【Review】 『アリラン』 text 中村のり子


何の意味もない撮影のようで、一つひとつは計算し尽くされている。ぼさっとした男が、寒そうなボロ屋で、ただ湯を沸かし、食事をする。髪をとかし、自分を見つめる。それ自体はとくに趣向もなく、素朴な手持ちカメラで今やありきたりなセルフドキュメンタリー風だ。ただし、テンポ良く手慣れたカット割は、この映画が慎重にコントロールの利いた、俯瞰的に組み立てられた作品であることをはじめから明示する。

© 2011 KIM Ki-duk Film production.

眠っているとドアをノックする音がして、誰だろうと外へ出ても誰一人いない。それはコンセプチュアルな仕草である。風貌を変えたもう1人のギドクが現れ、自分の不甲斐なさを問いただすことも、布地に写した横顔の影と対話することも、 “素顔を見せる” “自分を見つめる”という彼なりのフィクションだ。
ある映画の自殺シーンを撮影するために女優を命の危険に晒してしまった事実にショックを受け、何のために映画を撮るのか分からなくなったこと、育ててきた若手監督が商業的なチャンスをつかんで自分の元を去っていったこと――作品をつくれなくなった背景について率直に話し続けるギドク。それらの言葉にてらいはないが、意味をまとめようとする時にはどうしても気取りが出る。本質に迫っていると言えばそうだが、いわば人生を語るエッセイに良く出てきそうなセリフが並んでいく。「ありがとう、おまえが聞いてくれたおかげで話すことができた」などとかっこよく締めくくる様子には、空虚さが交じる。

この表層だけが本作のすべてだったら、セルフドキュメンタリーに珍しくない自己救済のお話でしかないだろう。さすがにギドク監督はそこに留まっているわけではない。主人公・ギドクの独白シーンをモニターに写し、自ら呆れて笑うという次の層を用意している。自分にカメラを向けるという行為は、切実でありながらもナルシシズムと切り離せないため、撮影する時点で戯画化されるしかない。そのことを、観客の目線から確かめる発想を持ち合わせている。ただ、これもギドクの個性というほどではない。作品の中に自分を登場させるような作家であれば大抵、これくらい自分を客観視する感性は必要なものである。この仕掛け自体はたしかに観客を楽しませるけれども、作品として特出する要素には至っていない。

© 2011 KIM Ki-duk Film production.

では、『アリラン』という映画の拠り所はどこにあるのか。言うなれば、ギドクの調子はずれの「アリラン」の歌声と、彼が自作『春夏秋冬そして春』(2000)を見ながら毛布にくるまってグシャグシャに泣く顔である。この二つは、ギドク監督が自分をさらけ出すというエンタテインメントに身を置く中で、そのしたたかな戦略性から不意に外れて立ち上がり、音響やショットそのものに破壊力を宿している。これらは、何も表すものがなくとも映画を作りたい、ほかにどうすることもできない、というキム・ギドクという男の退っ引きならなさから生まれ出た慰めだ。自分について語りまくる言葉や、それを見せる巧みな構造の妙よりも、このいびつな哀しさがわたしに訴えかけてくる。理論に収まらない情念が鮮烈な形で溢れ出すという点で、これまでの彼の作品と通底する感覚がそこにはある。

本作を見ている最中に思い出した映画が、鈴木志郎康監督の『15日間』(1980)である。とくに撮りたいものもないのに、それでも何か映画が撮りたいという思いを捨て切れない作家が、しかたなしに自分を撮り始める。ギドクが打ち明けた「俺の映画はサド、マゾ、自虐」は、そのまま鈴木の志向にも当てはまる。しかし、そのやり方は『15日間』の方が数段ラディカルだ。ギドクはこれを映画として成り立たせるために、多層的な構成を用いて退屈さを避けたが、鈴木は独り語りの退屈っぷりを平然と露呈してしまう。ギドクが心配した通り、えんえんと続くだけの自省はつまらない。しかし、映画話法の暗黙のルールを無視する覚悟を秘めた鈴木の態度は、セルフドキュメンタリーのつまらなさを突き抜けてしまい、映画というもの自体の構造にまで触れてくる。
『15日間』はそうしたメタ的要素と鈴木が思い悩む人間臭さとの共存が魅力を醸し出す作品だが、最後には闇がぽっかりと口をあけ、映画が解体される気配を残す。対して、ギドクの『アリラン』は同じく自分を見つめ、自分が虜になっている映画というものを見つめながら、最終的にはやはりこの“映画”を構築する方向へと進んでいく。コーヒーメーカーをつくり、ピストルをつくり、自らを奮い立たせて車を運転し、古いものを撃ち壊して能動的に次を開く。満身創痍でありながら、はじめから終わりまで逸脱なくまとめ上げられた本作は、キム・ギドクという監督の物語映画への執着を確かめさせるものだ。

どちらの作品にしても、カメラを通して自分の視線を自分に向けるという行為によって、膨らませたイメージがブーメランのように我が身に跳ね返ってくる空恐ろしさを抱え込んでいる。そこに浮かび上がるのは、映画をつくるより他に生きる術を見出せない男たちによる、人間の不思議の記録でもあった。



『アリラン』
監督・主演・撮影・脚本・製作・録音・音響・編集・美術:キム・ギドク
2011年/韓国/91分/HD/カラー 
シアター・イメージフォーラムほかにて全国順次公開中


【執筆者プロフィール】中村のり子(なかむら・のりこ)  84年生。明治学院大学文学部芸術学科卒。イメージフォーラム研究所で映像制作を学び、亡き祖父の過去を探った『中村三郎上等兵』が「第11回ゆふいん文化・記録映画祭」松川賞、イメージフォーラム2009入選。09年に「場外シネマ研究所」を立ち上げ、不定期で上映イベントを企画している。

©KIM Ki-duk Film Productions