第54話 2000年代前半に手がけた作品②
『またの日の知華』
ユーロスペースが配給する邦画の宣伝依頼だった。映画は原一男監督初の劇映画『またの日の知華』(2004年)である。原監督は『ゆきゆきて、神軍』(1987年)や『全身小説家』(1994年)で一躍、国内のみならず世界的に知られるようになっていた。
輸出候補作品に挙げた・・
個人的には、原監督の第2作目である『極私的エロス・恋歌1974』(1974年/16mm)を完成時に見て、自分と対象との距離を画面に率直に表現しているのに感心した記憶が鮮明に残っていた。1974年当時、勤務していたフランス映画社の柴田社長が、従業員に<輸出したい日本映画>の候補を提出するように、と言った際に、迷うことなく私は『極私的エロス・恋歌1974』だけを挙げたのである。社長の反応は覚えてないが、あえなく<落選>したのだった。
<シネマスクエアとうきゅう>でロードショー
内容は書くまでもないので省くが、一人の女性を4人の役者が演じるという実験的な試みは原さんらしい、と思った。小林佐智子プロデューサーと原監督のお二人共、宣伝活動に協力的で助けられたものだ。公開劇場は当時、新宿にあった<シネマスクエアとうきゅう>(1981年~2014年/略称というか愛称はシネスク)で、封切り日は2005年1月15日。
『またの日の知華』のチラシ
配給しなかったが記憶に残る『リンダリンダリンダ』
2005年の手帳で当時の出来事を確認していると、2005年1月31日に『リンダ リンダ リンダ』(2005年/山下敦弘監督)を、東京国際フォーラムで見ている。「リンダ リンダ リンダ」の歌とペ・ドゥナの演技が素晴らしくて、見た後、相手が誰だったかは覚えてないのだが、興奮して感想を話し合った記憶がある。この作品は見た時点で既に配給会社が決まっていたので、ひどくがっかりしたことを覚えている。
みうらじゅん的映画祭
いきさつは記憶から欠落しているのだが、2005年5月にユーロスペースで、<みうらじゅん的映画祭>を企画開催した。レイトショーである。みうらさんに会いに行き、作品を選んでいただき、邦画各社と交渉した記憶が残っている。『大巨獣ガッパ』ように見てない作品もあったので、個人的にも楽しんだ企画だった。
<みうらじゅん的映画祭>のチラシ
『みやび』
さて、2005年には映画評論家の田中千世子さんから『みやび』(2005年)を作ったから、と配給を委託された。三島由紀夫についてのドキュメンタリーである。書き手として、しっかり仕事をしながら、緻密な調査を必要とする脚本を執筆し、更に数か月間の集中力を要求される監督業に挑んだことに驚くとともに敬意を抱いた。配給業務についても自作に対して客観的姿勢で対応していただき、かつ協力的だったので、『みやび』は無事、2005年10月1日にユーロスペースで封切ることができた。
『みやび』のチラシ
日本映画の配給が続く
『みやび』と前後するような時期に、映画宣伝会社スキップさんの佐藤社長経由で、既に完成していた1本の邦画の配給を検討してほしい、との依頼を受けた。その劇映画には、ある著名な歌手が出演しているとのことだった。
(つづく。次の掲載は9/15です。)
中野理恵 近況
とにかく、この夏は暑い。冷房ギライなのに、率先して冷房をつけている。中央区は夏祭りの真っ最中。老若男女が法被姿で早朝から街に出て、子供神輿が練り歩く。