【Review】郷愁から遠く離れて――富田克也監督『バンコクナイツ』text 若林良

©Bangkok Nites Partners 2016

まず、「地方」ということばについて、それが何をしめしているか、その内包する意味について考えてみたい。そもそも、「地方」と口にするとき、わたしたちは何を求めているのだろうか(ここでの「わたしたち」とは、関東付近の在住者を包摂したものとする)。旅行をする人間の立場からすれば、お手軽な桃源郷、というところに落ち着くかもしれない。もちろん個人差はあるだろうが、通常、わたしたちの生活環境は、日頃そこまでの変化を見せることはなく、そうした状況はまた、精神的なストレスの源泉にもなりえている。手垢のついた日常から一時的に距離をおくためのものとして、あるいは、日常生活を逆照射するものとして「地方」はある。つまり地方を「地方」としてとらえる限り、そうした環境に身をおくことは、わたしたちに「異邦人」としての感覚をもたらす経験となりえるだろう。

「地方」について思考するひとつの試金石として、富田克也の、というよりも、映像制作集団「空族」の最新作である、『バンコクナイツ』に話を進めよう。まず、この映画の制作環境について言及したい。周知のように監督の富田、また共同脚本の相澤虎之助を中心としたこの映画の制作陣は、インディペンデントの極北とも言える状況に身をおき、本作もタイ、ラオスでの1年にわたる全編ロケーション、クラウドファンディングでの資金調達、さらには自主配給と、俗に言う「メジャー」とは対照的な立ち位置での制作が行われた。

また現在まで、作品のDVD化は行われていないため、スクリーンでしかその作品を目にする機会はない。一回性としてのスクリーンでの体験を重視するその姿勢は、映画の原点への回帰を、観客にうながしているとも言えるかもしれない。いささか抽象的な意味合いとはなるが、中央から眺めたときの辺境であるという意味において、『バンコクナイツ』は舞台――それは『国道20号線』(2007)や『サウダーヂ』(2011)がいずれもそうであったという背景にも関連するが――、制作環境ともにまぎれもない「地方」の映画である。

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異国における日本人たちの、悲喜こもごもの動向を描いたこの映画の舞台は、大まかにはふたつに分けることができる。ひとつは作品のタイトルともなっているタイの首都・バンコクであり、もうひとつはアピチャッポン・ウィーラセタクンの諸作でも私たちに知られるイサーン(タイの東北地方)、およびラオスである。中盤、ひとまずは映画の主人公と呼べる元自衛隊員・オザワ――富田監督自身が彼を演じている――は、かつての上司の命により、バンコクからイサーンの地に居場所を移す。この移動は、映画における大きな転換点と言って差し支えはないだろう。バンコクとイサーン・ラオスは、映像という視覚化された存在に立脚すれば一目瞭然ではあるが、一方は日本語のネオンも目立つ近代都市、一方は土俗的な習慣が残る農村地帯というくっきりとした対照性を見せる。同時に、外国人観光客(特に日本人)に向けた風俗のホスピタリティを中心に、前半において土地としての特色がしっかりと描写されたバンコクを離れることで、この映画はそれまでの立脚点をいったんは放棄して、新しい次元に突入することともなる。

イサーンにおいては、郷愁のような感情を募らせるシークエンス――たとえば、かつて“イサーンの森”においてタイ政府軍に虐殺された詩人チット・プーミサックの幽霊がオザワに語りかけるシークエンス――なども存在するとはいえ、画面に目を向けつづけるうちに、次第に郷愁を離れたのっぴきならない地平に身を置かれることに、わたしたちは気がつくだろう。オザワが共産ゲリラ(もどき)の集団と遭遇する一連のシークエンスにおいて、かつてのベトナム戦争の記憶――イサーンは北ベトナム、ラオス、カンボジアを空爆するための前線に隣接しており、また米軍の爆撃のあとも未だに色濃く残っていること――が明らかとなる。かつてオザワがPKO活動の一環としてカンボジアに派遣されたことが判明するエピソードも含め、ここが俗世を離れた桃源郷ではなく、その荒廃の責任もふくめた「日本」と地続きの場所であるという事実が、画面に響く大仰な爆撃音とともに――いわば前触れもなく飛来した隕石のように、わたしたちのもとにのしかかってくるのだ。この爆撃音は、本来映画においてあるべきだった「立脚点」――観客が目を向けるべき「中心」が完全に打ち砕かれたことを、あるいは、意味するものであったのかもしれない。

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この映画の目立った特色をひとつ挙げれば――先述の「インディペンデント」の姿勢の証座ともなりえるが――明確なストーリー、また映画における「中心」の不在である。タイにおける日本人事業者と現地の売春婦の癒着、またオザワの森林地帯の彷徨といった筋は申し訳程度には存在するものの、それらは映画を牽引する「鍵」とはなりえない。より単純ないいかたをすれば、ストーリーを直線的な一本の道ととらえれば、この映画にはより道が非常に多い(たとえば荒井晴彦は『映画芸術』2017年冬号において、「ストーリーがない」と本作を評している)。そしてその「より道」こそが、本作の肝となっている。思いつくままに列挙しても、次にどうつながるか予想のできないカットの連続や、アピチャッポンの諸作を継承したとも言える森林の深淵性、不可知な世界へといざなうような寺院や祭壇の神秘性、タイの伝統音楽とヒップホップを組み合わせた音響の刺激性、スラング重視の字幕もふくめ、日本語、タイ語、英語を自在に行き来する台詞の予測不可能性、そしてそれらが組み合わさって生まれた混沌とした巨大さ――わたしたちはそこに「異邦人」の感覚を覚えるだろう――こそが、この映画を牽引する魅力となっているのである。

その中でも特筆すべき点は、一つひとつの台詞が持つポップさにあるだろう。現地のホステスであり、本作のヒロインであるラックとオザワの会話は、本作においては一定の割合をしめてはいるが、片言レベルの日本語力しかもたないラックの存在によって、わたしたちが日頃耳にする日本語は、そのあり方の再構築をされることとなる。オザワは彼女がわかりやすいように、日本語を区切り、ジェスチャーや他言語を交えることで会話する。たとえば、オザワはラックに対して日本を卑下する意味で、「あんな国言ってもいいことないよ?エコノミックダウン、メルトダウン、エブリシングダウン、カオチャイマイ(タイ語で「わかる?」)と告げるが、ここではその意味を度外視して、日本語、英語、タイ語という不規則な連続性やリズムが、不思議な喜劇性を呼ぶこととなる。例をもう一つ挙げれば、中盤メコン川のほとりを歩きながら、ラックが半ば神妙な顔つきで、かつて裕福であったころの家族の暮らしを語り、「ノーマネー、ノーライフ」と口にするシークエンスもまた然りである。社会意識に立脚してこの台詞の主張を類推するならば、若い女性に性風俗のような汚れた仕事を強いる資本主義社会の荒廃、というところに落ち着くだろうが、ここでもまた、台詞の音質それ自体が持つ心地よさによって、その表面的な意味はあっさりと後景化することとなる。こうした台詞はその響きの魅力のみならず、作品全体の芸のない直接的な政治的主張への陥穽を、鮮やかに回避することにも奏功しているのである。

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明確な「中心」の不在、またそれを前提に生まれたような本作の魅力は、いささか安直な解釈ではあるだろうが、前述のような本作の制作環境と連関を見せるものではあるだろう。その姿勢はわたしたちが日常において見慣れた「映画」を再構築し、さらなる新しい地平へとその可能性を拡張するための、ひとつのエッセンスともまたなりえる。一見は形骸化したかのように見える、しかし依然として映画界に君臨している「メジャー」という存在に対して、わたしたちはどのように活路を見いだすことができるか。その回答のひとつとして、この映画はある。映画があらたな手法をさまざまな形で模索している現在、この映画とともにわたしたち観客も、さらなる可能性をもとめていく必要があるはずだ。

本作と親和性の強い映画を近作から挙げるとすれば、震災後の陸前高田に暮らす男性を追ったドキュメンタリー『息の跡』(2016)になるかもしれない。それは表面的な意味では、被写体となる佐藤貞一氏が自身の経験をより広く伝えるため、英語・中国語といった他言語を駆使しようとする「自国語に拘泥しない」点であるだろうが、より重要なのは――そもそも「記録」とはそのようなものであるだろうが――明確な「中心」を定めず、「周縁」の強度に寄り添った点にある。『息の跡』の観客なら気づくであろうが、本作は震災に留まらず、街の歴史や人びとの営み、またかつての記憶の不確かさまで丹念にカメラを向け、そしてそのような生活の細部こそが、震災の痛みそのものを逆照射することとなる。生活を越えないむき出しのイデオロギーに訴求力はないことと同じように、周縁の豊かさに目を向けない映画にもまた、芸術としての魅力が備わることは決してないのだ。

映画のラスト近く、オザワは秘密裏に銃を購入するが、そこに込められた弾は最後まで劇中で放たれることはない。劇的な必然性に照らし合わせれば、この伏線の未回収に消化不良を起こす観客もいるだろう。ただ、弾を込めた人間とそれを撃つ人間が同一である必要もない。劇の終幕のあと、少しの勇気を持って新たな世界への弾を放つのは、観客席に座るわたしたち自身であるのかもしれない――。いや、あえてこう言おう。そうあるべきなのだ、と。

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【作品情報】

『バンコクナイツ』
(2016年/日本・フランス・タイ・ラオス/182分/DCP)

監督:富田克也
脚本:相澤虎之助、富田克也
出演:スベンジャ・ポンコン、スナン・プーウィセット、チュティパー・ポンピアン、タンヤラット・コンプ ー、サリンヤー・ヨンサワット、伊藤仁、川瀬陽太、田我流、富田克也
製作:空族、FLYING PILLOW FILMS、トリクスタ、LES FILMS DE L’ETRANGER、BANGKOK PLANNING、LAO ART MEDIA
配給:空族

テアトル新宿ほか全国順次公開
公式サイト:www.bangkok-nites.asia

【執筆者プロフィール】

若林良 (わかばやし・りょう)
1990年生まれ。映画批評・現代日本文学批評。専門は太平洋戦争を題材とした日本映画。またジャンルを問わず「社会派」作品全般。