【Review】島は、音楽は、あなたが訪れるのを待っている。『島々清しゃ(しまじまかいしゃ)』 text宮本匡崇

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「沖縄(音楽)」「子ども」「吹奏楽」そして「親子」——。映画『島々清しゃ』の構成要素は大きく分けてこの4つだ。しかし作中、その中のどれにも含まれないと思われる人物がいる。安藤サクラ演じるヴァイオリン奏者・祐子の存在である。

物語の舞台は沖縄、那覇市から西に約40kmに位置する慶良間(けらま)諸島。大小20あまりの島々が点在するこのエリアの海は世界屈指の透明度を誇り、“ケラマブルー”と称されるほど美しいという。2014年には国立公園にも指定され、ウミガメとの遭遇率も高いなど、ダイビングやシュノーケリングに人気のスポットだ。しかしあくまで観光の中心は、本島からアクセスが良く(高速船でわずか35分)面積も大きな渡嘉敷(とかしき)島であり、本作でドラマの中心舞台となる慶留間(げるま)島は、それよりやや奥まった場所に浮かぶ、こぢんまりとした離島という印象である。両隣の阿嘉(あか)島、外地(ふかじ)島とは大きな橋で繋がってはいるものの、大半の観光客の目的は阿嘉島止まりのようだ。100人に満たない人口と伝統的な沖縄の家屋、手つかずのビーチ、ごく小さな港と売店、そしてそのすぐ隣の海岸に佇む学校……、これらが画面に映る島の全てである。特にそれ自体が絶景とも言えるロケーションの慶留間小・中学校は、島の人工物の中でも一際大きな存在感を示しており、その様子は作中における学校=子どもたちが果たす役割の大きさを象徴している。

そんな島に、祐子は前触れもなくやってくる。表向き、それは近々学校で開かれる音楽鑑賞会に東京から演奏者として招かれたためだ。しかし、単に仕事のために田舎町を訪れたにしては彼女のスケジュールはどうものんびりとしているし、ヴァイオリニストとしてのキャリアも不明なら、どのようにしてこの辺境の学校を訪れることとなったのか、その経緯すら語られない(祐子の旧知と思われるピアノ伴奏者が演奏会当日にしか姿を見せなかったのとは対照的だ)。後に「実は休暇も兼ねてこの島に来た」と語る祐子だが、後出しジャンケンのように出し抜けに提示されたその情報以外は、彼女の人物背景は伏せられたまま物語が進んでいく。

くわえて、当然のことながら祐子はこの島においては他所者だ。沖縄弁も分からないし、沖縄音楽に直に触れるのも初めてのようである。うみ(伊東 蒼)に初めてヴァイオリンを聴かせた際は、「G線上のアリア」は心地よく受け入れられても沖縄民謡の「谷茶前(たんちゃめー)」は「気持ち悪い」と拒否されてしまう。琉球音階独特の“色”をクラシック奏者の祐子は表現できない。また、子どもたちに音楽の指導をしようと発起した際には、島の漁師でサックス奏者の真栄田(渋川清彦)に「大和人(やまとんちゅ)は大和に帰る」「大和人はみんな無責任だ」とあしらわれてしまうし、子どもたちが取り組む吹奏楽にしても、そもそもヴァイオリンは基本的に編成に含まれていない。まして、彼女は教師でもなければ彼らの母親世代ともやや言い難い。状況的には疎外されているとも言えるこの異邦の地に、それでも彼女が留まる理由は何だろうか。

学校での演奏会後、浜辺で酒を煽る祐子の自暴自棄な態度には、彼女がどこか東京へ帰ることを望んでいないように思わせる節がある。「いろいろ嫌になっちゃった」と言う彼女に、「人間、生きてるだけで80点よ」と説く昌栄おじい(金城 実)の言葉が印象的だ。歌と三線の名手であるおじいは、沖縄の島々の美しさを歌った普久原恒勇の名曲「島々清しゃ」を歌ってみせる。祐子は束の間、おじいの歌声と島の自然に身を委ねる。そこでおじいの口からは娘のさんごと孫のうみ、そしておじい自身の、親子三代にわたる複雑な心境が語られる。その力強くもたどたどしい、独特な語りで吐露される不器用なエピソードが、祐子の胸に何か引っかかったのかもしれない。

うみとおじいは島で二人暮らしをしており、母親であるはずのさんごは半ば育児を放棄して那覇で出稼ぎをしている。おじいは歌と踊りの才に恵まれなかったさんごに厳しくあたり、また、そんなさんごと人一倍音に敏感なうみの生活が難しかったであろうことが台詞の余白に語られる。那覇で舞踊教室に通うさんごが「自分は踊りが出来るようにならなければ親にも子にもなれない」とすがる姿は切実だ。一方のうみもまた、自分の敏感な耳のせいで母が離れてしまったことを気に病んでいる。耳はずば抜けて良いものの、「ちんだみが狂った」歌や演奏しかできないという点では自分も母親と同じだ。そんな自分が吹奏楽部でみんなと演奏をできるようになれば、それは「悪い耳」を克服した証明になり、そうすれば母親も帰って来てまた一緒に暮らせるのではないか……、そんな健気な希望と願望を支えに、苦痛を伴う楽器の練習に励む。音楽によって引き裂かれてしまった親子が、音楽によって親子の在り方を取り戻そうとする姿が浮かび上がる。
(※注 ちんだみ:三線や琴の調弦を意味する沖縄方言。うみはより広義に、音楽的に心地よい響きを感覚的に「ちんだみ」として感じ取っているようである。うみは「ちんだみが狂った」音を聞くと「わじわじする」「気持ちが悪い」「頭が割れる」……といった不快感を露わにし、時には喚き出してしまう。また、そのことで周囲の子どもたちとの間に不和がある。楽器の音色や和音のみならず、自然の音や米軍機の飛行音にも敏感に反応している。)

三線と歌、吹奏楽、海辺でのセッションなど、絶えず音楽が演奏されることによって物語が進行していく本作だが、一方で楽器を用いてこれほど不快な音を聞かせる映画も珍しい。うみがフルートの頭部管を使って基礎練をする様子は観客にとっても苦痛なものだ。音色と呼べる以前のキンキンとした音が劇場に響き、その生理的に不快な音を私たちの身体は理屈抜きで拒絶する。思わず耳を塞ぎたくなる人もいるだろう。その劇場体験はそのまま「ちんだみ狂ってる!」「頭が割れる!」……と叫ばずにはいられない、うみの苦しみの疑似体験となる。

音楽家にとって、この種の苦痛は誰もが経験するものだ。自分が出しているはずの音が理想とはかけ離れ聞くに堪えない。むしろ大半がそうした苦しみの時間かもしれない。そんな苦難をあえて引き受けながら、音楽によって人と繋がろうとするさんごとうみ、ひいては吹奏楽部の子どもたちの姿が本作には誠実に映し出されている。(吹奏楽部を演じた慶良間諸島在住の子どもたちをはじめ、本作では出演者のほとんどが楽器未経験から出発して演奏と芝居を作り上げており、このことが作品に一種のドキュメンタリー的な強度をもたらしている。これは本作の脚本・音楽監督である磯田健一郎が過去に参加した、素人の中学生を起用することでさながら実在の吹奏楽部のような成長物語を捉えた映画『楽隊のうさぎ(2013)』と類似の撮影条件が引き継がれている。)

映画後半、昌栄おじいが急逝したことにより、物語は急展開していく。葬儀を終えたさんごは、どのようにうみと暮らしていけばいいか分からず、途方に暮れ放心してしまう。また、意外にもおじいの死の影響で動揺してしまうのは他所者であるはずの祐子だ。彼女はおじいの死後、唐突に音楽の指導を放り出し、子どもたちに黙って島を出ようとする。大人としてはあまりにも無責任な2人である。しかし一方で、子どもの方は敏感に彼女たちの気持ちの揺れを察知する。うみをはじめとした吹奏楽部の面々は、逃げるように船に乗ろうとする祐子を引き止め、また酒に逃げようとする母親を前にして、それまで練習を重ねてきた「島々清しゃ」を合奏する。そうすることで、ぐずぐずと尻切れになりそうな各々の関係を、どうにかして結実させようとする。こうして映画は出演者集合の大団円をむかえ、さんごはうみの成長した姿を(かつて授けた耳あてを返却されることで)受け取り、親として生きる活力を得ることになる。思えば、本作の主題の1つはこの親子の名付けに象徴されている。大きく美しい「海」の中で生かされる「サンゴ」。子どもを生かすはずの親や大人が、むしろ知らぬ間に子どもによって生かされていることを目の当たりにする物語だ。

ところで、本作の脚本と音楽監督を手がけた磯田健一郎は、楽曲「島々清しゃ」の魅力の1つに「汎世界性」を挙げている。沖縄独特の琉球音階ではなく世界中で使われている五音音階が用いられているのがその所以だ(作中でも、祐子がこの曲を選曲した理由の1つとして語られている)。実際に沖縄でも幅広いアーティストに演奏され、ハワイアンの名手にまでカバーされているという。映画内においても「島々清しゃ」はその独特な楽曲的魅力をもって、他所者である祐子を島や子どもたち、吹奏楽へと繋ぐ媒介として機能している。それはあらゆる流浪人を広く受け入れてくれるような、沖縄という土地の懐の深さにも通じているように思える。

演奏を終え、帰路につく船上の祐子の表情は朗らかである。そこで初めて、彼女が自分の腹を撫でる姿が(ややわざとらしい誇張をもって)映し出され、彼女もまた本作の「親子」という主題の中に母親として含まれていたことが分かる(勘の良い観客は序盤で酒を控えていた様子から即座に察しただろうが)。祐子が島に滞在した理由の一端が妊娠をめぐる問題であったことはほぼ明白だが、それ以上が作中で語られることはない。(故に、祐子は匿名の大和人としての役割を最後まで維持している。)

昌栄おじいが説いたように、人は「生きているだけで80点」なのかもしれない。かつて子だった者が親となり、またその子どもを育てる。生を紡いで生きていくことは容易ではない。それは人が初めから美しい「ちんだみ」で音を奏でることができないこととよく似ている。たとえ最初は聞けたようなものではない音色であっても、日々音と向き合い、また耳を開いて調和を試み続けることでより良い演奏に近づいていく。そんな、苦しみながらも「80点以上」であろうとする人間の営みを、祐子もさんごと同じように子どもたちから教えられ、また(お腹の中の)子どもによって(母親として)生かされる自分を心のどこかに悟って島を後にする。

土地と音楽、そして子どもたちによって人々が救済を得る映画『島々清しゃ』。エンドロールで再び流れる「島々清しゃ」を聴き終わる頃には、いつしか観ている者の心までも沖縄の風土と音楽によって穏やかにチューニングされていることに気付くだろう。誰もがつまずきやすい人生の先で、そっと誰かが訪れるのを待っているような一本だ。

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『島々清しゃ』
(2016年/日本/100分/5.1ch/ビスタサイズ/カラー/デジタル)
監督:新藤風
脚本・音楽監督:磯田健一郎
出演:伊東 蒼、安藤サクラ、金城 実、山田真歩、渋川清彦、角替和枝、でんでん
配給・宣伝:東京テアトル
※写真はすべて©2016「島々清しゃ」製作委員会

公式サイト:www.shimajima-kaisha.com

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耳が敏感すぎるために変わり者扱いされ、母親や友だちとの関係に悩むうみ。沖縄の熱い日差しの下でも耳あてをし、三線の名手であるおじいと2人暮らしをしている。ある日、島を訪れたヴァイオリニストの祐子と出会ったうみは、フルートを練習し吹奏楽部に参加することで、頑なに閉ざしていた自分自身を少しずつ解放していく。

buy viagra 【執筆者プロフィール】
宮本匡崇 (みやもと・まさたか) 
88年生まれ、フリーランスライター、慶應義塾大学法学部政治学科卒業。映画美学校批評家養成ギブス第二期修了。映画祭スタッフ、映画評執筆、自主映画制作・宣伝(Web/SNS)等、幅広く映画に関わる。専門領域は映画、文学、漫画など。「ことばの映画館」「スピラレ」ほかで執筆活動中。青春映画愛好。