『ローディ! 地獄からの脱出』より フロントマンのMr.ローディ(本名トミ)。KISSのメイクにゴジラを融合したような風貌。
北欧の清冽な空気をもたらすような透明感ある「トーキョー・ノーザンライツ・フェスティヴァル2017」のラインナップ中で、ひと際ゴテゴテと浮いている異質な作品が一つあった。それが本作『ローディ! 地獄からの脱出』(以下『ローディ!』)だ。かつて人気を誇ったが今は落ち目の、ローディ(Lordi)というフィンランド産メタルバンドのその後を追ったロック・ドキュメンタリーで、フロントマンのトミ(Mr.ローディ)と幼馴染だったというアンティ・ハーセが監督を務める。このバンドのトレードマークは何といっても、KISSのメイクを何倍も醜悪にしたような奇抜なマスクとコスチュームであろう。しかしこの映画の主眼はそこには置かれない。むしろその道化じみた仮面の下で、素面のバンドマンは何を思うのか、というのが本作の主題となる。
映画はトミが幼少期に描いたイラストを映すところから始まる。優れたアウトサイダー・アートのような出来栄えで、その後に彼が自主制作する幾本かのホラー・フィルムの映像(劇中で断片的に流れる)などと併せ鑑みるに、トミの母が「芸術家に育てたかった」という気持ちも分かる。『ET』がフィンランドで上映された際には、遠路はるばる家族で鑑賞に行き、トミ少年は感動のあまりETのマスクを製作する。のちのローディのマスク製作(自分で作っているのだ!)の礎を築く、記念すべき第一号作品だ。
ローディは2006年のユーロビジョン・ソング・コンテストにおいてフィンランド代表で優勝はしたものの、その後はパッとしない。アルバムの売り上げは下降する一方で、メンバーは辞めるし、死者さえ出してしまう。中でも印象的だったのがアヴァという女性キーボーディストの脱退劇だ。バンドを続けることで自分の心がボロボロになっていくことを悟った彼女は、トミに辞めたい気持ちを打ち明ける。「こうなることは予想していた」と言うトミ。鏡の前で一人になると、彼女はマスクを剥がす[1]。素顔を映さないことを条件に撮影が始まったという本作で、唯一メンバーの顔が露わになる瞬間である。上映後のトークショーで、監督はこのシーンの内幕について教えてくれた。トミはアヴァの顔を映すことに断固反対していたらしいのだが、監督は作品の本質からして「これは映さなければならない」と判断し、押し切ったという。「だからトミと僕は今もギクシャクしてるんだよ」と監督は冗談めかして語っていたが、これは功を奏したというべきだろう。鏡越しに映る彼女の晴れ晴れとした顔は、仮面の下に抑圧されざるを得なかった何かを取り戻したかのようだった。彼女のセカンド・ライフが今始まったのだということを、明確に伝えていた。バンド以外の人生もあるのだということを、その朗らかな顔から我々は読み取る。『アンヴィル!』で描かれたのは、どこまでも「夢を諦めきれない男たち」であったが、『ローディ!』では「夢を諦めた女」をしっかりとポジティブに描きこめていたと思う。
フロアからの質問に答えるアンティ・ハーセ監督。トーキョー・ノーザンライツ・フェスティヴァル(@ユーロスペース)にて行われた上映後のトークショーにて(2017/02/13、筆者撮影)
『アンヴィル!』というあまり知られていないであろう名前を出した。これはローディ同様、かつて人気を誇ったが凋落したカナダ産メタルバンド、アンヴィル(Anvil)のその後をコミカルに描いた『アンヴィル! 夢を諦めきれない男たち』(2009年)というロキュメンタリー(ロック音楽やロック・ミュージシャンを描いたドキュメンタリーを示す造語)作品を指す。ここで『ローディ!』と『アンヴィル!』という二つのタイトルを並べてみると、一つ気付くことがある。原題Monsterimiesに『ローディ! 地獄からの脱出』という邦題を付けたX氏は、バンド名の後に敢えてエクスクラメーション印を付けている点から明らかに映画『アンヴィル!』を下敷きにしている。これに気付いた筆者は、上映後の質疑応答でこの件を監督本人に尋ねてみた。すると「トミも僕もアンヴィルは大好きだよ。今のは“アンヴィル的瞬間(Anvil Moment)”だったね、と二人で言い合ったものさ」という答えが返ってきた。
この「アンヴィル的瞬間」とは謎めいていて記述の難しい言葉だが、笑いの感覚に絞って考えてみたい。例えば『アンヴィル!』では1万人収容の巨大アリ―ナで演奏すると煽って、さらに狂熱のライブシーンまで見せた後に、「観客174人」というオチが字幕で入る。これが笑いにおける「アンヴィル的瞬間」と思われる。となれば、これは「スパイナル・タップ的瞬間」と言い換えてよいだろう。ロブ・ライナー監督[2]の『スパイナル・タップ』(1984年)は、スパイナル・タップという架空のバンドのキャリアをコミカルに描いたロック・モキュメンタリー(擬似ドキュメンタリー)で、メタルの過剰性が笑いと背中合わせである[3]ことを(『アンヴィル!』同様に)見事に突いた作品である。巨大で崇高なストーンヘンジのオブジェを舞台装置として発注したつもりが、発注ミスでメンバーの身長より遥かに小さいサイズのミニチュアが届いてしまったり、勇壮にせり上がる舞台装置が止まらなくなり、遥か上空にまでメンバーが拉されてしまうなどである。これほど誇張されてはいないが、似通った笑いの感覚が『ローディ!』にも同様に散りばめられている。例えば30cmはあろうかという超厚底靴を履いたままMr.ローディが狭い螺旋階段をとぼとぼ降りていく姿や、グロテスクなマスクを装着したままダンディーにパイプを吹かすチグハグな組み合わせの妙、あるいはトミの幼馴染でバンドにずっと良くしてくれていた音楽レーベルのCEOが突如リストラされ、「ま、人生にはこういうこともある」と公園であっけらかんと言い放つシーンなどで、これらは紛れもなく「アンヴィル的/スパイナル・タップ的瞬間」であろう。
とまれ『ローディ!』は単純に面白く、(全体的に悲壮ではあるが)基本的に笑うための映画だ。メタルは凄惨な悲劇の世界のようでいて、内実は喜劇なのである。そうした喜劇性を剔抉したという意味で、『ローディ!』の陽気なメランコリアは『アンヴィル!』的なメタル・ドキュメンタリーの流れに棹さすものと言えるだろう。
[1] マスクは糊付けされているようで、アヴァとは別にトミが苦悶の声をあげながらべりべりとマスクを剥がすシーンがあった。
[2] 偶然にもアンヴィルのドラマーも「ロブ・ライナー」で同姓同名である(ドラマーのロブにはbが一つ多いが)。
[3] 〈メタルと笑い〉の関係を指摘した先駆的な文章として、椹木野衣の「ヘルタースケルターNO.1」があげられる(『資本主義の滝壺』所収)。サム・ライミの『死霊のはらわた』シリーズを引き合いに、椹木はスプラッターホラーとスラッシュ・メタルに通底する「善悪の彼岸」を越えたヘルタースケルター(=しっちゃかめっちゃか)な笑いの感覚を指摘している。しかしここでハーセ監督が指摘する「アンヴィル的瞬間」は、おそらくそれとはタイプが異なる笑いの感覚であり、スラッシュ・メタル以前の、もっと様式的かつ古典的な時代のヘヴィ・メタルに対応するキャンピーな類の笑いだ。
場面写真提供:トーキョーノーザンライツフェスティバル事務局
【作品情報】
『ローディ! 地獄からの脱出』
(2014年/フィンランド/フィンランド語、英語/85分)
監督:アンティ・ハーセ
出演:ローディほか
※トーキョーノーザンライツフェスティバル2017にて上映(1/21-2/19)
【執筆者プロフィール】
後藤護(ごとう・まもる)
1988年山形県生まれ。音楽・映画批評および翻訳などするライター。論考に「「スペクタクル」としての畸形 およびセックス・ピストルズにおける闘争/逃走術」(『見世物 6号』新宿書房 所収)。翻訳論考にトニー・レインズ「虚無との接触」(『アピチャッポン・ウィーラセタクン 光と記憶のアーティスト』フィルムアート社 所収)。訳書にジョージー・ウールリッジ『waterlife 水のいきもの』、『Birds 鳥』(ともに青土社)。なお修論の第二部では「〈現代の鍛冶神〉としてのヘヴィー・メタル」と銘打って、〈鍛冶屋=音楽家=畸形=殺人鬼=錬金術師〉としてのメタル・ミュージシャンのイメージを扱った。