【Review】想像力という名の山――『クレイジー・フォー・マウンテン』 text 若林良

 

©2017 Stranger Than Fiction Films Pty Ltd and Australian Chamber Orchestra Pty Ltd

多くの本を読みながら、いつしかひとつのことがどうしようもなく気にかかり始めていた。それはヒグマのことだった。大都会の東京で電車に揺られている時、雑踏の中で人込みにもまれている時、ふっと北海道のヒグマが頭をかすめるのである。ぼくが東京で暮らしている同じ瞬間に、同じ日本でヒグマが日々を生き、呼吸をしている…確実にこの今、どこかの山で、一頭のヒグマが倒木を乗り越えながら力強く進んでいる…そのことがどうにも不思議でならなかった。
――星野道夫『旅をする木』

この文章に出会ったのは大人になってからのことだったが、これに近いようなことは、それ以前に考えていたように思う。おそらくは多くの大人に共通するであろうし、成長をする過程において、「自分の身の回り以外にも世界がある」と知ることは、すこし大げさな言いかたをすれば、それまでの自分とのひとつの決別にもなりえるだろう。「べつな世界」への興味をもち、そこに向かって進むことで、少年少女の生きかたは大きく変わっていく。興味の矛先は芸術の世界であるかもしれないし、経営の世界であるかもしれない。ただ、より根源的な興味が向かう先は、文字通りの「まだ見ぬ場所」への冒険であるだろう。

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私の場合、それは山だった――。そのような答えを持たずとも、誰しもの心を揺るがす存在である、数々の山々たち。『クレイジー・フォー・マウンテン』は山岳の世界に挑んだドキュメンタリーであり、「まだ見ぬ世界」への探求心に満ちた作品である。

話が脇にそれるようだが、そもそも、人はなぜ旅をするのだろうか。現代において、未知の世界などはほぼ存在しないに等しい。パソコンの画面の先に、地球の反対側の風景も容易にあらわれる。自宅の部屋にいながらでも、世界の動向を知ることは十分に可能である。

前提として、たとえば近年では、魚の目からの世界をうつした『リヴァイアサン』(2012)などの映画にも言えることではあるが、こうした作品がつくられたこと自体が、もはや未知の世界が存在しないということの、ひとつの証左であることは否定できない。

本作においても、そうしたことを示唆するナレーションはあらわれる。たとえば、近年において「聖なる龍や神々は次第に存在感を失った」という内容が伝えられるが、これはより平易に説明すれば、山々の実態が人間に明らかになり、それにつれ、山に入り込む想像力の余地が狭まったという意味合いであろう。

しかしながら、「まだ見ぬ世界」とは、具体性によってのみ担保されるものではない。人間の想像力が生み出した世界は、ときおり具体性を凌駕するようなかたちで、私たちの前に顕現するのである。それこそが旅を渇望する感情の、大きな源泉ともなりえている。

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そもそも、私たちにとって身近な「山」とは、具体的な存在というよりも、抽象的な意味合いのほうが上回るものであるかもしれない。たとえば日常生活において困難な仕事をやり遂げた際、「山を越えた」ということわざが使われるように、障壁のイメージとしての山が、その代表例としてあげられるだろう(または映画ファンであれば、黒澤明の『影武者』(1980)における「山は動かぬぞ」といったセリフを思い浮かべるかもしれない)

残念ながら、(普通に暮らす)私たちにとって、山は物理性をともなった存在ではない。逆に言えば、もともと象徴的なものとしての意味合いが強いからこそ、私たちがあらたなイメージを付与することへのハードルも低下する。本作の場合、その鍵となるのが音楽である。 

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もともと、本作はオーストラリア室内管弦楽団の芸術監督、リチャード・トネッティが監督のジェニファー・ピードンにオファーをかけたことからはじまった作品であるだけに、音楽にはたしかな入念さが感じられる。ヴィヴァルディの『四季』やベートーヴェンの『皇帝』など、作中にはいくつものクラシックの名曲が登場し、それぞれ山のもつ荘厳さを際立たせ(もしくは、「慈父」のような存在として山を擬人化させ)ることに奏功している。

本作にはアルプス山脈やヒマラヤ山脈を遠景でとらえた映像があったかと思えば、ロッククライマーがみずからの腕のみで断崖絶壁によじ登るような、ドローン撮影などの最新技術を駆使しての、衝迫性に満ちた映像も散見される。これらは世界各国から提供されたものであり、本作のために撮影されたものではない。しかしながら、作品のもうひとつの主役とも呼べる音楽の存在に加え、高度の編集(ナレーションを担当する、ウィレム・デフォーの声質もまた着目に値する)

からあらたな意味を付与されることによって、たとえば、前述した荘厳さや神秘性などの、山に対するあらたなイメージの創出が可能となっていくのである。

また、イメージとしての「山」を補強するのが、人名も含めた、本作における固有名詞の欠落である。もちろん、登山を愛好する観客であれば(またパンフレットなど映画に関する資料を参照すれば)、本作に登場する山がどこのものかは判別はつくであろうが、本作における山々は、端的に「未知」および「壁」の象徴なのだ。具体名が存在しないからこそ、耐えにくい寒さに凍傷を負いながらも、それでも頂上を目指す登山者の姿や、巨岩のうえで綱渡りをしている挑戦者(これは「スラックライン」と呼ばれる競技の一環である)の姿に私たちは自身を重ね合わせ、「障壁」を乗り越えることの意義を感じることが可能となる。

©2017 Stranger Than Fiction Films Pty Ltd and Australian Chamber Orchestra Pty Ltd

とはいえ、この映画を見て「山の知られざる側面を知った」と感じる観客はいても、「山のすべてを知った」と感じる観客はまず存在しないだろう。それはひとえに、映画鑑賞とは、五感を駆使しての体験をともなったものではないからだ。しかし、この体験とは、単にその山に登ったことがあるか、否かという次元にはとどまらない。

体験とは、言いかえれば固有性である。本作に立脚すれば、雪山に挑む過程で登山者の指が受けた凍傷であり、また凍傷によって揺らがされた心(それは死を意識した恐怖心であるかもしれないし、未知へと立ち向かう克己心であるかもしれない)のあり方であるだろう。同じ山を登ることにしても、異なった人間がまったく同じ感情を持つことなどはありえない。それを見る観客の心情にしても、また同様である。

つまり体験とは、人間特有の感受性がともなわれて、はじめて成立するものであるのだ。もちろん、これはきわめて当然のことではあるのだが、本作の鑑賞後、そのことを改めて教わったようにも感じられた。

末尾となるが、この映画に対し、人間性と科学のあいだのある種の葛藤をみることは可能かもしれない。先述のような高度な撮影技術をはじめ、物理的に世界が解明されていくことに対して、人間が「人間」であるために抗うすべはあるか。この映画において、その問いに対する一つの解を見ることができるだろう。

本作『クレイジー・フォー・マウンテン』は、人間の科学の発達の証座であると同時に、人間のもつ感受性への賛歌ともなりえているのである。
そのように考えると、「山は人間に関心がない」という終盤にあらわれるフレーズにも、また字面以上の異なった意味が生まれてくるだろう。

「人間」の実感をへてエンドロールをむかえた時、不思議と頬が緩むのを感じた。

©2017 Stranger Than Fiction Films Pty Ltd and Australian Chamber Orchestra Pty Ltd

【映画情報】

『クレイジー・フォー・マウンテン』
(2017/オーストラリア/英語/74/カラー/5.1ch/シネスコ)

721()新宿武蔵野館・シネクイントほか全国順次公開

製作・監督:ジェニファー・ピードン 音楽:リチャード・トネッティ
撮影:レナン・オズターク ナレーション:ウィレム・デフォー
後援:オーストラリア大使館 協力:The North Face  配給:アンプラグド
©2017 Stranger Than Fiction Films Pty Ltd and Australian Chamber Orchestra Pty Ltd

【執筆者プロフィール】

若林良(わかばやし・りょう)

1990年生まれ。映画批評・現代日本文学批評。専門は太平洋戦争を題材とした日本映画。またジャンルを問わず「社会派」作品全般。