【Review】2000年代のエクソシスト-イタリア人と悪魔の関係‐‐『悪魔祓い、聖なる儀式』 text長本かな海

「知ってるかい?パードレ・ピオは4つの違う場所で同時に目撃されているんだよ!これは本当に凄いことだ。奇跡としか表現できない。」ローマのサンタ・マリア・イン・トラステーヴェレ教会で長年ボランティアをしているイタリア人の友人が、私を覗き込みキラキラとした目で語りかけてきた。パードレ・ピオ、ピオ神父とは数々の奇跡を起こした事で有名な神父で、1968年に亡くなり2002年に列聖されたイタリアではとても親しまれている聖人だ。幼い頃から日本で心霊番組に親しみ、自分の身に起こったのではないにしても生霊の引き起こす奇妙な事件などを多く耳にして育ってきた私は、その感動的な話に「へー。まぁそんなこともあるだろうよ。」という感動のない反応しか示すことができなかった。そして同時にキリスト教徒特有のその「奇跡の押し付け」にいささか辟易とした。しかしその後、どこかで「近代ヨーロッパは超常現象が存在しないことを前提とした上で、世の中が成り立っている」という話を聞いた時「あ、奇跡こそが神の存在の証なのか?」と自分なりに友人の熱い思いに納得がいった。

聖母マリア像が血の涙を流したとか、十字架に掛けられたキリストと同じ場所に傷ができたとか。キリスト教の世界ではよく奇跡が起きる。そもそも聖書自体が無数の奇跡の場面によって成り立っている。モーセが海を割ったというのは有名な話だが、処女マリアが子供を授かったり、イエスが2つのパンで数千人を満腹にしたり、と挙げていけばキリがない。その中でも特に多いのがイエス・キリストが病気の人や悪魔付きを癒す場面だ。イエスが男に憑いた悪霊を追い出し数千頭の豚に乗り移したら、その豚の群が一目散に崖を下り溺れ死んでしまった、という話(※1)はなんとも壮大で印象的だ。

『悪魔祓い、聖なる儀式』 (原題:Liberami=私を解放して) はカトリックの世界に伝わる悪魔祓い、エクソシズムの現在を追ったドキュメンタリー作品である。監督は、イタリアの女性ドキュメンタリー作家フェデリカ・ディ・ジャコモだ。エクソシズムというとホラー映画にもなっているからか、なんだか如何わしいイメージがあったが、なんとカトリックの総本山バチカン公認のエクソシストというのが存在するらしい。カメラが追うのはシチリア島のある地方都市の教会に居る公認エクソシスト、カタルド神父の下に癒しを求めてやってくる人たちだ。衝撃的な悪魔祓いのシーンから始まる映画に解説やナレーションは一切ない。集団ミサでいきなりトランス状態に入ってしまう人たち、幾度もの悪魔祓い、断片的に悩みを語る人たちのシーンの合間に「まったく忙しすぎる」という神父の愚痴が挟まれていたりする。教会に押しかける人たちの悩みを親身に聞く神父は確かに大変そうだ。バチカンから準秘跡として位置付けられ、公衆の面前で行うべきではない、と定められている儀式の場面を観ることができるのはとても貴重ではあるが、撮影を許可したことや携帯電話を使ってのエクソシズムなど、この映画はバチカンでかなり問題になったようだ。

エクソシズムというと、「神父を代理とした神」と「人に憑いた悪魔」との代理戦争であり、「善vs悪」「神vs悪魔」といったハリウッド映画のテーマにでもなりそうなタイトルで語られることも多い。実際に映画の中にも神父と「悪魔」との問答のシーンは多く出てくるし、トランス状態に入った普通の人が本当に悪魔のように語りだすのでかなり衝撃的だ。しかし、果たしてエクソシズムとはそんなに単純で壮大で現実離れしたものなのだろうか。


先にも述べたように、近代ヨーロッパは建前上超常現象を否定して成り立っている。

バチカンもあり長くヨーロッパ文化の中心にあったイタリアでは、中世の終わりから理性と精神性のせめぎ合いが続いて来た。しかし、どうやら今日の俗世界では断然理性のほうが優勢なようだ。若者の多くは洗礼を受けていてカトリック教徒だが、実際に神を信じている人や教会に通っている人は少ないし、幽霊の話などしようものなら鼻で笑われてしまう。悪魔について語るなんて時代錯誤で馬鹿らしい、という思いはキリスト教を信じる人の間でも蔓延している。神父の下にやってくるのも、映画を観る前の予想とは裏腹に決して熱狂的なキリスト教徒ばかりではない。普通の主婦や、街中に居そうなちょっと変なオジサン、思春期の女の子や反抗期の息子を持つ親など、正直どう考えても悪魔なんて全く関係ないような相談も多い。しかし映画が進むにつれて、精神的、身体的な苦悩を抱える彼らが病院から相手にされず、最後の砦として教会にやってきた事がわかってくる。

映画のパンフレットにも寄稿している島村菜津氏が取材したベテランエクソシストたち(※2)によると、実際本当に悪魔に憑かれていると判断されるのはエクソシズムを受ける人の2-3%らしい。中世の異端審問や魔女裁判で多くの人が殺された歴史を持っているカトリック教会は、現代ではかなり慎重にエクソシズムを行っているようだ。しかしバチカンがあるローマとは程遠いシチリア島で、儀式の最中に連発される「悪魔」という単語、そして繰り返される祈りの言葉。登場する神父たちの悪魔祓いが、なんだかやっつけ仕事のようにも見えたのは私だけだろうか。

現在、イタリアの地方都市の状況はお世辞にも良いとは言えない。イタリアの失業率は11%、若者の失業率は35%以上で、仕事がないからという理由で大学生をやっている潜在的失業者の若者も入れると実際の数値はもっと高いだろう。親の世代が居るおかげで何とか持ちこたえてはいるものの、どんよりと希望のない空気が国中を覆っている。ましてやこの映画の舞台であるシチリアはイタリアの中でも比較的貧しい南部に位置している。しかし、貧しいことが問題なのではない。日本もそうだったように、イタリアにも「みんな貧しいからそれが普通」と言い、素朴に日々を生きている共同体が機能していた時代がつい最近まであった。そこでは誰もが(村の変なオジサンでさえも)社会的な役割を持っていたし、信頼、共同体独自の秩序や救済システム、美意識が存在していた。教会や信仰も土地や生活に根付いたものだっただろう。

ユングの著書『人間心理と宗教』(※3)の中には、キリスト教カトリックの儀式や教義が人の精神の防御的な役割を果たしていると書かれている。ユングが「恐るべき曖昧さを持った直接体験の襲撃」と呼ぶ、私たちの身に突如として襲いかかってくる強烈で説明のつかない体験。儀式や教義は、そのままでは精神を崩壊しかねないその強烈な体験をいきいきとした物語として取り込むことによって、直接的なダメージから当人を防御する役割を持つ。一方、このような非合理的な現象に対して、意識しか捉え得る事のできない学問的理論というのは、あまりに抽象的で理性だけにしか訴えないと言う。教会という防御壁を失った現代人は「無意識の中にあって解放を待望しているあの諸々の力の直接体験に対しての身を守ってくれるべきあらゆる精神的保護や防御手段を奪われてしまっている」とユングは合理主義が優位に立つ現代社会の危険性を指摘している。

映画は近年世界的に悪魔憑きが増えており、バチカンはエクソシストを増やしているという話で終わる。需要に応えるため、全世界から「エクソシスト養成講座」の開かれるローマに集まる神父たち。講義の内容を同時通訳しているブースを映したシーンや、昼食を摂りながら各国の悪魔憑き事情を交換し合う神父たちが可笑しい。現在のエクソシズムは、ロウソクの灯る怪しい部屋で秘密裏に伝授される秘儀、といった私達の思い描くようなものとは違って、かなり合理的なようだ。

映画の中では何度も「悪魔」という言葉が出てくるが、字幕では「悪魔」と訳されてはいるものの実際は「fantasmi=おばけ」や「spiriti=精霊」「disturbi=乱すもの」という言葉を使っている箇所も見受けられた。怒りや嫉妬、不安や妄想、自分でも何と説明したら良いのかわからない、コントロール不能な襲撃に悩まされた経験はだれもが持っているだろう。そのような衝動を私たちは実際に感じたことがあるし、ユングが「もしこの経験が患者の症状に根本的な影響を及ぼすとすれば、論理によってこの体験を否定しようとするのは無駄な努力」と言うように、存在しないという事にした所で事態はまったく変化しない。

イタリアの地方都市出身の友人によると、今まで教会に近づきもしなかったような人が、何らかの体験をきっかけに強烈なキリスト教徒になるというのは結構頻繁に起こる事らしい。共同体の解体による役割の不在や、精神世界の否定で空洞化した存在は不安定になりやすい。不安定になった存在は、何か大きくて強いものや極端なもので隙間を埋めようとする。たとえそれが仮初の充足だとしてもだ。この空洞化現象は、存在と世界との関係性が薄くなり、社会がますます個人にとってコントロール不能になっていく中でもっと増えていくだろう。そんな時、教会、そして確固たる精神軸を見失ってしまった人々ができる事は、はたして対処療法的な悪魔祓いだけなのだろうか。

ディ・ジャコモ監督はこの映画についてのインタビュー(※4)の中でこう語っている:「基本となったアイディアは、日常に組み込まれたエクソシズムを主題として映画を構成する事でした。(中略)映画に出てくる人たちを通して、かなり短いスパンで憑依状態を出たり入ったりできるという現代のエクソシズムの特徴を強調したいと思いました」 。悪魔祓いによって一時は悪魔を取り除けたとしても、空洞が存在するかぎり悪魔はいつでも入り込むスキを狙っている。イエスが聖書の中でもたらした数々の「癒し」とは何だったのか。現実を直視し、今こそ癒しの本質を問う必要があるのではないだろうか。


(※1) マタイ8章28-34 マルコ5章1-20 ルカ8章26-39
(※2) 島村菜津 (2012) 『エクソシストとの対話』 講談社
(※3) C・Gユング (1988) 『人間心理と宗教』 (ユング著作集4) 浜川祥枝訳 日本教文社
(※4) LIBERAMI. SentieriSelvaggi intervista Federica Di Giacomo
http://www.sentieriselvaggi.it/liberami-sentieriselvaggi-intervista-federica-di-giacomo/

【映画情報】

『悪魔祓い、聖なる儀式』
(2016年/イタリア・フランス/94分/原題Liberami )

監督:フェデリカ・ディ・ジャコモ
日本語字幕:比嘉世津子
配給・宣伝:セテラ・インターナショナル
写真は全て© MIR Cinematografica – Operà Films 2016

公式サイト http://www.cetera.co.jp/liberami/

渋谷シアター・イメージフォーラムにて公開中
以後、全国順次公開

【執筆者プロフィール】

長本かな海(ながもと かなみ)
多摩美術大学芸術学科卒業、シエナ大学人類学専門課程中退。
日本の夜神楽からヨーロッパの奇祭まで、辺境の祭り女。