【Monograph】地域映画と映像教育の文化史 第2回 藤川治水と熊本映画サークル運動(2)text 佐野亨

貴重な機会をいただいて始めたこの連載だが、個人的な事情により、第1回の掲載から約2年という長期の空白期間を要してしまった。ご期待くださった読者の皆様方に深くお詫びしたい。
第1回では、熊本を拠点として、映画批評、教育活動、さらには映画『あつい壁』の制作などをおこなった藤川治水の人物像と主たる経歴についてまとめた。今回は、治水の活動と相前後して巻き起こった熊本の映画サークル運動、その変遷に軸をおいて論を進めたい。

【Monograph】地域映画と映像教育の文化史 第1回 藤川治水と熊本映画サークル運動(1)text 佐野亨


藤川治水と熊本映画サークル運動(2)

『あつい壁』が1970年代初頭の映画ジャーナリズムのなかでそれなりに注目を集め、「地方から中央への文化逆現象」(『樫本慶次の映画手帖』昭和54年・葦書房)という藤川治水の目論見をわずかにも達成できたとすれば、その背景には、前後に勃興した、熊本の映画人たちによるネットワークの力が大きく作用している。

熊本における映画サークルの先駆けは、1966年に長尾幸弘の呼びかけによって発足された八代ATG(のち八代映画鑑賞会に改称)である。萩原町にある映画館「第一映画」を拠点に月1回、上映会を開催していた(2009年3月、会員の減少による運営資金の不足などを理由に、42年の歴史に幕を閉じた)。

それら文化運動の変遷のなかで、治水はつねに中心的役割を担っていた。
たとえば、1969年に発足した熊本ATG鑑賞会(以後、熊本ATG)では、発起人の樫本慶次に推挙されるかたちで事実上の会長職に就いている。

熊本ATGの活動母体となったのは、地元のミニコミ誌「映画手帖」であった(のち「くまもと映画手帖」に改題)。この「映画手帖」の執筆者を中心に組織されたのが映画と批評の会であり、治水をはじめ、樫本慶次、佐野好吉、木葉裕夫らがメンバーとして名を連ねている。

 <私たちは「映画手帖」批評欄に執筆し、その原稿料を山分けすることも面倒だと、月一回の例会を開いては、その原稿料で適当に飲んだり食ったりしながら合評をし、また、次号の編集計画をたてたりした>(『樫本慶次の映画手帖』あとがき)

1976年、熊本ATGは、映画と批評の会、映像集団Q、シネマ戦線、各大学映研部など複数の映画サークルと統合され、「くまもと映画祭」の開催に向けて動き出す。そして、樫本慶次が実行委員長となり、1976年11月、第1回くまもと映画祭が開催された。

同じ年、九州のATG系列サークルを統括する九州映画サークル連絡協議会が発足。熊本ATG、八代ATGなどが加盟した。こうした地域映画ネットワークの輪は、1974年に岩波ホール支配人の高野悦子(2013年に逝去)がはじめた「エキプ・ド・シネマ」など、各地の映画運動に多大な影響をもたらすこととなる。

また、治水自身は、1988年に熊本大学の映画文化史講座の講師に就任。晩年まで熊本の映画史と現在の映画状況のあり方について講義をし、『映画この百年―地方からの視点』(平成7年・熊本出版文化会館)などの著書にその成果をまとめている。

治水の熊本に対する並々ならぬ愛着は、熊本を「出発点」とする表現者への共感と支援というかたちでも色濃くあらわれた。

たとえば、治水が同郷の士として応援し、「私は一介の映画や漫画への趣味の先輩として、彼の提灯持ちぐらいのことはやる必要があると考えてきた」と語ったひとりに、SF作家の梶尾真治がいる。

梶尾は、熊本市のカジオ貝印石油の息子として生まれ、中学2年生のとき、星新一や熊本出身の女流SF作家・光波耀子が創刊した同人誌「宇宙塵」に参加。その後、福岡大学在学中にプロデビューを果たした。

治水は、福岡大学の学生だった当時の梶尾に出会い、星雲賞を受賞した彼の出世作『地球はプレイン・ヨーグルト』を献本されたその日に、自身がパーソナリティを請け負っていた地元ラジオ局の映画番組で紹介している。

さて、映画ジャーナリズムの世界に身をおくかたわら、教師としても生涯現役を貫いた治水は、小学校や中学校での授業を通じて、子どもたちに映画の楽しさを教える試みにも余念がなかった。

<映画鑑賞が好きな私は、生徒たちに映画の話をする。だから、私の周辺から映画ファンが育ってくる。長期休暇の時や土、日曜に私の映画講演会などがあろうものなら、ちゃんと知らせなければ困るという小さな仲間がいる>

<だから、私はなるべく早い機会の学級PTAなどで、お子さんにはこういう話をするんですよと映画の話の実演をやる。そして映画好きになって、映画代金をせがんでお困りでしょうと、お詫びをすることにしている。参会した保護者たちは苦笑して、それでも小学校時代は寡黙児だといわれた娘が、先生の映画の話を聞いてその内容を夕食の時に語って聞かせ、それ以来よく学校のことを話すようになりました、との応援もあったりする>
(『お母さん 子どもの作文読んでますか』平成5年・熊本出版文化会館)

このような治水の授業に感化された教え子のなかには、卒業後、8ミリ映画の製作をはじめた者、映画に関する文章を書き出した者などが何人もいた。

前述のように治水がラジオ番組のパーソナリティをしていたことから、生徒たちは、治水の授業を「シネマガイドの授業」と呼んでいたという。
その人気はかなりのもので、「ザ・藤川先生ふぁんクラブ」なるものまで発足された。その班長であった女生徒による以下の作文はじつに微笑ましい。

<映画の話と言えば藤川先生、只今男女共に生徒の間から異常な人気である。授業中の態度はと尋ねると、「おとなしそうにしている人がものすごく多かったが、本格的な授業に入るまでが大変苦労するよ」と、明るい五十歳の瞳が笑う。二年の始業式の最初の出合いも「グッバイガール」の話から始まった。その“シネマ巷談”も、今ではすっかりおなじみになっている。映画の話から、知らないうちに同和教育のことを考えさせる先生独特の話しぶりに、興味を持たない人はいない>

(『お母さん 子どもの作文読んでますか』)

ただし、「二年某組」に訊いたところでは、「藤川先生」の授業は、<おもしろくて親しみやすいが、テストにはまるっきり役立たない>ものであったという。

こうした生徒たちとの交流は、彼らが社会に巣立ったのちも、治水の晩年まで途切れることはなかった。『くまもと映画手帖』編集部宛にかつての教え子から手紙が届けられることもあり、藤川はしばしばその文面を誌面に掲載している(同時に、現在進行形で教えている子どもたち、たとえば小学一年生の甥の作文を掲載したりもしている)。

2003(平成15)年4月22日、藤川治水は、肺炎のため、熊本市内の病院で息を引き取った。

著書も軒並み絶版となったいま、彼の名前を知る人はさほど多くはないだろうが、「地方から中央へ」という志にもとづく活動の痕跡は、東京を中心とする映画ジャーナリズムさえもが効力を失った現在、もういちど見直されて然るべきだと思う。


<参考文献>
藤川治水『映画地方論』熊本風土記発行所(1966)
藤川治水『熊本シネマ巷談』青潮社(1978)
藤川治水編『樫本慶次の映画手帖』葦書房(1979)
藤川治水『お母さん 子どもの作文読んでますか』熊本出版文化会館(1993)
椋鳩十編『地に棲む記録』ダイヤモンド現代選書(1973)
熊本大学・映画文化史講座編『映画この百年―地方からの視点』熊本出版文化会館(1995)
「くまもと映画手帖(映画手帖)」くまもと映画手帖社(1955-1993)
田中純一郎『日本映画発達史I~IV』中央公論社(1957-1968)

【執筆者プロフィール】

佐野亨(さの・とおる)
編集・執筆。1982年東京都生まれ。日本映画学校(現・日本映画大学)卒。出版社勤務を経てフリーランス。編書に『教育者・今村昌平』(キネマ旬報社)、『90年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)、『アジア映画の森 新世紀の映画地図』(作品社)、『アニメのかたろぐ 1990-1999』(河出書房新社)、『昭和・平成お色気番組グラフィティ』(同)など。

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