。

こうして一杯の「だし」、その輝く液体は、日本列島の様々な自然を反映させた映像の織物として現れる。北海道と九州という両端でそれぞれ採られた、こんぶとかつおは、風土そのものを旨味と香りに結晶化させており、それが運ばれ、組み合わされて一杯の「だし」の中に溶け出すというわけだ。

作中で京都の割烹の店主がいみじくも言っている。味見をするのは舌である以上に目である。「舌でわかるけれども、それ以上にわかるのは目である」。

もちろん直接的な意味は、こんぶやかつお節が入った大鍋の微細な色調の変化を見極めている、ということであるが、この映像作品の冒頭に置かれることで、この言葉は別の意味も帯びるように思われた。

「だし」の映像(=イメージ)は、こんぶやかつお節といった様々な生産地の風土の映像と次々につながっていく。そのような想像力(=イマジネーション)によって、味と香りは、そのひろがりをスクリーンの上で再構成される。ようするに私たちがここで受け取っているのは「だしの映像」であるということだ。当たり前すぎることだが、私たち観客は、この「だし」そのものの味を直接、舌と鼻とで確かめることは決してできないのだから。


©プロダクション・エイシア/NHK



このようにして再構成された日本の「だしの映像」のなんと清浄なことだろう。日本料理は「水の料理」だと言われるが、本作ではその意味がこのうえなく明瞭に示されている。海中で採取されたこんぶとかつおが、旨味と香りを閉じ込めて結晶化し、やがてまた鍋に浸されて、その成分を抽出される。海から椀へ、こうして自然のエッセンスが移行する。

たとえば古典的なフランス料理のスープは、まったく別の様相を呈している。動物性のタンパク質と脂質が味のベースであるからだ。フランスの濃厚な「スープ」の由来をドキュメンタリー映像で示したらどうなるか。大量の血の赤を見ずにはすまないだろう。牧場で育てられた家畜が解体され、大鍋で茹でられる。最終形の黄金のスープは美しいが、そこに至るまでの光景はたくさんの死(殺害)を含む。だから死(殺害)は視界から抑圧され、国によっては禁忌の対象となった(ちなみに、『ある精肉屋のはなし』[纐纈あや監督、2013年]は、そんな屠殺を日常とする人々を捉えた秀作だった]。

日本以外のスープと比べたときに、ひるがえって「だし」の比類ない特徴が理解される。つまり、そこに動物の肉は用いられていない。なぜ日本ではスープづくりに動物を使わないのか。仏教による「肉食禁止」のためである。本作はこの事実を重要視し、曹洞宗大本山總持寺で供される精進料理の椀ものに「だし」の最も純粋な姿を見出すだろう。

海から椀への味と香りの移行は、こんぶという乾燥した植物によって媒介される。あるいは、乾燥しいたけによって、山の香気が移行する。つまりそれが日本の「だし」である。乾燥した植物が味と香りとを保存し、媒介する。本作の映像の構成が示すのは、そのような味をめぐる日本の想像力のかたちなのだ。

かつお節の場合はどうか。大工道具のカンナで削り取って使う、まるで木片のような、この世界にも希な食品を生み出したのは、魚さえも植物化して使うべしという理念的な要請だったのかもしれない(スリランカにも似たようなものがあるそうだが、さすがに日本のようにカチコチではないそうだ)。

このようにして「千年の一滴」は、実物の椀を味わうことができない観客の前に、映像によって、というよりも、映像として、より一層純粋な「だし」の本質を提示する。すなわち、海から椀への植物を介した旨味と香味の移行──この和食に特有の想像力の在り方が映像によって具体的に示されるのだ。第二部の「しょうゆ」は、麹菌という和食のもう一つの源泉に、より科学的なアプローチで迫って、こちらにはたとえば科学映画作家ジャン・パンルヴェの映像作品を見るような面白さがある。

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