10歳の少年トトとふたりの姉、14歳のアンドレアと17歳のアナは、ルーマニアの首都ブカレスト郊外のスラム街一角、水道もコンロもないワンルームに暮らしている。両親は不在だ。母ペトラは麻薬売買の罪で服役中であり、トトにとって父は顔さえも知れない。
2011年2月から2012年4月までの間に撮影された『トトとふたりの姉』は、母の出所を待つ3人が、家族の再出発を胸に期するシーンからはじまる。新たに生活を立て直すのだと、アナとアンドレアは願いをこめ、丹念に雑巾をかけ、床を掃き、部屋の大掃除をすすめる。だが、彼女彼らの想いは、現実に蝕まれるように打ち砕かれてゆく。磨かれ、綺麗に甦った部屋に、夜ごと幾人もの男たちが押しかけ、たむろし、次々に慣れた手つきで腕に首に注射針を刺す。ヤク中は出入り禁止だとアナが必死に拒み、訴えたところで、誰もきく耳をもたない。うつろな表情でドラッグをうつ彼らに占領された部屋で毎夜、身を狭く、トトたちはねむる。アンドレアは、アナとの諍いがたえず、友人の家に泊まり、部屋から離れがちになる。母が帰ってくる見込みは立たない。現状からぬけだすのだと誓う意志と現実の狭間に引き裂かれ、苛立ち、疲弊し、不穏に耐えがたい状況から目をそむけるように、アナは自らもドラッグに手を染め、逮捕される。
今度こそはと再起の願いを懸けた部屋は、みるみると荒廃し、ヤク中者の巣窟と化してゆく。こんなはずではない、刻々と荒れてゆくワンルームには、いきどおり、悔しさ、それを拭えない無力感が、露出し、漂う。この荒廃は、トトたちが暮らす環境に、特別なことではない。この地域に生きる人々にとっての日常であり、ありふれた光景だ。
『トトとふたりの姉』を観る者は、彼女彼らが生きる共同体、ルーマニアに暮らすロマ・コミュニティの内実をしる必要があるだろう。本作にうつされる地がロマ・コミュニティであるという事実は、ルーマニアやヨーロッパ等での公開には、映像を一見すれば自明だからだろうか、その前提は本篇中、表立って語られることはない。ロマの人々は、いわゆるジプシーと呼ばれもする。ジプシーとは、ヨーロッパ各国社会にとって周縁部、埒外に存続し、生活様式、習慣の異なりもあり、ながきに渡る歴史のなか、聖視、畏怖、賎視、迫害の心態をないまぜにむけられつづける人々が一括された総称だ。自称ではない。そして今なお、社会からの疎外、ロマという共同体そのものが黙殺は、幾多のかたちで残り、人々を襲い、貧困等の過酷な環境をしいている。
監督アレクサンダー・ナナウは、本作を撮るきっかけが、EUの助成を受けていたルーマニアの製作会社から、ルーマニア社会から取り残されているロマ・コミュニティについての資料的なドキュメンタリーをつくらないかという話があり、現地に足をはこび、子どもたちと出逢い、心を動かされたことが理由だとのべている。結果、当初の企画とは別の意味をもつ映画が完成した。彼は、この映画に重要なのは「スラムの悲惨さを強調したりしようとするのではなく、観る人がそこに入り込みやすいものであり続けることだ。暴力やドラッグは、まさにトトたちがその目で、その身体で感じたままに、生活の一部としてあるという風に理解されなければならない。そのために、主にカメラの位置は子どもたちの身長に合わせられている。」と述べている。ナナウ監督が意図したカメラは、トトとふたりの姉を蔽う現実の追認に決して終始することなく、彼女彼らの心情、仕種の機微、その稀有な瞬間を幾度となくとらえるおおきな要因となっている。
©HBO Europe Programming/Strada Film
トトやアンドレア、アナをうつし出すカメラからのまなざしは、本作がドキュメンタリーであることを忘れさせるほど自然に生活にとけこみ、寄り添う位置を維持している。彼女彼らの心身のうつろいを綴る物語に準拠するカメラ、そう言えるかもしれない。トト、アンドレア、アナの現実に直接、手出しはしない、できない、けれど、彼女彼らの傍で祈るようなまなざしだ。同時に、本作には、もうひとつ別のカメラが存在している。それは、アンドレア自身のまなざしだ。ナナウ監督は彼女にハンディカムを手渡していたのだ。途中幾度も挿されるアンドレアが撮った映像は、ただ被写体として在るだけではうつりえない、彼女の内的なまなざしと声にみちている。本篇前半、友人の家で髪をカット、カルーしてもらいながらアンドレアは、友人はとの会話のなかで、自宅での家族との険悪な関係を告げる。家庭のしがらみから一時、解き放たれ、気を晴らすように友人の前ではしゃぐ彼女のすがたがうつされる。しかし、本作が進むにつれ、アンドレアはハンディカムをとおし、より深く、彼我と対話しはじめる。ゆっくりと想いを確かめながら、書き記すように、カメラに語りかけ、それを記録する。
本篇から散見される事実として、アンドレアは文字の読み書きがままならない。そんな彼女にとり、本作の撮影を機に手にしたハンディカムは、「言葉を書くこと」に似た意義をもっている、そう感じさせる。不安定で先行きの見えない生活の渦中に生きるアンドレアには、今、目の前の現実と彼女自身の気持ちを対象化する必要があったのだろう。カメラへむけられるアンドレアのまなざし、吐露は、その役割を担っているのだ。教師たちの彼女への気遣いや配慮、心配にさえ、反抗的だったアンドレアの態度は、徐々にかわり、ついに環境をかえるため、彼女はトトを連れ部屋を出て、孤児院にはいることを決意する。カメラを手にし、語りかけた時間と経験は、彼女の決断に大きく影響しているはずだ。アンドレアは、共に暮らしはじめた孤児院の子どもたちに対し、まるで彼女自身に問うように「なぜここに?」と語りかけ、そのこたえをハンディカムにおさめる。
©HBO Europe Programming/Strada Film
トトにとっての契機は、ダンスとの出逢いだった。児童クラブでの課外授業、ステージで披露されたダンスチームの実演にトトは釘づけになり、魅了される。繰りひろげられるダンスに、抑えがたい胸の高鳴りを覚える彼は、見よう見まねで体を動かす。日ましにダンスにのめりこむトトと、彼にダンスを教える若い講師、ダンサーとの関係は、ひたすらにつよく胸をうたれる。ひたむきに、けなげに、練習をくりかえすトトに対し、彼は時に厳しく、やさしいまなざしをむけ、声をかけ、関係をはぐくんでゆく。孤児院でアンドレアのカメラにとらえられた姉弟ふたりの親密な会話には、以前、無垢に、ほとんど無条件に母や姉を慕っていたトトのすがたはない。ほんとうの愛を、誠実をしる者のつよさが兆している。アンドレアの成長とトトの成長は互いに結びついてゆく。ふたりの成長から、薬物に依存し手を切れないアナとの距離は、決定的な隔たりとなる。状況の変化だけでなく心の乖離として。そして、アンドレアは、ハンディカムを手に、再びあの部屋で、アナとふたり対峙する――。
心をつよくたもつこと、そのことがあまりに困難な現実がある。だから、脱し難い過酷な日々であろうともトトやアンドレが、希望の一端を見出すという事実は、勇気を与えるだろう。だがそれは、本作を観る者にとってのなぐさめであってはならない。トトやアンドレアの瞳の輝きがつよまるほどに、その成長の陰で、アナの現実から目をそむけることはできないからだ。彼女彼らが生きるロマ・コミュニティの実状からに目を塞ぐこともできないからだ。絶対に。見つめなければならないのだ。見つめる力が必要なのだ。カメラからのまなざしと、カメラへのまなざしがスクリーン上に交錯し、ふれあう映画『トトとふたりの姉』は、この見つめる力に成立している。そして、トトやアンドレアがそうであったように、カメラに籠められた人間の真摯なまなざしこそが、人間を生かしめる尊厳を受け渡す、その証を宿しているのだった。
©HBO Europe Programming/Strada Film
【映画情報】
『トトとふたりの姉』
(2014年/93分/ルーマニア/カラー)
監督・脚本・撮影:アレクサンダー・ナナウ
製作総指揮:ビアンカ・オアナ
音響:マティアス・ランパート
編集:アレクサンダー・ナナウ、ミルチャ・オルテヌ、ゲオルグ・クラッグ
原題:Toto si surorile lui
配給:東風、gnome
公式サイト:http://www.totosisters.com
4/29(土・祝)よりポレポレ東中野で公開中。
ほか全国順次公開
【執筆者プロフィ—ル】
菊井崇史(きくい・たかし)
大阪生まれ。東京在住。
詩や写真を発表する。
あわせて、文学や映画の評論を発表。
neoneo誌の編集にも参加する。