【Interview】「白」と「黒」を超えて――『ゲッベルスと私』クリスティアン・クレーネス&フロリアン・ヴァイゲンザマー監督インタビュー text 若林良

第二次世界大戦から70年以上の時を経た現在、当事者の、とくに政権の中枢にいた人間の「証言」という形で映画を作ることは困難をきわめている。現在における、そうした稀有な作品の一つである本作は、あるひとりの老女の、戦時期の記憶に随伴する作品である。その老女の名は、ブルンヒルデ・ポムゼル。戦時期、ナチスドイツの宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスの秘書として働き、終戦後の強制収容所での抑留を経て、ドイツ公共放送連盟ARDで働くなど、波乱の人生を送った人物である。映画は撮影当時101歳であった彼女の戦時期の証言、および当時のアーカイブ映像で構成される。本作はひとりの女性の半生の記録であるとともに、ナチスが行った「歴史上最大の禁忌」を掘り起こす旅でもあった――。

今回は監督をつとめたブラックボックス・フィルム&メディアプロダクションの4名の中で、来日したクリスティアン・クレーネス氏、およびフロリアン・ヴァイゲンザマー氏のおふたりにお話をうかがった。

(取材・構成=若林良、構成協力=高瀬郁人)

--もともと監督は、ナチスドイツの問題に興味がおありだったのですか。

私の祖国であるオーストリアは、ドイツの隣国です。ですので、成長する過程でナチスの問題を考えることは、むしろ自然でした。しかし、映画としてナチスの問題を扱うことは、もともと考えていたわけではありません。契機としては、たまたまポムゼルさんと知り合ったことです。初めてお会いした時、彼女は101歳でしたが、この人の映画を撮りたい、かつこの人でなければ、当事者へのインタビューという形の映画を作ることはできないと思いました。また、この時代の最後の証言者かもしれないという、「次世代への記録」を重視する意味でも、本作を撮ることを決めました。

--ポムゼルさんの第一印象はいかがでしたか。

 非常に魅力的で、人の心をとらえる人でした。現在は、第二次世界大戦期を「大人」として過ごした世代の人とお会いすること自体が珍しいですけど、その中でポムゼルさんは非常に知的で、かつ当時のことを詳細に覚えていらっしゃいました。さらには、私たちの信じる限りでは、嘘をつかない人でした。時代の証言者となるような方は、往々にして時代に迎合して、「あれはまずかった」などと「ふり」のような後悔を述べたりもするのですが、彼女は自分の立場をしっかりと持っていて、安易に迎合することはありませんでした。

ぜひこの人を使って映画を作りたいと思ったんですけど、ただ、その具体性については、作る側からすると難しかったですね。ポムゼルさんは犯罪者でもなければ犠牲者でもありません。より詳しく言うと、ポムゼルさんは体制を指揮する側にいたのではなく、体制に追随していった人です。ですから直接的に責任はなく、犯罪者とは言えない。しかしながら、政局の悪化という現実を「見ようとしなかった」ことを考慮すると、全く問題がないわけではない。つまり、罪があるか/ないかというカテゴリーでは、とても判断がしにくいんです。

こういう人を被写体に据えることは、私たちにとって挑戦でもありました。ただ、政治的な悪に果たして加担をしていないか、自分に問いかける必要がある。つまり、「何もしない」ことでモラル上の責任は発生すると、私たちは考えていたんです。

© 2016 BLACKBOX FILM & MEDIENPRODUKTION GMBH

--記録映像から、現代のインタビューの映像に至るまで、本作には色がなく、全て白黒です。そのようにされた理由をお聞かせいただけますか。

これについては、さまざまな理由がありますね。一つ目は、当時の記録映像は全て白黒なので、色調の統一の問題があります。

二つ目は、観客の意識の問題です。いろんな色、また技法があると、見ている人はどこかで画面に集中しなくなります。しかし、白黒でいつも同じように人間の顔を見せていますと、本作のテーマとも一致することですが、観客はそこから「目を背ける」ことができなくなるんです。

三つ目は、象徴的な意味合いですね。「白」と「黒」は、色としては完全に矛盾するものです。しかし、彼女は自身の言葉で述べていますけれど、彼女の行動は、白黒で分けられるものではありません。いうなればグレーゾーンです。ですから、白黒で描くことによって、「白か黒か」という二項対立の問題性も、どこかで意識してもらえるのではないかと思ったんです。

四つ目は、色がないということから派生しますが、本作には背景がなく、撮られた場所も時間も観客にはわかりません。本作が描くのは時空を超えた問題であり、どこでも起こりうることだと表すのに最適なのではと考えたんです。

五つ目は、見ている人の意識が、過去の時代に集中できることです。ポムゼルさんの側から見ましても、過去の記憶に身を浸す感じが出てくる。彼女が隠していたものを含めて、過去の時代にもう一回否が応でも戻らざるをえない。それが非常に大事だったと思います。

--そうですね、目の前のところに集中するということと、感傷を排除するということ。それはおそらく、劇中に音楽を使われていないということとも重なりますよね。

おっしゃる通りです。このテーマには音楽は向きません。どんな音楽を使っても、結局それは何らかの意味でのプラスになることはないと思います。むしろ虚飾のない形で、素っ気なく出してみたいと思いました。

アーカイブの映像なのですが、私たちはオリジナルのまま余計な色合いをつけないで使おうと思いました。もっと分かり易くとか、ここは調和を乱すから切ろうとかはしませんでした。このような、アーカイブに収まっている様々な映像は、ドイツのものであれアメリカのものであれ、少なからずプロパガンダの性格を持っていましたが、私たちがそこから逸脱した方向に導くようなことはしないつもりでした。

作中におけるアーカイブ映像は、彼女の言い分をある意味で補強する場合もありますし、逆に彼女の言っていることがおかしいのではないかと思わせるような場合もあります。一つひとつが、みんな違っていました。

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--中盤に、若い人たちの「自分であればあの時代に運命を変えられた」という意見について、「それは無理だ」とポムゼルさんが告げるその瞬間に、ポムゼルさんの顔を捉えるカメラが正面から、横に変わるカットが印象的でした。作中、現在のシーンではずっとポムゼルさんの顔を撮られていますけれど、捉える角度の変化について、どのように意識をされていたのでしょうか。

基本的にはいつも正面から撮っていたのですが、彼女が一生懸命記憶を辿っていることがわかりやすいように、各シーンの終わりのところでは、ちょっと方向を変えたこともありました。基本的に彼女が記憶としてそのまま述べている部分と、70年後に振り返って述べている、つまりいくらかの部分を想像で埋めている部分が入り混じっているという感覚を持たせるための配慮が、どこかで反映されていると思います。

それぞれのカットの始めのところは、カメラの正面に向かって話しています。ただこれが、観客に語りかけているような感じになるかどうかが大きな問題で、撮り方によっては、彼女から能動的に語りかけているのか、それとも聞き手の要請に仕方なく答えているのかという違いが生まれますね。ですから彼女が考えているという表情がはっきりわかるようにして、この人は誰かの要請に応えているのではなく、自分自身に問いかけていることがはっきりとわかるような撮り方をしたつもりです。

--「私に罪はない」というキャッチコピーにつきまして。実際にポムゼルさんが話されていましたけれど、日本のドキュメンタリーの場合は、自分の加害性にしても、被害性にしても、それと向き合うことによって、何かしらの心情の変化が生まれてくる作品が主流ですね。先ほども話されていましたけれど、私はこの作品を見る前に、「私に罪はない」という意識が、だんだん剥がされてくるような映画ではないかなと感じていました。ですが本作を見終えて、渦中にいた人間の視点というのでしょうか、逆に「私に罪はない」という言葉が説得力をもって伝わってきました。

先ほども申し上げたところですが、ものごとには白か黒かという単純な二分化ではなく、グレーゾーンが存在します。そして、ポムゼルさんは、「罪がある/ない」の間に自分の位置を見つけたんです。彼女の罪の是非について、作る側が決めるのではなくて、観客が自分の問題として考えるという風になれば、私たちとしては十分、やるべきことは果たしたのだと思っています。

大事なことは、彼女の言っていることが信用するに足りるということを提示することであって、「私が悪かった」などという意識の変化を要請する気はありませんでした。実際、最後まで彼女は自分が間違っていたことを認めていません。また、はっきりとわかる罪を犯したわけでもないんです。しかし角度を変えれば、彼女の罪とは、「何もしなかった」こと。国家が暴走した際に、何も見ず、何もしないことで、結果としてシステムを支持する側の存在になったこと。こうした全体主義への加担については、アメリカのトランプ政権をはじめ、私たちが現在も抱える問題でもあります。ですから、このようなモラルの考え方を自分に問うことが、今日の私たちの問題でもあると指摘したかったのです。

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--首尾一貫して自分の考えを変えないポムゼルさんですが、最後の方に、ユダヤ人虐殺について問われた時のみ、声が弱々しくなる感じを受けました。

最後の方で彼女は「私は臆病だった、弱かった」と告白します。その一方で、自分の生きる道が大切だった、つまり、いいお給料をもらって生きていく、社会的に認めてもらうことが大事だったと告白しているわけですね。もちろん、生活をする上でこれは自然ではあるのですが、社会的な正義よりも個人としての体裁を重視したという意味で、彼女は、何百万という他の人たちの代表であったと捉えることができるのではないかと思います。

作品のプレミア上映の時に彼女は来てくれて、一緒に鑑賞したのですが、その時に、人生の最後になって、この映画は私のかつてのあり方を鏡のような形で見せてくれた。そして自分の過ち、失敗はどこにあったのかが見えたという風に彼女は言いました。ただし、彼女は「失敗」と言ったのであって、「罪」であったとは認めませんでした。

--この映画をこれからご覧になる日本の観客へのメッセージをお願いします。

この映画は未来への警鐘でもありますし、私たちの生きてきた道の合わせ鏡でもあります。また、もう一つ申し上げたいこととしては、民主主義は守るものであって、自明の存在としてあるものではない、ということです。私たち一人ひとりが、政権の中枢にいる人間が過激な言動や行動をしていないか、常に目を光らせなければいけません。日本とヨーロッパは非常に似た歴史の経過を辿っています。現状、日本でも全体主義の方向に向かいつつあることが感じられますが、それを危険なものとして受け取ってほしい。また、政治のあり方といった問題を超えて、自分ごととして、彼女の誤りから自分が学ぶことはあると思っていただければ、ありがたいと思っています。

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【作品情報】

『ゲッベルスと私』
(2016/オーストリア/16:9/白黒/113分)

監督:クリスティアン・クレーネス、フロリアン・ヴァイゲンザマー、オーラフ・S・ミュラー、ローラント・シュロットホーファー
日本語字幕 吉川美奈子/配給 サニーフィルム
協力:オーストリア大使館|オーストリア文化フォーラム/書籍版:『ゲッベルスと私』紀伊國屋書店出版部
公式サイト:www.sunny-film.com/a-german-life 

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