【連載】開拓者(フロンティア)たちの肖像〜中野理惠 すきな映画を仕事にして 〜 第24話 text 中野理惠


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24話 『ナヌムの家』3 劇場公開初日の消化器事件

生後7か月の筆者(向かって左 右は姉)

スクリーンに消火器をまかれる

『ナヌムの家』の初日第一回目の上映が始まった直後のこと。トイレの青年が気がかりだったので、劇場のある地下に一人で降りて行くと、一人の男性が猛烈な勢いで、階段を駆け上がってくる。思わずよけた。それが当の青年だった。なんと、彼はスクリーンに向けて消火器をまいたのである。トイレに入ったのはその準備の為だったのだ。映写を中断し、劇場スタッフが観客を避難させる。劇場がすぐに警察に連絡を取ったのだが、警視庁中野警察署の警察官が、数人でやってきたのは、記憶では3時間近く後だったのではないか、と思う。待てど暮らせど、来なかったことは忘れられない。

『ナヌムの家Ⅱ』のチラシ

警察での事情聴取

BOX東中野のスタッフと共にパンドラのスタッフも、警察で事情聴取を受けた。すると、隣の部屋で別の人物の事情聴取をしている警察官が、私の事情聴取をしている警察官のところに来て、何かの受け渡しをしているようで、出たり入ったりしている。覗くと、どうやら辞書をやり取りしているようだ。そういえば、担当警察官は、私の話を聞いて、事情聴取書に書くのだが、「ええーと、ええと」と上を見ながら、手の止まることが多い。

「書こうか?」

と言うと、

「いや、ダメです。これは自分が書かなければならないのです」

「じゃあ、話したことを私が書くから、メモ用紙、ちょうだい」

警察官は椅子から立ち上がると部屋を出て、メモ用紙を持ち帰ると、鉛筆と共に、私に数枚、差し出した。それからは、いったん話した後、メモ用紙に漢字を交えて書き、彼に渡す。それを繰り返した。だが、他の人たちとは異なり、私だけはなかなか解放されず、記憶では当日の事情徴収は8時間近くに及んだのだった。BOX東中野とパンドラの他のスタッフはすでに皆帰った後である。勿論、電車はない。

「こんなに遅くになって、だいたいこっちは被害者なのに!」

警察官に文句を言い、自宅まで車で送ってもらった。

だが、これで終わりではなく、翌日も事情聴取は続いたのである。宮重ともう一人の若い宣伝スタッフ、天沼佐智恵さんも同じく二日間に渡っていた。しかも事件当日の事情聴取の際、天沼さんとBOXのスタッフには食事が出た、と言うではないか。

宮重の聴取時間は、食事時間にまでは及んでいなかった。

翌日、再び呼び出しを受けて赴いた中野警察署で

「ねえ、他の人にはごはんが出たんだって?」

と聞いた。残念ながら、返事とその後の待遇は覚えていない。 

『ナヌムの家Ⅱ』で、撮影機材を手にするハルモニたち

記者会見

事件を聴きつけて、田中美津さんと現代書館の菊地社長が、別々に電話を寄越して、

ふたり共、記者会見をしろ、と言う。疲れているから、いやだ、と言うと、

「ここで踏ん張らなきゃダメ」

ふたり同士は、お互いに知り合いではなく、偶然だったと思うのだが、別々に電話で何度も何度も私を説得する。上映続行のためには必要な行動である、と承知していたが、とにかく疲れていた。でも、確かにここで何も行動を起こさないことは屈したことになる。結果として、記者会見を開催することにした。そのために、『ナヌムの家』上映続行を支援する人たちの署名を、まず集めなければならない。声明文のたたき台の文章を私が書き、美津さんと菊地さんが、その文書にアカ入れをしてくれた。二人ともほんとうに親身になってくれた。ゴールデンウィークに入ったというのに、東京にいた従業員(前述の二人に加えて増川直美さんと児島奈津子さんだったと思う)も出社し、支援を依頼したい人々に手分けして電話で説明し、文書をfaxで送る。未知の人も多かった。美津さんや菊地さんの協力もあり、正確な人数は覚えていないが、500人近い人たちの署名を僅かな日数で集めることができた。中に、右翼一水会の鈴木邦夫さんの名前もあった。邦夫さんは記者会見にも出席し、

「応援しますよ」と励ましてくれた。

上映続行と多くの支援と協力

韓国から監督のビョンちゃんや、当時、韓国留学中の崔洋一監督が心配して、国際電話を寄越したことを覚えている。崔さんとは大島渚監督の助監督時代に知り合っていた。また、姉がこっそり上京し、一万円札を出すと

「会社の人たちに何か美味しいものを食べてもらいなさい」

とだけ言って帰って行った時には、涙が出るほど嬉しかった。メキシコに移住していたハマダも心配して連絡を寄越し、柴洋子さんは、この期間、ずっと傍らにいて手伝ってくれた。フランス映画社時代の同僚で字幕翻訳者の友人、松岡葉子さんは、

「一番の支援は映画を見に行くことだから、行ってきた」

と電話の向こうで言っていた。事件にひるむことなく(確か当日の一回目と二回目だけを中止し)、続行を決めてくれた山崎支配人を始め、代島さん、原田さん、大矢さん、秦さん(このメンバーだったと思うのだが)、BOX東中野のスタッフ。皆に感謝している。

 『ナヌムの家Ⅱ』のハルモニたち

BOX東中野を記者会見会場にした。土本典昭監督、詩人の白石かずこさんたちが記者会見当日は壇上に座ってくれた。その年のゴールデンウィークは、こうして過ぎて行った。

私たちは対応に追われていて知らなかったのだが、事件そのものが、NHKの全国ニュースで報道されたのだそうだ。皮肉なことに、それにより、『ナヌムの家』は全国に知られることになり、多くの上映希望が寄せられたることとなった。そして、20年経つ今でも、見られ続けている。

後日談になるが、消火器青年には8か月の実刑判決が下されたと聴いている。


ソクーロフ作品の配給

ところで、時間は前後するが、1993年の第3回山形国際ドキュメンタリー映画祭で、ソクーロフ監督の『ロシアン・エレジー』を見たことは第17話で書いたとおりである。第17話で<お目出度い>と書いた出来事を少し説明する。

東京で公開しようと、今はもう閉館している都内の某劇場に売り込んだところ、映画を見ることもなく、支配人が

「実は、できないんですよ」と言うではないか。

「Aさん(第17話参照)からすごい圧力で」

どうやら「自分が日本配給権を持っている」と大っぴらに吹聴していたのに、蓋を開けたらパンドラが持っていたと、ウソがバレたことへの腹いせのようであるが、それに屈する劇場も劇場である。バカバカしい、と今だったら一笑に付してしまうのだろうが、当時は、途方に暮れ、宮重を始め従業員にも言わず、悶々としていた。更に『日蝕の日々』の題名で映画祭上映されていたソクーロフ作品が、実は大好きで、この配給権も取得していた。この窮地を知り、当時の東京テアトル劇場の榎本支配人が手を差し伸べてくれた。作品を見たうえで、レイトショーでの上映を決め、新たな邦題まで考えてくれた。『日陽はしづかに発酵し…』の誕生である。初日に合わせて、監督も来日することになったが、マスコミの反応がイマイチ鈍い。モタモタしているうちに、初日を迎えた。当日、スタッフと劇場に着いた私たちを待っていたのは、予想もしない現象だった。

 『ロシアン・エレジー』のスティル写真

                                   『日陽はしづかに発酵し・・・』のチラシ

(つづく。次回は3月15日に掲載します)

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新年は始まったが、とにかく東京は風が冷たい。教材チームは製作の仕上げに追われ、映画チームは5月公開の『ファブリックの女王』と7月公開の『シアター・プノンペン』の準備に忙殺されている。
なお、消火器事件の文章を書くに当たり、資料を探す時間をとれず記憶のみで書いたので、関係者の方がお読みになって、間違いがありましたら、ご指摘いただけると有難いです。
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