【Interview】インスタント・シアターカンパニー『NADIRAH』 アルフィアン・サアット(劇作家)×ジョー・クカサス(演出家)インタビュー

ジョー・クカサス(左)とアルフィアン・サアット(右)

演劇というパブリックな場で宗教を議題にしていく。
ヤスミン・アフマドの精神を方法論としても継承するために

民族間、宗教間に生まれる摩擦、緊張を、軽やかな笑いを交えて描く演出家、ジョー・クカサス。彼女が芸術監督を務めるインスタントカフェ・シアターカンパニーが、シンガポールの新鋭作家、アルフィアン・サアットの家庭劇で来日した。結婚を機にイスラム教に改宗した母と、ムスリムの学生団体の副代表をつとめる娘。ヤスミン・アフマドの映画『ムアラフ 改心』に触発され執筆された本作は、恋愛、結婚といった身近な題材を通じ、多文化共生の葛藤を浮かび上がらせた。ヤスミン・アフマドのミューズとして日本でも人気を誇ったシャリファ・アマニが主演したことでも話題になり、シンガポールとマレーシアに次いで行われた東京、フェスティバル/トーキョー16での上演は盛況に終わった。

公演時に来日したジョー・クカサスとアルフィアン・サアットに、劇の成り立ちや、日本人には分かりにくいマレーシア、そしてシンガポールの宗教的背景を中心にお話を伺った。
(聞き手・構成/夏目深雪)


――この作品は、ヤスミン・アフマドの『ムアラフ 改心』と50年にシンガポールで起きたマリア・ヘルトフ事件(※1)にインスパイアされて書かれたとのことです。その辺りのいきさつを教えてください。

アルフィアン 確かにこの作品はマリア・ヘルトフ事件にインスパイアされていますが、それ以上に2009年にヤスミン・アフマドが急死してしまったことが大きかった。彼女の死によって、マレーシア人、シンガポール人はみな喪に服しました。その悲しみに向き合うために、彼女の映画作品を一つ観て、それと対話するということをやりたかったんですね。

――マリア・ヘルトフ事件はどんな形で作品に取り込んでいらっしゃるのでしょうか。

アルフィアン この事件は民族間の暴動ということもあり、社会の中ではトラウマのような、人を怖がらすものとなっています。この事件の要点は、少女の魂はいったいどうなるのかということです。彼女は育ての親に従えばムスリム、産みの親に従えばキリスト教徒になるわけで、そういう論点が暴動、暴力の原因となった。より問題が複雑なのは、シンガポールで起きたこの事件は、民族間の暴動だという認識もできるんですが、同時に反植民地主義から起こった暴力なんですね。シンガポールの人々は、法が植民元側のシステムで機能しているということに非常に反感を持っていた。少女は法に基づくと、オランダ人の元に返されるべきだということになるんですが、ムスリムの法律では14歳で結婚するということが成り立つんです。そういう摩擦がありました。

ですので、この事件は民族同士の摩擦と捉えられることが多いんですが、人々が、民事裁判で得られなかったものを街に出ていって主張するという出来事だったのではないかと私は考えています。そしてその暴力が向かった先は植民元、ヨーロッパ人、そしてユーレイジアン(ヨーロッパ人とアジア人との間に産まれた人々)です。彼らは植民地側が作り上げたシステムの象徴であったので、それに対する反発の結果だったのではないか。

でも僕は『NADIRAH』はそれ以上のことを描きたいと思っていました。

――一般的に宗教的に敬虔ではない我々日本人から見ると、この劇のような、違う宗教を持った者同士の結婚による起こる軋轢というのは、なかなか理解しがたいものがあります。実際に似たようなケースがあるんでしょうか。

アルフィアン マレーシアではあり得ることです。マレーシアで、イスラム教徒と結婚するとなると、イスラム教に改宗する必要が出てきます。そして、大きな問題の一つに国家の介入ということがあります。例えば、書類上ではイスラム教に改宗しているが、実際はヒンズー教の人がいるとします。その人が亡くなると、家族はヒンズー教のお葬式をしてあげたいと思うんですが、そこで国がやってきて、遺体を無理やり持っていって、イスラム教のお葬式をする。そういうことが結構あります。

ジョー 2012年にマレーシアで『NADIRAH』の公演をやった直前は、こういった事件が何件か起こっていました。それとは別に、キリスト教に改宗したいイスラム教の人々というのが何人かいて、それが大きな問題となっていました。何故なら、イスラム教というのは改宗が許されない宗教なので。訴訟沙汰になり、かなり大きな話題となりました。他にも、夫が妻に内緒で改宗してしまい、妻に内緒で子供も改宗させてしまうことで、子供の親権を確保しようとするという事件もありました。『NADIRAH』でもこの話は出てきたと思うんですが、裁判で母親がムスリムでないでないというと、子供を引き取るに不適切ということになります。自ずとムスリムに親権が渡るということが実際にあったんですね。

また、ある女性が両親はムスリムですが、ヒンズー教の祖母に育てられたので、ずっとヒンズー教の名前を使っていました。そしていざ結婚しようと手続きをしようとした時に、それが問題になって結婚がとりやめになったということがありました。誕生、結婚、お葬式など、人生の大事な局面、本来は自分の意思で決められるものが、国家によって強制的に決められてしまうことが反感を持たれています。中途半端な状態に何年もいなければいけないようなケースもあるので、それが原因で国から出ていってしまうような人もいます。

そんな状況下で『NADIRAH』の公演をしない方がいいんじゃないかという意見もあって、それはやはりいろんな議論を呼び、大きな問題になるんじゃないかという危惧があったからなんですね。でやることとなると、やはり『NADIRAH』はいろんなメディアに注目され、かなり取材されたんですね。

『NADIRAH』より

――宗教感の世代間の対立を描く場合、一般的には親が敬虔で子どもが奔放というパターンが多いように思います。この劇では逆ですが、それには何か意味が込められているんでしょうか。国による宗教の押し付けが厳しいから子供の方が染まってしまうという実情を反映しているんでしょうか。そして、最後は宗教的な宥和を描いています。そこに希望を込めたということでしょうか。

アルフィアン おっしゃる通りです。親への反抗という図式から抜け出したかったというのがあります。異なる民族や宗教間での結婚では、親が保守的・伝統的で、子供がそのような伝統や因習に反発し、はねのけようとする。それを今回は逆にしてみたんです。子供が、親に対して父権的な価値観を強制するということです。

この劇のなかでは、ファロックが国家権力のシンボルとして考えられると思います。ナディラは二つの価値観の間で揺れていると言える。

ジョー 私が興味深く思ったのは、若い世代が信仰を個人的なものではなく、社会的なものだと捉えていることです。それはもしかしてマレーシア社会の投影なのかもしれません。ナディラは信仰が異なる人の間で対話をしたいと言っていますよね。彼女は信仰をより公的なものにしたいと考えている。ファロックはもう少し、アイデンティティ・ポリティクス(※2)のようなものが入ってくる。それに対して、親世代は信仰をもっと個人的なものとして考えている。世代によって信仰の捉え方の変化が見られるかもしれません。

また、ナディラの母親サヒラは、信仰というものの曖昧さを象徴しているとも言えます。サヒラは改宗してイスラム教になった。信仰というものが個人的なものであれば、彼女は改宗した身として周りに疑われるわけです。「本当にお母さんイスラム教なの?」とナディラにも何回か質問を投げかけられるわけなんですが、彼女は「はい、私はイスラム教です」とは絶対言わないというのはとても面白いと思います。どうやって他人の信仰を量るのか、という問いがそこから浮かび上がってきます

マレーシアの人々が今一番思っていることは、宗教や信仰についてはもうほっておいてほしいんだ、ということですね。この劇ではサヒラがファロックに会いたくない、ということに象徴的です。連邦単位、州単位など様々な形で、イスラム教を教典として強化する動きが存在します。その時に起こる議論として、まず国家の一員であって、二番目がイスラム教なのか、その一番目と二番目が逆転するのか、という問題があります。そこで様々な摩擦が起き、人々のそのような想いに繋がっていると思います。

――シャリファ・アマニさんの存在感がやはりヤスミン映画のテーマとの繋がりを想像させて素晴らしいですが、あて書きでしょうか?

アルフィアン この戯曲はヤスミン・アフマドにインスパイアされ書かれたものですが、書いていた時は彼女を想定していたわけではありません。ですが、ジョーさんがキャスティングし、シャリファを迎えることができたのはラッキーでした。この公演はシンガポール、クアラルンプール、そして東京と三回公演をしたわけですが、なんとなくそれで円が完全になった気がします。『ワスレナグサ』という映画を東京で撮ろうとしていたということもありますし、東京はヤスミンにとって特別な地だったと思いますし。東京で上演できたということで、ヤスミンも喜んでくれたのではないかと思っています。

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