【Review】 観察映画『牡蠣工場』(想田和弘監督)体験記〜変わりゆく世界に、確かに存在する「希望」の兆し text 成宮秋祥

©Laboratory X, Inc.

『牡蠣工場』を観てみたいと強く意識したのは、偶然にも映画館で予告編を観たからだ。牡蠣の養殖業を営む人々を映す映像から、何とも表現の難しい力強さを感じた。また、映画の題名にも惹かれた。『牡蠣工場』という聞き慣れない地味な響きに、どこか人を寄せつけない重いオーラを感じ、ごく普通の人を寄せつける映画では観る事のできない独自の映像世界が、そこにあるように思えた。

実を言えば、想田和弘監督の映画を観るのは、これが初めてだ。「観察映画」というシリーズも初めて観た。つまり、何の予備知識もなく『牡蠣工場』を観てしまった訳だが、驚いた事に、最後まで退屈する事はなかった。むしろ、スクリーンに投影された映像の面白さにすっかり身を委ねてしまい、時間の感覚を忘れる程だった。


冒頭、手持ちカメラで撮られているはずの映像からは手振れをほとんど感じさせない。移動する船から望む朝の光に照らされた瀬戸内海の海面が実に美しい。船に乗った牡蠣工場の作業員をしている男性を捉えるカメラの視線は、雑念を一切取り払ったように研ぎ澄まされ、硬質な緊張感を画面に生み出している。しばらく彼の作業の様子を見守っているカメラ。じっと彼が作業している様子を眺めているだけなのに、なぜかその光景に興味を駆り立てられる不思議な感覚を、私は覚えた。

例えば、船の中でどこかを見ている牡蠣工場の作業員の男性は妙に険しい表情をしているように見える。実際には険しい表情などしていないのかもしれないが、私はそう見えた。人によって彼の表情は異なって見えるだろう。人それぞれが別々に見る彼の表情の意味を探りたくなる。彼が来ている作業着が赤いサスペンダーや黄色いズボン、青い手袋によってカラフルに彩られている事もなぜか気になってしまう。これがゴダールの映画なら、何かしらの意味が込めているのかもしれないが、実際には、そういう意図はないだろう。偶然、作業着の色がそういう色だったに過ぎない。しかしその男性をじっと眺め続ける行為が、その人に何かがあるような、あるいは何かが起きるような気にさせる。いつの間にかその人を眺める行為に集中し、余計なノイズを削除し、今そこに映っている光景を「観察する」自分がいる。その没入感が、映像の世界に実際に触れているような気がして、どうしても面白かった。

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想田監督自身が携えるカメラは、瀬戸内海の美しい海や、牛窓の牡蠣工場の様子もきめ細かく丁寧に観察している。例えば、工場の外に干された作業着や、その作業着から流れ落ちる小さな水滴、作業所内で黙々と牡蠣剥きに従事する女性作業員たちの手の動き、彼女たちが正座する座布団、牡蠣の殻を廃棄所に移動させる作業レーン、廃棄所に堆積する無数の牡蠣の殻など、牡蠣工場での生活・仕事の様子をじっくり観察している。人々の生活の品々やその生活品の使用感を細かくカメラに収める事で、人々の生活の匂いや、そこにその人たちが確かに存在しているという生命の拍動を実感する。

個人的に驚かされたのは、牡蠣工場で牡蠣剥きに集中する女性作業員たちの厳かな雰囲気に比し、工場の窓から射す日光が爽快に明るかった事だ。これは自分自身に偏見があった。「工場」という言語に、私は搾取のイメージを勝手に想像していた。なぜかは知らないが、私は「工場」に対して閉鎖的で暗いイメージを持っていた。過去に自動車工場で働いていた友人が不況の煽りで派遣切りに遭った事が影響しているのかもしれない。そういった先入観を完全に払拭する程、牡蠣工場の作業員たちは、陽気な人たちばかりだ。例えば、カメラに向けて冗談を言う男性作業員を、想田監督は撮影しながら追いかけると、その男性作業員は照れくさそうに笑い、すぐ横で作業していた女性作業員たちも楽しそうに笑う。こうした笑顔の繋がりが、牡蠣工場の活き活きとしたイメージを画面に持続させている。

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しかし、そんな陽気な人たちにも暗い側面があった。それは中国人労働者に対する偏見と恐怖だ。冒頭に登場した男性が経営する工場以外の牡蠣工場では既に何名かの中国人労働者が働いていたが、その内の一名が仕事や生活の辛さに耐え兼ね、就労5日で中国に帰ってしまったという。帰国の旅費も牡蠣工場が持つ事になったというのだから、経営者たちは頭が痛い訳だ。それに中国人は言葉が通じないというコミュニケーションへの不安や、外国人という名の「よそ者」という偏見が、作業所で働く地元の人たちからすると、やはり中国人と働くのは躊躇いがあるのだという。それでも過疎化によって後継者不足に苦悩する牛窓の牡蠣養殖業者にとっては、中国人を含めた外国人労働者を拒否する余裕はない。しかしカメラはそれも無視せず観察していく。

こういった実態に対し、私はなぜだか牡蠣工場の人たちに共感を覚えてしまった。働く業界は完全に異なるが、私は、本業は介護士として福祉施設で勤務している。介護・福祉業界は、昨今のテレビや新聞でも話題になる通り、深刻な人手不足に陥っている。私が働いてきた福祉施設では、牛窓の牡蠣工場のように中国やフィリピンから来た外国人労働者を雇い入れたり、研修生として教育したりしていた。しかし現実は厳しく、介護業務の大変さに耐えられず短期間で退職する外国人労働者を私は何人も見てきた。

撮影中にインタビューを受ける別の牡蠣工場の経営者は、「中国人は文句を言わずよく働くと思っていた」と話す。この言い分に確かな根拠など存在しないのは明白だが、外国人に対して彼らが今まで持っていた先入観が崩れた事による衝撃が、外国人労働者への偏見を強めているように思えた。牡蠣工場の経営者の中には、「中国人は平気で人の物を盗む。それは国民性の違いだ。それに比べてフィリピン人はよく働く」と話す人もいた。これも明らかな偏見である。外国人同士を比較する事で工場が良くなる保証がどこにあるだろう。私が働く福祉施設でも中国の人が働いているが、特に問題など起こさず真面目に勤務している。要するに外国人であっても、その仕事が合うかどうかは人による。

私は牡蠣工場の人たちについて何かしら意見を述べる資格はない。結局のところ、私も「工場」に対して偏見を持っていたからだ。本作を観続けていく間に、牡蠣工場の明るい雰囲気を感じ取り、私は「工場」に対する偏見を改めたいと思った。しかし同時に、牡蠣工場の人たちが抱く「外国人」への偏見を知った。どちらも誤った先入観を持っていた。

私が「工場」に対して抱く「搾取」や「閉鎖的で暗い」といったイメージは、実際に現地見学をして抱いたイメージではなく、例えば新聞やテレビ、友人知人の類から伝わった言うなれば編集された情報に過ぎない。そうした実情とは異なる編集された情報によって、私は「工場」に対して独自のイメージを膨らませていった。私の「工場」に対するイメージの生成過程は、牡蠣工場の人たちの「外国人」に対するイメージの生成過程に近いものを感じる。これらは実情に触れようとしなかったが故に生成された。では私たちはなぜ実情に触れようとしなかったのだろうか。理由は一つしかない。そのイメージを抱いた対象に対して、私たちが「無関心」だったからだ。

想田監督が映すカメラは、「観察」という撮影方法によって、牡蠣工場の人たち、更には彼らの生活風景をスクリーン越しに観る私たちが、心の内側に抱えている「無関心」を炙り出した。

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思い返せば、『牡蠣工場』に映される牛窓という町には、現在の日本が抱える様々な課題が一挙に凝縮されている。冒頭に登場した男性は、東日本大震災の影響で牛窓に移住してきた。東日本大震災が発生してかなりの歳月が経過したのに関わらず被災地の復興は一向に進まない。その間に世界の流れは大きく変化し、彼を含めた牛窓の牡蠣工場の人々も変化を迫られていた。過疎化や高齢化、震災問題、外国人労働者の雇用。牛窓という町は、さながら小さな国である。その小さな国で暮らす人々の生活と苦悩をじっと観察し、その生命の一瞬一瞬をカメラは記録し続けた。そこに記録された映像からは、彼らがどのように文句を言おうが、抵抗をしようが、彼らの知らない所で、世界は変化を遂げていくという真実が読み取れる。

本作を鑑賞後、私は一本の映画を思い出した。中国のジャ・ジャンクーが手掛けた『青の稲妻』(2002)という青春映画だ。高度成長によって急速な変化を遂げていく中国の地方都市で暮らす二人の若者を描いたこの映画は、中国のWTO(世界貿易機関)加盟や2008年の北京オリンピック決定などをニュース映像で報じて、物語の背景となる変わりゆく中国社会を間接的に描きながら、物語の核となる二人の若者の青春をドキュメンタリー・タッチで描いている。二人の主人公が体験していく初恋や友情、喧嘩、悲しみなどがきめ細やかに描かれ、変化する中国社会の中で二人の存在証明たる「青春の痛ましさ」がスクリーンに生々しく刻み込まれ、深く考えさせられる劇映画だ。

『牡蠣工場』にも、『青の稲妻』で描かれたような変わりゆく社会の中で必死に生きていく人々の存在証明が確かに記録されていた。牡蠣工場の作業員の幼い子供たちが船の上で無邪気に遊ぶ姿や、後半にて、二人の若い中国人労働者が緊張しつつ初めて牡蠣剥きに挑戦するのを柔らかい表情で見守る作業員の様子、中国人労働者と日本人の赤ん坊との何気ない触れ合いの瞬間など、『青の稲妻』の「青春の痛ましさ」とは異なる彼らの存在証明たる「人間の心の温かさ」が確かにスクリーンに刻み込まれている。牡蠣工場の人々の中国人に対する偏見がだんだんと溶けていくように映される後半の展開には、思わず感動する。時代の変化に必死に抗いながらも、静かに、そして確実に現実を受容しようとする人間の逞しい心の変化を、本作は劇的でなく実に自然にスクリーンに示していた。

世界は変わり続ける。それを少数の人々が変える事は困難だ。しかし、世界がどのように変化しても、そこに生きる人々の存在証明たる生命の一瞬一瞬は確かに力強く存在している。その生命の一瞬一瞬が放つ人間の心の温かさに、私は、どうしても希望と可能性を感じずにはいられない。

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【映画情報】

『牡蠣工場』
(2015年/145分/日本・米国/DCP/カラー)
監督・製作・撮影・編集:想田和弘
製作:柏木規与子
配給・宣伝:東風+gnome

渋谷シアター・イメージフォーラムほか、全国順次公開中

公式サイト→http://www.kaki-kouba.com

【執筆者プロフィール】
成宮秋祥 なりみや・あきよし
1989年、東京都出身。専門学校卒業後、介護福祉士として都内の福祉施設に勤める。ストレス過多な職場環境の改善や職員間のコミュニケーション能力向上を考えるようになったのを機に、それらに対して実践的な効果が期待できるNLP(神経言語プログラミング)に関心を持つ。その後、NLP創始者のジョン・グリンダー博士が公認する提携校「アバンクリエ」の門戸を叩き、ニューコードNLPを学んでいる。
10歳頃から映画漬けの日々を送る。これまでに観た映画の総本数は5000本以上。キネマ旬報「読者の映画評」に掲載5回。映画イベント「映画の“ある視点(テーマ)”について語ろう会」主催。その他、映画解説動画「ヒナタカ&成宮の昔の名作映画大発掘!」を定期的に実施。将来の夢、映画監督になる。
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