読者諸氏には恐縮だが、まず、自身の経験から話をはじめたい。東日本大震災からまもなく7年が経とうとしているが、私は学術的な調査やボランティアの一環で、東日本大震災を経たのちの福島を幾度か訪れてきた。そして訪れた地域の中には、放射能による汚染のため、立ち入り禁止となった区域も含まれていた――。続くことばとして、「この現状を“伝えたい”という感情が内側からふつふつと現れ、それは私の文筆活動の原体験となっている」というような、ストレートな社会意識の表明ができれば良いに違いないが、しかしそうではない。……いや、一概にそうでないと言い切ることもできないのだが、その時の感情の揺れ動きについては、「よく覚えていない」というのが正直なところである。
むしろ、揺れ動きなどというものはなかったと言えるかもしれない。ほとんど「生活」の匂いが失われた状況に、驚くほどからっぽな感覚で、周囲を見つめる私がいた。時計が止まったままの荒廃した駅や、完全に倒壊した家屋があちらこちらに見受けられたが、それは昨日今日に倒壊したものではなく、震災から1年以上が経過し、すでにそうしたあり方が常態化したのちのことだった。人間に棄てられた街。もしくは人間のほうが棄てられたのだろうか。頭に浮かんだそうした問いは、しかし、決して感傷的なものではなかった。ただ、どちらなんだろうな、と二択のクイズに出合ったように、軽く頭をもたげたまでのことだった。
以前何かの番組で、人間が地球から消えたと想定してのシュミレーションを紹介していたことを思い出した。うろ覚えなので間違っている点もあるかもしれないが、結論から言えば、およそ1万年で人間の痕跡は(万里の長城など巨大建築物を除いては)ことごとく消え失せ、地球は自然や動物が謳歌する楽園になるということだった。だとすれば、人間の消えたいまの福島は、そうしたシュミレーションの過程にあるともいえるのではないか―――。倫理的にあまり好ましい発想とはいえないだろうが、人の「匂い」が消えゆく土地を目の前にした率直な感情としては、案外そのようなところに落ち着くのかもしれない。日常的な感覚にたとえると、(これは私個人の感覚に過ぎないのかもしれないが)熱いお茶に氷を入れ、氷が溶けていく過程におぼえるようなわずかな興奮と、ある程度の親和性は存在するのではないだろうか。
東日本大震災を経てから、原発問題を俎上とした数々の言論、またドキュメンタリーがあらわれた。そのすべてを列挙することはとてもできないが、数が膨大になるにつれて、しだいに定着してきた「紋切型」の存在に食傷気味になる私もいた。政府が悪い。原発を否定せず傍観していた私たち一人ひとりの責任が問われている。マスコミの報道はあまりに一面的だ―――。どの考え方にも一定の信憑性は存在するであろうし、映像というかたちでしめされると、その一つひとつに首肯することはできる。しかしながらその反面、「それで?」といった反応が、思わず口をついて出そうになることも少なくはなかった。巷に蔓延する「正しい」「正しくない」はいずれも柔軟性をともなったものではなく、自由な解釈が許容されるものではない。傍観者としての感覚にはなるが、映画に向かううえでは、そうした二項対立を乗り越えた「何か」が欲しかったのだ。誰でも映像を撮り、それを人の目に向けることが可能となった現在――渡邉大輔によって「映像圏」と名付けられた状況下(『イメージの進行形 ソーシャル時代の映画と映像文化』より)――においては、もはや映像は消費の対象に過ぎない。当事者にとっては無責任な発言であろうが、本来映画の観客にとっては、作り手の思想など鑑賞のうえではほとんど関心のあることではない。重要なのは、面白いか面白くないか、ほとんどそれだけにかかっている。
ずいぶん前置きが長くなってしまったが、『被ばく牛と生きる』という映画の背景については、もはやほとんど言及する必要はないだろう。すなわち、震災時に被ばくした牛=商品としての価値がなくなった牛、および牛たちを保護する人々についてのドキュメンタリーである。その思想背景についてもさまざまだが、これも改めてくどくどと述べるのではなく、観客それぞれが思考を働かせるべき問題である。
「大切に育ててきた牛の命を人間の理屈だけで奪うことはできない」(映画プレス資料より)――この主張そのものは、牛の育て手たちの真摯な感情に起因するものだろう。しかしそれに普遍性をともなわせること――より開かれた主張とするためには何が必要か。
おおざっぱに言って、ふたつの手段が考えられる。ひとつには、社会的な問題からいったんは距離を置き、単純に「いのちを慈しむ」普遍的な感情に訴えかけること。もうひとつは、社会性から距離を置くことは同じくして、映像としての確かな魅力を付与することである。もっとも本作の場合は、これはほとんど同じ位相に属している。
どういうことか。先ほど私は、「作り手の思想など観客には関係がない」という趣旨のことを述べた。こうした断絶は、人間と牛の関係性にもそのまま適用されるものだろう。たとえば本作において、「被ばく牛と生きる」というタイトルが映し出させる前後のシークエンスを思い返してみよう。「なぜ農家は被ばく牛を飼い続けるのでしょうか」というナレーションをバックに、悲壮感をたたえた音楽が反響し、そこにタイトルが重なる。その少し前には、「存在が許されない“いのち”がある」という字幕とともに牛の鳴き声が反響するが、無垢な存在としての牛の鳴き声が、訴求力を高めさせる役割を果たしていることは明らかだろう。しかし、映像そのものは、広い草原のもとで草をむしばむ牛たちをロング・ショットで映し出していることもあって、どこかのびやかな、牧歌調ともいうべき雰囲気を醸成している。農家にとっては牛を生かしておくことには大きな困難がともなうのだが、牛にとっては、人間の都合などまさに「関係がない」のである。私はこうした矛盾にわずかに首をかしげつつ、牛たちの姿に思わず微笑みを覚えてしまった。やや自己陶酔ともとられる言い方にはなるであろうが、このような感情はまさに「いのちを慈しむ」という思いに立脚したものであり、同時に映像のもたらす快感に立脚したものでもあるだろう。
また、撮影の対象となった地域は、立ち入り禁止区域、つまり人間による管理が行きとどかなくなっている区域であることもあって、草木が覆い繁っている箇所が多いことに気がつく。ちょうど避暑地のように見えなくもなく、緑の多さが皮肉にも、土地の豊饒さを実感させるようにも見える。そのような、「原発がもたらした悲劇」から目をそらさせるような感情もまた、「いのちを慈しむ」思いに立脚したものだろう。理屈ではわかっていても、感情はこのように両義的なものではないだろうか。
そもそも、牛たちはよい肉を提供するために育てられたものなのだ。それなのになぜ、価値がなくなった牛を生かしておくのか?こうした矛盾は、本作のサイトでも監督の松原保によって「一般的には理解しづらい行為」と指摘されている。しかしながら、人間の感情はそれほど単純ではない。こうした矛盾に目をつぶらないことが、本作の魅力に結実している。
より詳細に作品を見ていくと、たとえば映画の中盤、出演者のなかでも行動派である吉沢正巳氏が、宣伝カーで東京をまわる一連のシークエンスがある。そのなかで窓から一部の聴衆が見えるが、喫煙所で煙草をもくもくと吸い続ける彼らは、カメラと視線が合うこともなく、吉沢氏の主張にも興味がなさそうである。じっさい、ラディカルにも思える政治的主張を目の前にした場合、このような反応が一般的なものであろう。「正しい」主張が正しく受け入れられるとは限らない。映画の基調奏音としても、これまで人間を介した牛の暮らしの丹念な描写が中心であっただけに、この一連のシークエンスは、作品が積み上げてきた世界観が一変させられるような、なにやら唐突な印象を受けてしまう。
しかしながら、おそらく作り手の側としては、こうしたシークエンスの導入はむしろ必然的なものではあるだろう。吉沢氏をふくめた農家の方々に寄り添った制作陣にとって、彼らへの共感の度合いは、本作においてはじめて吉沢氏、そのたたかいを知った観客の比にはならないはずだ(いささか論理性を欠いた発言だとは承知しているが、これもまた感情のもたらす「矛盾」としてご容赦をいただきたい)。重要なことは、吉沢氏の主張に無理に共感することではなく、むしろ当事者の方々との問題そのものの、また心理的な距離を実感することである。こうした距離、ひいては矛盾を思考の出発点とすること以外に、フクシマ(に加え、現世にとめどなく存在する諸問題)への関心の強化は起こりえないのだ。
中盤、被ばくした牛があらたないのちを産み落とすシークエンスを見てみよう。「許されないいのち」とナレーションは告げるが、許される/許されないといった倫理的判断に先立ち、物質として、自明なものとして「いのち」は存在する。しかし、人間である以上、目の前にある「いのち」に対して、何かしらの解釈を加えずにはいられないことも事実だろう。これは肯定も否定もするべきではない。生まれた以上、生かさなくてはならない。いや、すでに(人間にとっての)生の意味が見込めない以上、屠殺しなければならない――。どちらも「間違い」ではない。躊躇や葛藤と言った倫理の種子――結論を急げば、こうした感情を抱くことこそが、私たちが「人間」であることを成り立たせる前提条件となっているのである。――このような認識に至ってはじめて、私たちは「原子力豊かな社会と街づくり」という冒頭にしめされる現在ではアイロニカルな標語を、ようやく笑い飛ばすことができるのではないだろうか?
本来は背反するような概念や感情が、しかし決定的な亀裂をむかえることなく内部で共存をし続けること。それが人間であり、人間特有の感情に真摯に対峙した映画にもまた、そうしたメカニズムが継承されるのである。『被ばく牛と生きる』は「フクシマの映画」の様相をはらみつつ、人間という存在の、根源的な感情を逆照射する作品でもあるのだ。
【映画情報】
『被ばく牛と生きる』
(2017年/日本/DCP/104分/カラー/16:9)
監督・編集:松原 保
プロデューサー:榛葉 健
ナレーション:竹下景子
出演:吉沢正巳/山本幸男/池田光秀/池田美喜子/柴 開一/渡部典一/鵜沼久江/岡田啓司(岩手大学農学部教授)
題字:日野松白
音楽:ウォン・ウィンツァン
撮影:名木政憲/田中義久/松原 保
整音:吉田一郎
プロダクション・マネージャー:松原真理子
協力:非営利一般社団法人「希望の牧場・福島」/一般社団法人 原発事故被災動物と環境研究会/ヒューマンドキュメンタリー映画祭《阿倍野》/Tokyo Docs/独立映画鍋/Motion Gallery
製作:㈱パワーアイ 配給・宣伝:太秦
【執筆者プロフィール】
若林良 (わかばやし・りょう)
1990年生まれ。映画批評・現代日本文学批評。専門は太平洋戦争を題材とした日本映画。またジャンルを問わず「社会派」作品全般。