【Review】「見る」ことの深淵へ――ジャンフランコ・ロージ監督『海は燃えている イタリア最南端の小さな島』text若林良

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近年、『海と大陸』(2011)、『楽園からの旅人』(2011)といった劇映画の日本での公開によって、イタリアにおける難民問題は、映画館の観客にも身近になりつつあるかもしれない。ジャンフランコ・ロージによるドキュメンタリー『海は燃えている』もまた、そうした主題を受け継ぐ作品であり、舞台となるのは、難民問題における最前線とも呼べる、地中海のイタリア領最南端の島――ランペデューサ島である。ベルリン映画祭で最高賞を受賞した本作では、島で暮らす住民たちと、島を訪れる難民たちに、交互に光を当てるようなかたちで映像が進んでいく。

冒頭、のちにサムエレという名であることがわかる、島民たちのなかでも主要な被写体となる少年が、島のなかで遊ぶ様子が映し出される。1本の木によじのぼり、枝を切り、自然の中を歩くサムエレ。愛犬とも戯れながら歩む彼の様子に、微笑みを浮かべる観客もいるかもしれない。 

しかし、サムエレに感情移入する暇もないまま、場面は移行する。続く画面には、ぞっとするような夜の暗闇のなか、くるくると回転する巨大なレーダーや、全体像まではわからない艦船の進む様子などが、無線から流れる難民たちの「助けて」というかすれ声とともに映し出される。その無機質さは、牧歌調とも言える冒頭の伸びやかさとは対照的なものだ。一見無関係のようにも思えるこのふたつのシークエンスだが、しかしそうではない。「見る」角度を切り替えて撮影したとはいえ、まぎれもなく同じ島の風景を切り取ったものなのだ。

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こうしたショットの移行自体は、編集としては何気ない操作であるのかもしれない。しかしながら、冒頭で端的に示されたこの対照性は、本作における問いと大きく関連するものであるはずだ。その問いとは、恐らく「見る」という行為のあり方に還元されるものである。中盤において、サムエレは左目が弱視であることが判明する。そこで彼は左目の視力を上げるため、矯正レンズを装着するとともに、視力が良好であった右目に包帯をすることともなる。つまり比喩ではなく、文字通り彼の「見方」が変質を遂げることとなるのだが、物語上におけるこうした変化は、映画そのもののあり方とも確かな連関を見せている。

本作におけるふたつの世界、それはサムエレや家族、ラジオDJのピッポなどが暮らす何気ない日常としてのランペデューサ島と、20年間で40万人の難民が命がけで訪れた、難民たちの玄関口としてのランペデューサ島である。このふたつの世界は作中、並行して描かれることとなるが、両者を結ぶ存在としては、島でたったひとりの医師を数えるのみだ。ランペデューサ島の広さは約20㎢。日本に置き換えると、東京都港区の大きさとほぼ同じだ。限られた生活圏内であるゆえに、島民たちが島に訪れる難民たちの存在を知らない、とは考えにくい。ただ真実がどうあるかは、“重要な事柄”ではない。本質がどうあれ、本作においては、画面に「同時的に映されることがない」という事実だけがすべてなのだ。

では、本作は島民たちの「無関心」を捏造したプロパガンダ映画なのか?そのような問いは、しかし当てはまらない。「無関心」ということばを使うのだとすれば、本作におけるそれはむしろ、わたしたちが日常において使う意味の凡庸性=一義性の解体である。関心とは、言いかえれば取捨選択だ。それは本作の画面に立脚してたとえれば、サムエレや友人がパチンコで、もしくは手を銃のかたちにして撃つその標的であり、ピッポが放送において流す音楽である。本作では映像において、「選ばれた」豊かさをまず感受すべきなのだ。

中盤、漁に出たサムエレと伯父がイカを釣りあげ、それが祖母によって調理され、シチュー(煮込み)として食卓に上がる、時間の移行を示す上で明快なシークエンスがある。ここで留意すべきは、サムエレと伯父、祖母、そして私たち観客はそれぞれ見えているものが違うという、当たり前のように思えるものごとの道理である。たとえば、サムエレと伯父がイカを釣りあげた瞬間を(おそらくは)見ていることに対し、祖母はその瞬間を知らず、また祖母が主体となったイカの調理の過程に、彼らふたりは立ち会っていない。「島民/難民」というより大きな対照性ではなく、「家族」というミニマムな、かつ普遍的なコミュニティの内部での「視点のずれ」を示唆するうえでもこれらのシークエンスは機能している。そして私たち観客は、それらふたつを編集された、「ダイジェスト」という形でしか見ることはできない。ここにもまた確かな視点の分断があることを、わたしたちは自然に感じとることになる。

「見る」ことのやや迂回した例をもうひとつ、医師が難民である妊婦の超音波検査をおこないながら、彼女に語りかけるシークエンスを参照しよう。超音波によって映される(双子の)胎児は、当然ながら実際の胎児の姿ではない。また医師にとっての胎児が(情が移りえることを別にすれば)ひとつの診療対象に過ぎないことに対して、母親にとっての胎児は、医学的見地から語ることこそできないものの、胎動とともに自身の内部に息づいている、確かな実感を伴った存在である。つまり母親は胎児を、視覚以外でも確かに「見る」ことができている。このような違いは、視覚的な表現を使うのであれば、主「観」と客「観」の差とも言いかえることができるだろう。

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「主観」や「客観」に加え、「俯瞰」についてもまた言及したい。先ほどのイカに関連したシークエンスでいえば、私たち観客は海に生きるイカが、料理として食卓に上がるまで、その過程を第三者的立場から「見る」ことが可能となっている。また、これは画面上では俯瞰という行為そのものに付随する効果ではあるが、サムエレが友達と懐中電灯を照らしながら、夜の島を散策するシークエンスは、光の不規則な乱反射によって、私たちの視覚を刺激する。このような刺激は、たとえば難民たちが入国において身体検査を受ける際に使用する、マントの乱反射ともまた共鳴しあうものだろう。作中において光と影のコントラストを効果的に多用していることも含め、本作には視覚を単純に「ときめかせる」シークエンスが非常に多い。これらはまぎれもなくカメラの介在によってもたらされたものであり、いわば、映画というメディアそのものがもたらす刺激と形容することができる。

上記のような刺激、また視点の多様性は、本作が現実に起こったことにカメラを向けている以上、制作陣によって完璧に計算されたもの、とはおそらくは言えないだろう。むしろ監督であるジャンフランコ・ロージを中心とした制作陣の目を欺き、「難民問題の提起」という本作のテーマそのものをも裏切るような、それ自体としての映像のしたたかさ(ダイ・ヴォーンの「自生性」についての言及をあげるまでもないだろうが)が反映されたものと言えるのではないだろうか。そしてこういってよければ、そのような映像への「賭け」の姿勢こそが、本作がもつ魅力の最大の要因ともなっている。

筆者がここまで述べてきたような考察は、単なる映像の深読みにすぎず、難民問題という国際的な問題の解決に何ら寄与するものではない、という意見はあるかもしれない。しかしながら、社会的文脈に照らし合わせ、どのように批評の力を提示することができるか――本稿はむしろそうした苦慮からの産物であることはここで付言しておきたい。たとえば、イタリア首相であるマッテオ・レンツィの、「ランペデューサ島にやってくる人々を、数ではなく、ひとりひとりの人間として描いている」(本作パンフレットより)という素朴にも見えるコメントが、そうした姿勢を説明する上で明快かもしれない。社会問題を提起する上で人心を動かすのは、物量ではなく、その生活の細部=具体性である(たとえばアフリカ諸国への渡航歴があるかどうかで、そこに存在する問題への意識のあり方に差が生まれることは想像に難くないだろう)。本作は映像によって視点の多様性、また人々の対照性をさまざまなかたちで提示することで、一義的な報道では得ることができない新たな想像を観客に喚起させる。そしてそれこそが、社会を動かすうえでの大きな礎につながっていくのではないだろうか。

かりに本作がDVD化され、「ドキュメンタリー」としてTSUTAYAでの区分けが行われるのだとすれば、本作には「社会派作品」というレッテルが貼られることとなるだろう。しかしそのようなオートマティックな作業は、本作の(もちろんひとつの作品に限った話ではないが)映像の多義性=訴求力を殺すことに他ならないのではないだろうか。いずれは日本も目を向けなければならない難民問題を映し出した本作について、しかし、だからこそそうした物語としての様相から、わたしたちはこの映画をいったんは解放する必要があるはずだ。そうした作業は奇妙にも、「自分の目でしっかりと見つめ直す」という本作に込められたであろうメッセージとも確かな呼応を見せ、わたしたちに新たな「気づき」の獲得をうながすことになるのだから。

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http://cocir.org/uploads/tx_tablesmdcia/ Buy Cialis Online 『海は燃えている イタリア最南端の小さな島』
監督:ジャンフランコ・ロージ 原題:FUOCOAMMARE
2016年/イタリア=フランス/114分
後援:イタリア大使館、イタリア文化会館 
協力:国連難民高等弁務官(UNHCR)駐日事務所
推薦:カトリック中央協議会広報
配給:ビターズ・エンド
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若林良 (わかばやし・りょう)
1990年生まれ。映画批評・現代日本文学批評。専門は太平洋戦争を題材とした日本映画。またジャンルを問わず「社会派」作品全般。