映画が始まると、急に喉が渇くような熱気がスクリーンから伝わってくる。私たちの眼前に広がるのはかんかん晴れのメキシコの荒涼とした大地だ。そこには赤茶けた石ころや萎びた雑草、そして静かに獲物を待つムカデくらいしかない。スクリーンの見えない所で蝉のやかましい鳴き声が私たちの聴覚を刺激してくる。
カットが何度か切り替わり、荒れ果てた農園がスクリーンに映る。そこは本作の主役である映画監督サム・ペキンパーが手掛けた西部劇の傑作『ワイルドバンチ』(1969年)のクライマックスなどのロケ地となった場所である。
『ワイルドバンチ』は、クエンティン・タランティーノやウォシャウスキー姉弟といった後世の映画監督たちに絶大な影響を与えた映画だ。
この映画は、第一次世界大戦間際のアメリカのテキサスとメキシコの国境を舞台に強盗団ワイルドバンチの晩年とその壮絶な最期を描いた事で知られているが、特に有名なのはスローモーション技術と当時の映画としては最多となる3642カット(当時の映画の一般的なカット数は600カットもないと言われている)の映像を駆使した激しい銃撃戦だ。
たった十数分の銃撃戦でもカットが目まぐるしく切り替わるため、全てのカットを認識しようと目で映像を追いかけると自然と強く緊張しまい、まるで体が金縛りにあったように動けなくなる。またカットの切り替わりの合間にスローモーション映像を挟み込んでいるため、緊張していた体が急に弛緩し、目で追いかけているだけなのに何故か宙に浮いたような状態にもなる。
このような映像表現を用いて銃撃戦を描いた映画は他に類例がなく、またその映像に映される登場人物たちの断末魔が木霊し合う凄絶な死に様も印象的で、間違いなく『ワイルドバンチ』はその後の西部劇を含めた全てのアクション映画の新境地を切り拓いた。
しかし、『ワイルドバンチ』は映像技術のみで語り終える映画では決してない。サム・ペキンパーの滅びの美学とも言うべき、一つの時代が終わる頃にその時代を必死に生きた男たちの生き様を、哀愁漂わせながら描いた人間ドラマの傑作でもあった。
『ワイルドバンチ』のロケ地を様々な角度から巡っていくオープニング・シーンから男たちの声が聞こえてくる。それはサム・ペキンパーをよく知るアーネスト・ボーグナインやジェームズ・コバーンといった映画人たちの声だ。彼らは「サム・ペキンパーほど西部を知る者はいない」「1日に3時間は天与の才を窺わせる」など、サムを称賛した。
1960年代~1970年代にかけてアメリカのハリウッドで活躍したサム・ペキンパーの生涯にはトラブルが絶えなかった。彼自身の気質ともいえる感情の起伏の激しさや映画プロデューサーに対する反抗的な態度、飲酒癖・薬物中毒に苦しんだ荒れた私生活など、彼は人生をひたすら破滅的に生き、1984年に心臓発作で亡くなった。
何度も映画監督を解雇されるなど、サムはハリウッドの厄介者だった。しかし、本作のオープニング・シーンにおける彼と仕事を共にした共演者たちの称賛の声を聞くと、彼がただの厄介者ではない事が伝わる。
そんなサム・ペキンパーの波乱に富んだ人生やその人間的な魅力について、本作は彼のフィルモグラフィーの順序に沿って描き、手掛けた14本の劇映画を振り返る中で、彼の家族や彼を知る映画人たちが、彼がどのような人物で、どのように振る舞い、どのような人生を送っていったかを感慨深げに語っていき、改めてサム・ペキンパーという映画監督の人物像を浮き彫りにしていく。
サム・ペキンパーは、1925年2月にアメリカのカリフォルニア州フレズノで生まれた。祖父のチャーチルは法律家であり、後に下院議員を務めた人物で個人製材所と「ペキンパー山」という山を所有していた。ペキンパー家は一族の厳格な家訓やルールを守るよう子孫たちを厳しく教育した。サムもその例外ではなかった。
少年時代のサムは山が大好きな少年で、仲良しの兄のデンヴァーと共によく山に出かけては狩猟を楽しんでいたという。彼がフレズノの学校に通い始めた1931年は世界大恐慌の煽りを受けて周囲は失業や貧困に喘ぎ始めていた。彼の父親であるデヴィッドは正義感の強い弁護士で、現金の支払いに困窮している依頼人に対して報酬額を引き下げたり、物による支払いを受け入れたりと良心的な対応に努めていた。デヴィッドは日頃から「正義を行って家に帰りたい」と彼に言い聞かせていた(本作でインタビューに応じたサムの映画の常連俳優であるR・G・アームストロングの証言によれば、この正義感に溢れた父親のデヴィッドの生き方は、サムの出世作となった『昼下りの決斗』(1962年)で名優ジョエル・マクリーが演じた主人公の「スティーヴ・ジャッド」のキャラクターに強く反映されているという)。
サムは、幼少時の厳格な教育により学校での成績は良かった。また文学を嗜み、文豪ハーマン・J・メルヴィルの『白鯨』などを愛読していた。音楽も好んだが、楽器の才能はなかった。学校では喧嘩早く落ち着きのない生徒だったという。
芸術を愛する繊細な一面を持ちながらも、人一倍短気で喧嘩早いサムの性格には家族も手を焼いたという。父親のデヴィッドはより厳しい躾が必要と彼を軍人学校に入れた(彼は高校時代最後の年をそこで過ごした)。サムの妹のファーン・リー・ピーターは、インタビューにて「兄は軍人学校でその当時で最も多くの罰を受けた」と語った。軍隊流の扱きに彼は徹底的に反抗したのだ。
やがて太平洋戦争が勃発すると、サムも兵士として戦争に従軍したが、結果として終戦まで戦闘行為を行う機会は一度もなかった。彼のその複雑な人間性が活かせる場所は戦場にはなかったのである。
終戦後、海兵隊を除隊して故郷のフレズノ州立大学に入学したサムは、そこで女優志望のマリー・セランドと出会い、彼女の薦めで演劇に興味を持ち、次第に自分の本当にやりたい事が演出家だと確信するようになる。大学を卒業すると舞台の演出家として活躍し始めた彼は、やがて映画に興味を持つようになり、映画の仕事を得る近道と思って今度はテレビ業界で働くようになった。そしてキャリアを重ねていく内に、名うて映画プロデューサーのウォルター・ウェンジャーに雇われた彼は、その仕事場で自身の映画監督としての師匠となるドン・シーゲルと出会い、助監督として働き始める。シーゲルの下で経験を積んだ彼はその才能を認められ、テレビドラマの演出や脚本を数本手掛けた後、『荒野のガンマン』(1962年)で映画監督としてデビューを飾った。
映画監督デビュー作の『荒野のガンマン』は、脚本が良くなくサム自身がリライトをしようとしたがプロデューサーの意志もあり叶わなかった。また、この映画で主演を務めた友人ブライン・キースの紹介で映画監督デビューに漕ぎ着けた事情もあり、彼はキースの面子を潰す訳にはいかなかった。結果として、『荒野のガンマン』はサムの納得いく映画とはならなかった。
『昼下りの決斗』でもサムは映画製作に大きな不満を抱えていた。本作のインタビューに応えるL・Q・ジョーンズによると、撮影中に雪に見舞われるなど天候に恵まれず、製作が遅延となった。妥協を許さないサムは撮影続行を決め込んでいたが、製作元のMGMは撤退を決行。サムは土壇場までそれを知らされなかったので強く憤慨させられたという。
『ワイルドバンチ』の一つ前に製作された『ダンディー少佐』(1965)では、サムは自身の物作りの姿勢に理解のない映画プロデューサーのジェリー・ブレスラーと衝突、製作会社にも反抗し、ついに映画監督を解雇されてしまった。その後、何とか復帰して無事に映画を完成させるも、『ワイルドバンチ』を手掛けるまで約4年間も仕事ができなかった。
本作のインタビュアーの一人であるR・G・アームストロングは、真の映画監督がハリウッドで避けて通れない戦いは、ハリウッドのスタジオ・システムとの戦いだと語る。これによってサムの映画の殆どは壊されてしまったという。
スタジオ・システムとは、製作責任者が脚本から演出、編集など製作工程全体を管理する製作体制を指し、1920年代に確立されたハリウッド独自の映画製作方式である。スタジオ・システムの影響下では、映画監督であるサムも一人の映画作家ではなく、製作責任者が管理する歯車の一部に過ぎない。サムはその不自由と常に戦っていた。