【Book Review】ヒトはなぜ結婚をするのか〜『恋する文化人類学者』鈴木裕之著 text 指田文夫

1949年の映画『晩春』以後、なぜ小津安二郎は、ほとんどの作品で、親が娘を嫁つがせる話を延々と作り続けたのだろうか。筋も役者もほとんど同じなので、どれがどれだかよく分からなくなるほどである。この本は、そうした私の疑問にも解決のヒントを与えてくれた本である。

2011年に横浜で外務省主催の「アフリカン・フェスタ」があった。外務省主催にしては、英語(アフリカン)とスペイン語(フェスタ)を混ぜたひどい名称だったが、このとき音楽評論家北中正和さんに「今回は誰がアーチストの選定をしたの」と聞くと、「国士舘大の鈴木裕之さんですよ」と教えてくれた。この本の著者の鈴木裕之さんで、その時山下公園のメイン・ステージに出ていたのは、妻ニャマ・カンテさんだったのである。

彼は、文化人類学のフィールド・ワークで西アフリカのコート・ジヴォワール(かつての象牙海岸)の首都アビジャンに行き、ストリート・ミュージシャン少年を調査する中で、人気ダンサーのニャマと知り合い、恋に落ちて、婚約する。ある日鈴木さんが新聞を読むと、ニャマの婚約が大々的に出ていてびっくりするが、彼女は現地の大変なアイドルだったのだ。そして、現地の作法にしたがって盛大で伝統的な結婚式を挙げる。この中で、日本とアフリカ(彼女は、両親の代にギニアから来たマンデ人で、「グリオ」の由緒正しい家系なのだ)の差異性に、文化人類学者らしくなく大いに惑わされ振り回される。グリオとは、無文字社会だったアフリカで、民族の神話、歴史、伝承等を語り、音楽、踊り等で伝える演者で、日本で言えば「語り部」である。セネガルのユッスー・ンドール、マリのサリフ・ケイタもグリオの家系の出なのは、よく知られていることに違いない。

このニャマ、両親、親戚等々との結婚式に至る過程が非常に詳細で面白い。そこには故意に仕組まれたドラマがあり、それを二人が乗り越え、時には親戚らと対立し、和解し、様々な儀礼を通過することで祖先から伝承されてきたものを夫婦は身に付け、明らかに異分子だった著者は、無事花嫁の夫の地位を獲得するのである。そして、その叙述中で、近代以降の文化人類学が、どのように人類(多くは未開の民族だが)の歴史と考え方を考察して来たかが明らかにされる。そして有名なレビー=ストロースの定理「結婚は女性の交換である」に行きつき、「ラブ・ロマンス風文化人類学入門」にまさにふさわしい内容になっている。こうしてニャマさんは、鈴木裕之と結婚し、今は日本で子供たちと暮らしているのだ。

冒頭の小津安二郎の問題に戻れば、レビー=ストロースの言う通り、結婚は女性の交換であり、それによって人類は文明に至ったのである。ある時期に、小津は「人間には生まれて誰かを愛し、子を作り、育てていくことにしか意味はない」と思ったからだと思う。それは『麦秋』の際の小津安二郎と野田高梧の言葉で言えば「輪廻」になる。その証拠に、『晩春』と『秋刀魚の味』で、原節子と岩下志麻は結婚するが、その相手の男は出てこない。その意味は、結婚することに意味があり、そこへの(ドラマ)など意味がないからだと小津が思っていたからだろうと思う。吉本隆明流に言えば「あらゆる人間は個として死に、類として生きる」と言うことである。文化人類学の隣接領域であるドキュメンタリーにとっても、非常に興味深い著作だと思う。

【書誌情報】

恋する文化人類学者 ― 結婚を通して異文化を理解する 
鈴木 裕之 著

本体2,200円(税別)
2015年 1月発行
四六判/280頁
ISBN978-4-7907-1645-7

これは恋の物語であり、異文化交流の物語である。アフリカで、著者は彼の地の女性アイドル歌手と恋に落ちた。結婚式は、8日間にわたる壮麗なものだった。激しい異文化の渦に巻き込まれた著者が、自らを素材に語る体験的入門書。

【執筆者プロフィール】

指田文夫(さしだ・ふみお)
大衆文化評論家。1948年東京生まれ 1972年早稲田大学卒業。2013年、現代企画室から『黒澤明の十字架』を出し「従来にない黒澤論」と評価される 6月に「小津安二郎論」を出版予定。

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