さて、本作における和の「だし」の本質には、日本人が見ても感嘆せずにいられない美しさがあると言ってよいだろうが、いくつか考えさせられたこともある。
この作品で取り上げられている「だし」や「しょうゆ」は、昔ながらのやり方で作られた天然もの、天然醸造の一級品であるが、それは現在の日本人が一般に口にする和食のそれとはだいぶかけ離れたものであるという事実がある。本式のしょうゆは、発酵と熟成に二年半はかける。大量生産品は、工場のタンクで、数ヶ月で作る。だしは、化学的に合成されたグルタミン酸ナトリウムからの場合も多いだろうし、かつおやとこんぶの着香がなされているだけということもあるだろう。
それら「現代のだし」、「現代のしょうゆ」を映像作品化したらどうなるだろう。ステンレスタンクとベルトコンベアーとガラス容器の上を液体が行き来する、無機的な様相を呈するにちがいない。現代技術社会に特有の生を描き続ける作家、ニコラス・ゲイハルター的な映像ができあがるかもしれない。それはある種の人々をぞっとさせるだろう。けれど、当然ながら、そのような工業化がなければ、和食があまねく普及するということも不可能だった。たとえば日本が誇る現代の鮨文化は、冷蔵・冷凍と高速輸送の技術がなければ存在しえないものだ。
どちらがいい、という話をしたいのではない。ただ指摘しておきたいのは、「原点」に戻ろうとするにせよ、「現在」に開き直るにせよ、私たちはその価値判断をおそらくかなりの程度、映像的なイマジネーションに媒介されているということだ。
舌と鼻で、素材の味わいを感じ取り、本物を見分ける。そういう理想があるが、あらゆる「素材」は現代社会において、つねにすでに映像によって媒介されており、そのようなイマジネーションの影響下で、たとえばエコロジカルな印象を与えられたり、無機的で不毛な印象を、あるいは工業的既製品に特有の魅惑(高度経済成長期の駄菓子屋グルメのたぐい)を与えられたりする。
『千年の一滴』において、「だし」に端を発する想像力は、丹念な取材によって一歩一歩地道に撮られた映像によって手繰られており、安直なメタファーによる飛躍は基本的に避けられている(かつてローマン・ヤコブソンが述べたように、メトニミー[隣接性による喩え]の原理で作られているかぎりにおけるリアリズムである)。だが、だからこそ、このような純天然の「だし」や「しょうゆ」が「和食全体」を代表(宣伝)していると錯覚してしまわぬ注意が必要だろう。本作の美しいイメージが、「素材」そのものから切り離されて独り歩きするならば本末転倒だとも思う。
「素材」とその「イメージ」との結びつきが、切り離され、売り手の都合で恣意的に組み合わされるとどうなるか。ファストフード産業の広告映像で起きていることがそれだ。食品工場で作られた肉の塊(『フードインク』[ロバート・ケナー、2009年]参照)に、緑で充たされた牧場や、人間と自然がエコロジカルに共存する光景などのイメージが結びつけられる。合成調味料で作られた「かあさんの味」を出す定食屋の壁に、相田みつを風のポエムが書かれていて、「ありのまま」を肯定している、等々。
これはおそらく本作の外側にある問いであるだろうが、しかし、和食の美しい映像を提示する「千年の一滴」を見て改めて考えさせられたのは、「素材」と「イメージ」のリンクの問題である。最上級のこんぶの映像を見て、天然醸造のしょうゆの映像を見て、私たちは様々な納得をするが、さて、その本当の味と香りだけは知らないということはないか。もしそうならば、必要なのは、目を閉じて、「だし」や「しょうゆ」の味そのものを聞くことではないだろうか。
最後に余談を一つ。「素材」と「イメージ」のリンクこそが問われる現代の食文化において、ブラインド・テイスティングの技能を持ったソムリエこそは真の英雄だという気がする。非常にしばしば乖離してしまう両者のつながりを、彼らが超人的な能力で守っているように思えるからだ。
以前にテレビでたまたまソムリエ世界大会のような番組をやっていて、その光景に驚嘆せずにはいられなかった。名前の伏せられた赤い液体がグラスに注がれ、それを神経集中して一口含み、虚空を見上げてしばし。「2005年、リオハ!」(とかなんとか)。沈黙の後で司会が「正解です!」。ほとんど警察犬のごとく、産地と生産年を当ててみせる彼ら。
ワイン雑誌などは、それぞれのボトルごとに「テロワール」の微細な特徴とその風光明媚な光景、生産者の物語、年ごとの気候など、数多くのことを示している。ワイン愛好家は、飲むときにそれらを想像するわけだが、しかし、それら想像の対象と、液体に含まれる成分そのものの感覚を正しくリンクさせられる人間の数は、実はものすごく少ないのではないかと私は疑っている。そういう自分も、かなり見当外れのイメージ消費をしているにちがいないという自覚はある(もっか勉強中、と自分に言い聞かせながら)。
さて、ワインのブラインド・テイスティングと同様のことを、和の食材ででできる人間はどれぐらいいるだろう。こんぶだしを口に含んで、「利尻」と「羅臼」を判別できるだろうか。プロならばおそらく可能だろう。だが、たとえばブランド和牛の産地当てはほとんど無理ではないか。さしの入った肉を食べて、「葉山牛!」とか「神戸牛!」と当てる、そういう大会があったら見てみたいものだ。
【映画情報】
『千年の一滴 だし しょうゆ』
(2014年 / 日本・フランス / 100分(50分 + 50分) / HD)
<出演>
加藤宏幸(京都・祇園の 料亭「川上」主人)
藤本ユリ(北海道羅臼町、昆布ひろい漁、90 歳)
三浦利勝さん一家(北海道羅臼町、昆布漁)
今給黎秀作(鹿児島県枕崎市、カツオ節り職人)
坪川民主(神奈県横浜市、曹洞宗大本山總持寺 典座)
椎葉クニ子 (宮崎県椎葉村、伝統的焼畑農民 、90 歳)
福知太郎 (東京都、はじめて「だし」 を口にする赤ちゃん、 生後 6ヶ月 )
澤井久晃(京都市、醤油醸造業 「澤井醤油本店」 5代目主人)
大野 考俊 (千葉県 香取郡神崎町、酒造業「寺田本家」杜氏)
助野彰彦(京都市、種麹屋主人)
【科学的監修 兼 出演】
伏木 亨( 京都大学院農研究科教授 栄養化学研究 )
北本勝ひこ(東京大学農部 生命科学研究科教授、麹菌研究)
<スタッフ>
監督: 柴田昌平
プロデューサー:
大兼久由美( プロダクション・エイシア)
牧野望(NHK大型企画開発センター)
伊藤純(NHK大型企画開発センター( 当時 ) 、NHKエンタープライズ(現))
Luc Martin-Gouset (フランス人、 映像制作会社 Point du Jour 代表)
Catherine Alvaresse(フランス人、 ARTE France)
撮影: 春日井康夫(『映像詩 里山~ 命めぐる水辺 』でイタリア賞受賞)
音楽:Dan Parry (イギリス人、BBC 番組などの音楽を数多く手がけている)
制作著作:プロダクション・エイシア/ NHK / Point du Jour / ARTE France
配給:プロダクション・エイシア
東京・ポレポレ東中野で公開中
(1/31〜名古屋シネマスコーレ、他、全国順次公開)
※連日 12:50 / 15:00 / 19:30
トークイベントあり。詳細は【公式サイト】を参照
【執筆者プロフィール】
三浦哲哉 Tetsuya Miura
映画批評・研究、表象文化論、酒と食。青山学院大学文学部比較芸術学科准教授。著書に『映画とは何かーーフランス映画思想史』(筑摩選書)、『サスペンス映画史』(みすず書房)、訳書に『ジム・ジャームッシュ インタビューズ』(東邦出版)。Image.Fukushima実行委員会代表。
【関連記事】
【Review】この一抹の違和感はどこから来るのか──佐々木俊尚著『簡単、なのに美味い! 家めしこそ、最高のごちそうである。』 text 三浦哲哉