【Review】私たちの“セルフ”ドキュメンタリー 岡本まな監督『ディスタンス』text 高橋雄太

およそ800km。私が暮らしている東京と、故郷である札幌近郊との距離である。私の家族は実家に暮らす両親と祖母、実家を出ている兄だ。いきなり筆者自身の話から本稿を始めた理由は二つある。一つは、映画『ディスタンス』と私とは背景が似ていること。この作品の舞台であり、岡本まな監督の故郷でもあるのは北海道・函館市。私と岡本監督とでは家族構成もほぼ同じである。もう一つは、この映画が岡本まな監督が自身と家族を被写体にしたセルフドキュメンタリーであり、かつ見る者にも自分=セルフを見つめることを促す作品だからである。

本作の監督・岡本まなは、東京で女優として活動していたが、函館で再び暮らすことになり、故郷の家族にカメラを向ける。彼女の家族とは、彼女が幼い頃に離婚した父と母、結婚を控える兄、一人で暮らす祖母である。彼らは同じ街・函館にいながら、バラバラに暮らしている。

笑顔で岡本監督を迎え、食べ物やお茶をすすめる祖母。「元気だった?」と娘に話しかけ、おどけてみせる父親。帰省の度に私も経験する光景である。祖母が爪楊枝を使う姿や、鼻毛の飛び出た父の様子は、家族にだけ見せる無防備な姿と言えるだろう。だが、父親のユーモラスな姿は、娘に会うこと、カメラを向けられることへの照れ隠しにも見える。家族と向き合うためにカメラを構えるのだが、そのせいで相手は身構えてしまう。離れていた親子の微妙な距離、そして撮影のためにカメラと被写体との間に必然的に生じる距離が、彼をそうさせてしまう。

距離は、監督と家族との間だけでなく、家族同士の間にも存在する。父と母は離婚し、別々の人生をおくっている。そして父から時には暴力を伴う厳しい躾を受けたことを兄・圭吾は語る。幼い頃に両親が離婚し、父と離れて暮らすようになってからも、彼は胸の中に「怪物」や「闇」を抱えていたという。父親をずっと憎んでいた。だが、そんな兄が父を許し、一緒に食事をし、自分の結婚式にも出席してもらう。二人の距離は、一度は離れ、再び近づいたことになる。

岡本監督は、こうした距離の変化に戸惑っているようだ。両親の離婚当時、幼かった岡本監督の記憶は兄ほど鮮明ではないと思われる。故郷を離れていたせいか、兄と父との和解の経緯もわからないのかもしれない。作品中のナレーションで、兄のように父を憎むこともできず、また愛することもできなかったと監督は語っている。「どうして許す気になったの? あんなに憎んでいた父親を」。彼女は兄にそう問いかける。彼は、父親に射殺されたマーヴィン・ゲイの生涯と音楽を知ったことをきっかけに、自分も父のことを愛おしくなったと語る。

岡本家の人々はカラオケやダンスに興じており、彼らが音楽好きであることは想像がつく。だが、<胸の中の「闇」と「怪物」、それを解消して親子に和解をもたらす音楽の力>と要約してみると、少々きれいすぎる物語にも思える。いや、むしろ、次のように言うべきかもしれない。家族である岡本まなが、映画作家として映画を撮ったことにより、きれいな物語ができあがった、と。前述のように、憎しみも愛も抱けない程度に、彼女と家族との間に距離があった。距離。それは撮影のためにカメラと被写体との間に必要なものでもある。離れた位置からのズーム、兄や父のアップ、冬の海岸で踊る監督自身を捉えたロングショット。いずれのシーンでも距離はゼロではない。心理的な距離を空間に投影するように、距離をおいた状態で家族と向き合う。そのための方法が映画だったのかもしれない。

母親はこの距離感を端的に言い表している。「人それぞれに生活がある。遠目に見るのがいい」。そう語る一方で、娘であるまなのことを「生きる希望」と言う。誰よりも愛しているのに、離れてしまう。その近くて遠い距離が、映画と被写体、そして岡本家の人々に共通する。

岡本監督は、家族の現在を撮りながら、過去の自分たちのことも振り返る。映画内で何度も登場するホームビデオには過去の岡本家が映っている。まだ兄妹が幼く、両親も一緒に暮らしていた頃の家族の姿。監督の構えるカメラが、テレビの中の幼い自分と家族を見つめる。家族にとっては楽しい頃の思い出だが、彼女にとっては記憶が曖昧だった時期の記録かもしれない。カメラとテレビとの距離は、家族と時間を共有していたにも関わらず、幼さゆえに記憶を共有できなかった彼女の疎外感を表しているようにも思える。テレビの中に入ることも、過去に戻ることもできない。カメラ=岡本監督と被写体との間を空間的な距離が隔て、さらに過去の自分たちとの間にも時間的な距離が空いてしまうのだ。

だが、距離は彼らを結びつけるものでもある。岡本家の人々が過去の自分たちを見つめるとき、20年以上の時間的な距離が開いている。それと同時に、20年以上の時間の蓄積が彼らの中に存在する。憎しみ、愛、あるいはそのどちらでもない宙ぶらりんの感情。家族と共有できたもの、できなかったもの。それらを全て含めた時間だ。一言で表すことはできない、ましてや物語に回収することもできない、家族の歴史である。距離は隔てるものであり、かつ過去と現在を結びつける。家族と距離をおいて、かつ距離に蓄積された思いを抱えて、岡本まなは家族と向き合う。

未来の岡本家の人々が、一種のホームビデオとしてこの映画を見返すときも来るだろう。そのときまでに、新たな愛と憎しみ、争いと和解があるのかもしれない。いずれにせよ、彼らは『ディスタンス』に映る自分たちと距離をもって、そして距離に蓄えられた思いを持って、再び向き合うのではないか。岡本家の過去、現在、未来がつながっていくのだ。

岡本家の人々が『ディスタンス』に自分たちを見るように、観客もこの映画によって自分の家族と向き合うのではないだろうか。本稿の冒頭で述べたように、私は偶然にも、故郷が北海道であることと、家族構成の点で、岡本監督と似た状況にある(私は男性であり、両親は離婚していないが)。ただし家族とは別の土地で暮らしている。この映画を見たときも、この文章を書いているときも、私は故郷から800km離れた場所にいて、家族は私の側にはいない。昨年(2015年)、365日のうちで家族に会う期間は10日程度だった。共有してきた時間も長いが、共有しない時間も長くなるだろう。ぴったりと寄り添うこと、ずっと一緒にいること。それはもう難しいかもしれない。だが、この映画を見ると、距離を隔てて、距離を抱えて向き合うことが、私にできることではないかと思えてくる。

私のように家族と離れている人、あるいは家族と一緒に暮らす人、それぞれが家族との距離、家族との向き合い方を顧みるだろう。映画『ディスタンス』は、岡本まなのセルフドキュメンタリーであり、私たちにとっての“セルフ”ドキュメンタリーでもあるのだ。

 【映画情報】

『ディスタンス』
(2016年/80分/日本/16:9)

撮影・編集・監督:岡本まな 
プロデューサー:浅井一仁 
音楽:ランタンパレード
整音:新井俊平 宣伝美術:大橋祐介(ROTA) 
宣伝プロデューサー:花崎愛 五十嵐珠実 
通訳:岡本みなみ
協力:松永良平(リズム&ペンシル)Cafe & Bar Roji 富内雄也

東京・ポレポレ東中野にて上映(8/19-9/2 連日21:20、8/31を除く)
ほか全国順次公開

公式サイト→http://distance-film.jp

【監督プロフィール】

岡本まな
1988年生まれ、北海道函館市出身・在住。現在、母親と大沼でカフェrose gardenの開店準備中。趣味は映画鑑賞。18歳で上京。女優を志し、いくつかの自主映画やミュージックビデオに出演する。その後、保育士やバーの店員、家事代行、競馬場でのチケットもぎり等をしつつも映画への情熱は忘れられず、何も分からないまま映画を作ることを決意。初監督作品となった『ディスタンス』は山形国際ドキュメンタリー映画祭2015・アジア千波万波部門で上映される。
本作完成後、函館でオーディションを受け、山下敦弘監督最新作「オーバーフェンス」に文子役で出演予定。

【執筆者プロフィール】

高橋雄太(たかはし・ゆうた)

1980年北海道生。北海道大学大学院理学研究科物理学専攻修了。会社員であり、映画冊子『ことばの映画館』のライターとしても活動している。
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