映画を観る、というと大抵はフィクション、つまり、誰かが書いた物語があり、それを演じる誰かがいて、それを誰かが映像化した、そんな映画の話だ。しかし考えてみれば、映画は基本的に、そこに在るものを視聴覚的に記録して作られるものであり、そうした意味では、「この物語はフィクションです」という前提が観客のほうでも了解済みの映画もまた、「フィクションが演じられた」という事実の記録、つまりドキュメントでもあるだろう。
この本は確かに、『監督と俳優のコミュニケーション』というタイトルの通り、現場での立ち居振る舞いについてノウハウを伝授するという趣旨で書かれてはいるのだが、副題の「なぜあの俳優は言うことを聞いてくれないのか」が予想させる、撮影現場でのいざこざ、思いがけないトラブルの数々についてのドキュメントでもある。また、この副題に含まれるような、皮肉まじりのユーモアは、実際に本文を全篇に渡って満たしているものでもある。尤もこれは日本語タイトルなのだが、原題も「I’ll Be in My Trailer : The Creative Wars Between Directors And Actors」。ただし、「Wars」はなにも監督と俳優の間にばかり勃発しているのではなく、彼らの間に入る、製作者やエージェント、他のスタッフが災いの種を蒔いてしまうパターンも紹介されている。
この本が指針を与えようとしているのは監督に対してであり、ゆえに、逆に俳優のほうが監督を気遣うということは期待されておらず、飽く迄も監督としてできることだけを考える内容だ。また、カメラマンや録音係、美術監督といった人々の姿は完全に後景に退いている。映画監督である著者ジョン・バダムは言う。俳優には、「戸口で振り向いてセリフを言ったら、どうなるかな?」と、質問形式で提案すべきである、なぜなら彼らは創造的な人々なので、選択肢を与えるべきなのだ。片や、撮影クルーなどにそんなふうに指示をしたら妙な顔をされるだろう。また、演技を作り上げていく時間であるリハーサルには、部外者を入れるな、とか(シドニー・ポラックいわく「私の愛犬にすらリハーサルは見せません」)、演技について、他の人間に口を挿ませないようにという警告も為されている。とにかく、俳優と一対一の関係性を構築することこそが作品の成否を決めるというわけだ。
ただ、この本が端から、タイトルが示すテーマに焦点を絞って書かれているということは、一応頭に入れて読んだほうがいいだろう。「ショットの撮り方が凄いからといって映画を観に行く人はいない。人物に魅力を感じるから行くんだよ」(デニス・ヘイスバート)という発言には、いや、『2001年宇宙の旅』をそう言って観に行く人なんか見たことないし想像もし難いぞ、と言いたくなるし、文中で反面教師として言及されている、「俳優なんて家畜のように扱えばいい」と公言するヒッチコックが、映画史上に燦然と輝く名を刻んでいることは、どう考えたらいいのかという疑問も浮かぶ。この本は演技という一点に集中して書かれており、映画そのものの全貌を視野に入れた本ではない。そこのところだけを気をつけて読めば、有益かつ楽しい本だ。
この本から受ける「俳優」と呼ばれる人々の印象は、感受性が敏感で、感情に火がつきやすく、ゆえに扱いに細心の注意を要する、だが映画に不可欠の存在、といったところだ。俳優が当然のようにスクリーン上で見せている演技も、観客が思うほど易々と為されているわけではないらしい。リハーサルに関して書かれた章では、「哀しみや喪失感などのエモーションは限りある資源として扱え」と警告がされる。ヌードが求められるシーンに於いては、「ポルノ映画のスターですら、撮影日はエリザベス女王よりおしとやかになる」。第2章の「していいことと、悪いこと」の冒頭には、監督は俳優の不安を取り除くよう気を遣ってほしいという、俳優たちからの訴えが並ぶ。他の箇所でも、「名優の多くは実生活で非常に内気だ」、「マイケル・ケインやアンソニー・ホプキンスほど本番前にナーバスになる俳優は見たことがないくらい」(オリバー・ストーン)、といった言葉が見られる。この本で披露される数々のケンカも、俳優たちが「ナーバス」になっていることに監督が気を遣わなかったことが原因、というのがバダムの見解だ。
ところで、そのバダム自身が監督した作品、『サタデー・ナイト・フィーバー』、『ウォー・ゲーム』、『ブルーサンダー』などを思い起こしてみると、名作とか傑作と呼んでいいのかはともかくとして、いかにもテレビ東京系でやっていそうな親しみやすさを感じる作風だと言える。そのテイストはこの本の文章にもよく表われていて、映画の撮影現場でのトラブルに対する野次馬的な興味で読んでも充分に楽しめる本になっている。そのユーモアたっぷりの語り口も相俟って、紹介されるエピソードの数々には、「今、そこでカメラを回してくれ!」と訴えたくなる瞬間が幾度も訪れる。撮影現場そのものがドラマの生まれる舞台なのであり、過去に映画制作を題材にした幾つもの映画が撮られてきたのも自然なことだと思えてくる。中でも、マーク・ライデルがジョン・ウェインを罵倒した後のやりとりや、ピーター・ハイアムズがスティーブ・マックイーンの酷い奇行に悩む中、リチャード・ブルックスの許を訪ねて天啓を得る話は、ぜひ読んでいただきたい。一応フォローすると、マックイーンについては先のライデルが、そのアドリブの演技力に触れ、「本物のスターだ」と讃えている。「私生活ではひどい人間かもしれないけどね」と付け加えつつ。
この本が参考になりかつ面白いのは、話がどれも具体的だからだ。それはまた、この本が説く、シーンは具体的な動詞で考えよ、という教えとも相通じるところがある。高尚な哲学的テーマではなく、その人物が何をしようとしているのかを考えよ(これは、脚本の書き方についての教えでもよく説かれることだ)。演出についての注意の中には、「『もっとエネルギッシュに!』『楽しんでいこう!』などと、無意味な言葉でハッパをかけないこと」というものもある。こうした言葉は実際、監督たちが現場でよく言っていそうで、笑いを誘う。「泣く」演技ができないと言われていた子役が「しゃくりあげる」という言葉によって演技を成功させた例など、動詞の重要性を示す端的なエピソードだ。
そして、「まるで~のように」という具体的な喩えで演技を引き出すテクニックが重要なものとして挙げられるのだが、その一方で、バダムがマイケル・J・フォックスにそうした演技指導を試みた際、「普段は温厚なマイケルが冷たい目で『気持ちがどうとかいう御託は聞きたくない』と言った」というエピソードも紹介される。つまり俳優ごとに演じ方があるのであり、安易な一般化は危険なのだ。この公平かつ正直な姿勢が、著者への信頼感を高めてくれる。言葉でいかに演技を導くかは大事だが、現場では、言葉の手前、或いはその向こうにあるものこそが肝心でもあるようだ。オリバー・ストーンが「わからないけど、もう一度やってみて。何と言っていいかわからない」と正直に伝えることで俳優の理解を得たことや、シドニー・ポラックが、緊張のせいで泣く演技ができないバーブラ・ストライサンドの肩を無言でそっと抱くと、彼女が嗚咽を漏らし始めた話のように、監督がその場で見せる、言外に漂わせる雰囲気で何事かを語りかけることの大切さも見えてくる。
この本は、抽象的な理念を読者に授けるのではなく、個別のケースを紹介していくことで、結果的に、俳優への向き合い方を各々の感覚としてつかみ取らせる、そうした本なのだ。本の中には、著者らのインタビューに答え、現場でしか知りえない逸話を聞かせてくれた俳優たちの写真が幾つか挿まれているのだが、本文での、卑近で人間臭い言動とは相反して、写真のほうはブロマイド風のキメ顔だったり、映画のスチールでの、役に完全に入り込んだ姿であったりと、すっかり出来上がった顔をしているのがほとんどだ。そのギャップが、裏話の生々しさを更に際立たせてくれる。
【書誌情報】
『監督と俳優のコミュニケーション術 なぜあの俳優は言うことを聞いてくれないのか』
ジョン・バダム、クレイグ・モデーノ 著/シカ・マッケンジー 訳
フィルムアート社/2012年
A5判 352頁/定価 2,400円+税/ISBN 978-4-8459-1289-6
映画作りの過程で、人間関係の問題や摩擦は避けて通ることができない。本書では主に「対話」による創造的な解決方法を導きだし、名作を生むために必要な環境を実例とともに紹介する。名監督が実践してきた具体的方法論、現場を経験した名優たちが語る本音を、各章末では実践ポイントとして伝授。
最大の特徴は、総勢50名を超える監督/俳優へのインタビュー。
【執筆者プロフィール】
神田映良(かんだ・あきら)
1978年大阪府生まれ。大阪芸術大学芸術学部芸術計画学科卒。インターメディウム研究所・IMI「大学院」講座(現・IMI/グローバル映像大学)修了。2011年、第二回映画芸術評論賞・奨励賞受賞。