【Review】『光太郎 智恵子 うつくしきもの』 真摯な対話者が紹介する高村光太郎の「うつくしき」遺産 text 須田茂


本書は高村光太郎と北川太一を著者として今年6月に二玄社から出版された。高村光太郎が昭和6年10月に「時事新報」に掲載した紀行文「三陸廻り」と昭和25年から26年まで歌誌「スバル」に連載した「みちのく便り」の全文を掲載し、それに北川の解題とエッセイを織り交ぜる構成である。それが二人の共著としたゆえんであろう。高村光太郎は戦前戦後にかけて活躍した彫刻家、詩人として著名である一方、北川太一は地味ながら高村研究では知る人ぞ知る存在である。

高村光太郎とは数十年ぶりの再会であった。高校か中学の国語の教科書で「この遠い道程のため この遠い道程のため」と執拗に暗唱させられて以来、私は教師から「与えられた」詩人として無意識に回避してきた。この書評を書くにあたり改めて『高村光太郎詩集』を家中探し回ったが、書棚の奥深くに眠っており、探しだすのに苦労したほどである。しかし本書によって私は詩人としてではない、散文家としての光太郎に再会した。それは共著者北川によって与えられたまことに新鮮な再会であった。

本書でまず登場するのは「三陸廻り」である。光太郎はこの旅で、石巻、金華山、女川、気仙沼、釜石、宮古を巡っている。紀行文の面白さは、旅先という非日常に自身を抛り出した著者の心象風景の描写力が成否の鍵を握っている。古くは「おくのほそ道」に始まり太宰治の「津軽」などにも見られるように著者の心象とそこで見聞した風景との緻密な交錯が求められる。昔からこのフレームを逸脱した紀行文学はまず成功をおさめていないが、この点において「三陸廻り」も決して遜色はない。北川は、この紀行文が書かれた「昭和六年という年は、この国にとっても、光太郎や共に生きる智恵子の生涯にとっても、重大な分岐点だった」と述べている。昭和六年は満州事変勃発の年であると同時に、智恵子の精神的な変調が現れた年である。

その後の国をあげての軍国主義への傾斜と、最愛の妻智恵子の病死に至る光太郎の人生が、期せずしてこの三陸で分水嶺を越えていたことを踏まえれば、一人旅した光太郎の述懐は私たち現代の読者に深い感慨をもたらす。

しかし最も注目すべきは、光太郎が旅したまさにその地で後世多くの人命が失われる大災害が発生し、光太郎の想いが時空を越えて東日本大震災を経験した今日の読者の前に特別な紀行文として再び提示されたことである。当時光太郎を覚醒させた素晴らしい三陸の自然、触れ合った住民の描写があまりに生き生きとしているため、読者はあたかもタイムスリップしているような恐ろしさを抱かざるを得ない。

『三陸廻り』挿画(本書中に掲載)

光太郎は石巻から乗った「漁船のような小さな汽船」から金華山を見ながら、「私は既成宗教のどの信者でもないが医(いや)し難い底ぬけの自然賛美者だ。自然の微塵にも心は躍る。万物の美は私を救う。強力なニヒルの深淵から私を引き上げたのは却て単純な自然への眼であった。」と自らの人生観、自然観を書き留める。3・11を経験した直後の私達がこの一節から何を読み取るのかは読者それぞれの自由であるが、私が驚きを覚えたのは、美しい三陸に住まう人々が、古来津波ばかりではなく、大火や地震などの災害に幾世代に渡って苦しんできた人々であったということである。これほどまでに自然の狂気に命を曝されながら、決してこの地以外での生活を望まずに居るのは、三陸沖という暖流と寒流の邂逅がもたらす最良の漁場を目の当たりにするという地の利あってこそと思っていた。

しかし本書を読み進めるうちに、三陸にとどまる人々が悟っていたのは、単なる経済的な「利」ではなく、自然のおそるべき脅威でありまた光太郎が和した自然への賛美であったことに気付かされた。

その意味でも日本の中で彼等ほど自然の本質を代々に渡って体験している人々はいない。光太郎が賛美した自然と、一方でその自然がもたらす残酷な現実、それらが混然としたありのままの自然の中に暮らす人々と光太郎の邂逅の価値に北川は改めて気が付いた。ときに不条理とも言える自然の力を光太郎の経験を通じて考えたいという北川の意図はよく読み取れる。さらに津波という人智を超えた自然の力が引き起こした原発事故を考えるとき、本書に引用された光太郎の詩「ぼろぼろな駝鳥」の最後の一句「人間よ、もう止せ、こんな事は。」は象徴的である。

後半の「みちのく便り」は戦後岩手県稗貫郡大田村の鉱山小屋に孤独生活を送る光太郎のエッセイである。私はこれを終戦間際の疎開からそのまま岩手でひっそりと暮らした光太郎の戦争協力者としての自発的な蟄居生活の告白ではないかと思って読んだ。しかしそれは同時に智恵子を失い、空襲でアトリエを焼失した光太郎が、衰えていく健康の中で智恵子の遺した切り絵の展覧会を行い、十和田湖畔の「裸婦群像」の制作に至る謂わば復活の道程であった。その意義に改めて注目すると、「みちのく便り」の光太郎は、あたかも再起を願う東日本大震災被災者の姿と重なってくる。戦争に翻弄された人間の復興への過程を高村光太郎の晩年に見た北川は、同様にいま被災した人たちの精神的な復活に想いを託しているように私は思う。ここでも「みちのく便り」は歴史の偶然として現代の私達の前に甦っている。

本書の最大の特長は、光太郎の原文からその「解題」を経ることで、さらに北川が永年培った光太郎への敬愛に満ちたエッセイへと自然にステップを踏んで光太郎を描写していることである。

本書は共著の体裁をとっているが、私はこれを北川と光太郎の時を超えた対話録として読んだ。現代を生きる北川が、光太郎の遺した文章と事実を踏まえていかに光太郎に語りかけたのかが本書の根幹である。その基底をなしているものは、北川の研究者としての地道さであろう。高名な評論家たちの影に隠れるように、事実をこつこつと確認して歩く人こそ、真の対話者であり、光太郎の同伴者なのである。地味な研究こそ光太郎との日々絶え間ない対話であり、その対話が再発見を生んでいく。光太郎の真実に迫りたいという北川の思い、光太郎の遺産を3・11を経て現代に蘇生させた北川の着眼と努力には敬服する。こうした仕事は、終生光太郎を絶え間なく観察してきた研究者ならではの成果として見なければならない。

『三陸廻り』挿画(本書中に掲載)

 【書誌情報】

 『光太郎 智恵子 うつくしきもの 「三陸廻り」から「みちのく便り」まで』
高村光太郎・北川太一著
二玄社 2012年 定価1600円+税
B6判変型・224頁・ISBN978-4-544-03046-4

 

【執筆者プロフィール】

須田茂 すだ・しげる
東京都生まれ。神奈川県川崎市在住。札幌の文学同人誌「コブタン」を中心に近現代アイヌ文学に関する論考を発表。主な作品は「近代アイヌ文学とキリスト教」、「鳩沢佐美夫ノート「灯」について」、「武隈徳三郎とその周辺」。「ペガーダ」同人。