森タワーの最上階、54階に鎮座する森美術館。そこで、アラブ圏の現代美術をフューチャーする企画展「アラブ・エクスプレス展 アラブ美術の今を知る」が、6月16日から10月28日にかけて行われている。この展示は、アラブの現代美術を大規模に取り扱う日本初の展示である。アラブ世界の文化の多様性を、アラブ圏のアーティスト34組による様々な美術表現を通して描き出すことを中心に据え、アラブ世界の理解への架け橋となるような展示になっている。
「あなたのアラブに対するイメージはどんなものですか?」
この質問に対する日本人のステレオタイプで、そして偏向的な回答は、想像に難くないだろう。宗教対立、紛争、テロ、自由の弾圧等のネガティブなイメージ。一方で、新興国(ドバイ等)のセレブなイメージ。そして、イスラム教世界のイメージ。その具体性や知識量に個人差はあるだろうが、多くの日本人が思い浮かべるのは、たいていこれらのどれかに当てはまるだろう。
一つ、最初に言っておかなければならないことは、この展示が、そのようなアラブのイメージを覆そうとしているのではなく、アラブの文化的多様性を示し、アラブに対するイメージを解体しながら、もう一度アラブを「見つめ直す」ことを目的とした展示であるということである。私たちが抱くイメージの奥にある、アラブ世界の社会的・文化的現状に目を向ける取っ掛かりとなるだろう。
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展示は、以下の3つのセクションから構成されている。
① <日々の生活と環境>
② <「アラブ」というイメージ:外からの視線、内からの声>
③ <記憶と歴史、歴史と未来>
①では、アラブの生活の一部を垣間見ることができる作品が展示されている。このセクションで異彩を放っているのはアトファール・アハダースの《私をここに連れていって:想い出を作りたいから》である。この作品はレバノン大衆に人気の合成写真に想を得た作品であり、まさに、知られざるアラブのポップカルチャーに触れられる作品である。
②には、アラブのステレオタイプ像に対し異議を申し立てる作品やアラブというイメージの再考する作品がセレクトされている。例えば、ジャナーン・アル・ナー二のヨルダンを空撮した映像作品《シャドー・サイト》は、砂漠の意外性を富む姿を描き出すとともに、湾岸線戦争時、米メディアが砂漠を空白地帯として表象したことに対する抵抗をも示している。
③の特徴は、アラブの現実や歴史の「記憶と記憶」に焦点を当てている点である。ここでは、宗教的・政治的紛争や社会変革を経験してきたアラブ地域の作家たちが、それらを伝え、残したいという欲求から制作される作品が展示されている。このセクションの作品中で、他の作品と異質なのは、アハマド・バシオーニの《30日間同じ場所で走り続けて》である。これは、作家自身が同じ場所で1日1時間走るという行為を30日間続けるというプロジェクトの記録映像であり、自らの存在・生を記録し、残したいという欲求を強く感じる作品になっている。作家は生理的反応を記録出来る服を来て走り、その反応に呼応するようにスクリーン上にドットが点滅する。そこには、まさに彼が生きてきた証が記録されている。2011年、33歳で急逝した作家の生きた証は一見の価値がある。
各セクションを通して言えることは、アラブを故郷とする作家がいかにアラブを見るか、あるいはアラブへの視線をいかに見るか、という自問自答をベースにした作品がセレクトされている点である。それ故、過去から現在にいたる記憶や歴史・伝統・情報を集積・集約した作品、あるいは、自らの生い立ちの記憶を想起して作られた作品が大多数を占めている。これらの作品が物語るのは、多くの作家たちにとって、アラブという地域の過去や伝統が、作家自身のアイデンティティに深く根ざしており、そしてそれらが彼らを制作に駆り立てているということであろう。そこには、自分の存在を、あるいは自分の生い立ちを、確かにここにあるのだと示したいという自己顕示欲とも呼べるような欲求が潜んでいるように感じられる。
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その点で注目したいのは、②のセクションで展示されていたムニーラ・アル・ソルフの《ラワーンの歌》(2006)という映像作品である。この作品は、戦争を主題とする作品が多いレバノンで、あえて戦争を語らないことを決意する架空のアーティストを作家自身が演じ、その独り語りによって展開する。結局、この独り語りによって、戦争について語ることになってしまうという皮肉によって物語は終わる。
投影された映像では真っ赤なパンプスを履いた足が、まるで逃げ惑うように、ひたすらに行ったり来たりを繰り返す様子が印象的である。その足音は、見る者に焦燥感を与え、その焦燥感は、架空のアーティストのじりじりとした苦悩を濃厚に浮かびあがらせる。その苦悩とは裏腹に、その様子とアイロニカルな内容は、軽やかにコミカルでもある。
この作品は、フィクションであるが、限りなくノンフィクションに近い。映像はただひたすら、自らの足が部屋の中を行き来する様子を見下ろすように映し出し、外の世界や他人との関わりの中で何かを語ろうとはしない。それは作家の頭の中を一つの映像として成立させているかのようである。その点非常にパーソナルな作品であり、映像の中での焦り、独白の中での表現への苦悩は、作家の苦悩そのものとして垣間見ることができる。しかし、その苦悩とは、戦争を語るかどうか、あるいはどう語るかというものではない。アル・ソルフは、この作品について「現実から逃げ、自分自身をみつける」物語と説明している。戦争は、彼女にとって自身の生い立ちに関わる一つの事柄にすぎず、戦争を語るために作品を制作したのではない。この作品は、彼女がレバノンを拠点とする芸術家としての存在の意義を問い続ける作業でもある。自分自身を見つめた時に、自分にとって表現すべき物は何か。そして、それをどのように表現すべきなのか。この作品には、レバノンという場所で制作することのしがらみ、あるいは、現代美術の制約や流行の中で、本当に作るべき物は何であるかという、表現と自身のアイデンティティに対する苦悩が根底に流れている。
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また、私が興味深く感じたのは、作品の質量感の絶妙さである。というのも、虚飾的に煌びやかな作品は、「軽やかさ」さえ感じるのであるが、どこか物悲しい。今回の展示には、今なお紛争のただ中にある現況をテーマにした作品や、紛争や戦争、テロの歴史や記憶を表現しようとする作品が多く見られた。例えば、ジャアファル・ハーリディの《スペシャルリ・ポーチ》とそれに続く《グッド・スタンプ》は、ガザ紛争と権力者たちの諸問題に対する無関心を描き出し、歴史や現実を捉え直す作品となっている。また、ジョアナ・ハッジトマス&ハリール・ジョレイジュの祖国レバノンの紛争や戦争にまつわる記憶を主題とする絵葉書を配布するインスタレーションやハリーム・アル・カリームの戦争への徹底的な抵抗を示す写真作品等、様々なメディアや技法の作品がある。
しかし、それらは、いわゆる戦争画(*)とは違った様相を呈している。過去の戦争画で、多くの人が知っているであろうパブロ・ピカソの《ゲルニカ》や丸木位里・丸木俊の《原爆の図》は、その悲惨さを見る者に強烈に伝え、暗澹たる気持ちにさせてしまう(例えば、ゲルニカが公開された頃、パリの権威ある美術雑誌「カイエ・ダール」の中でクリスチャン・デルヴォスは次のように述べている。「《ゲルニカ》には、もっとも衝撃的な方法で表現された絶望の世界があり、そこではいたるところに死がある。(中略)そこからは、人間の残酷さのゆえに死につつある生物の胸の張り裂けるような叫びが沸き上がる」(**))。過去の戦争画にはそうした性質があった。そこには、制作の技法を超えた絵画から立ち上る圧倒的で重厚な空気が漂っている。
一方で、アラブの現代美術が描く戦争や紛争、テロはどうだろうか。そこには、過去の戦争画のような重厚さはない。代わりに、悲しみを帯びた軽やかさが漂う。過去の戦争画家たちと同じように、紛争に対する、憤りや悲しみ、それを忘れまい、忘れさせまいとする意思、それぞれの作家がそれぞれの意思や感情に基づき作品を作っているだろう。しかし、この展示に見られる作品はその感情や意思をそのままに描き出すのではなく、アイロニーやコミカルなテイストを交えて軽妙に描く。また、アラブ圏の伝統的な美術の特徴、例えば幾何学的文様美やアラブ独特の色彩感覚、そして抽象的思考を用いた制作方法は、さらに作品に軽やかさをもたらしている。
例えば、<日々の生活と環境>のセクションで展示されていたマハ・ムスタファの《ブラック・ファウンテン》(2008)である。1991年、湾岸戦争時、クウェートの油田地帯が爆破され、燃え上がる炎と煙が「黒い雨」となり大気と農地、水源を汚染した。作者は、この黒い雨を実際に浴びたことからこの作品を制作する。黒い液体がひたすらに噴出し続ける噴水のようなインスタレーションは、黒い雨と紛争の種にもなりうる原油の象徴である。落ちる水は、受け皿のようになっている透明なビニールで跳ね返る。その音は、一定のリズムになり、「黒い雨」が、今なお、継続する問題であることを淡々と物語っているようである。噴水の後ろには54階から見る東京が広がり、まるで黒い雨が東京に降るかのようである。アラブと日本に共通する(もしかしたらそれは普遍性さえ持つかもしれないが)「黒い雨」というものに対する不気味さや不安を想起させる一方で、そのしぶきに美しさを感じてしまう。しぶきが落ちる様、そのリズム、それらは心地よさとキラキラとした眩しさを持っている、なのに不気味でもあるこの作品は、なんとも言いがたい魅力がある。
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上記に詳述した作品に共通して言えることは、私たちがアラブに対して抱いているイメージ、特にネガティブなイメージを、暗さや重苦しいものとしてだけでなく、軽やかに描き出すという手法を見て取ることが出来るという点である。この「軽やかさ」と「暗さ」のバランスは、良くも悪くもアラブ圏の美術の特徴として捉えることができるかもしれない。
他にも、興味深い作品は多い。アラブという地域に根ざしながら、単にその歴史や伝統に依るのではなく、本質的に自分自身に向き合うという行為から生まれてきた作品は、特に見応えがある。鑑賞する側として、アラブの雰囲気やその文化の多様性を感じつつも、一つ一つの作品の中に、世界的な現代美術の潮流を見出すことが、この展示の面白みの一つであるだろう。
最初に述べたが、この展示によって、私たちが持っているアラブに対するイメージというものが全く覆ってしまうということはない。この展示はアラブにおける暗い過去や現在もすべて引っ括めてアラブの文化の多様性とその捉え方の一つを提示している。しかし、一方で、この展示で見ることが出来るアラブというのは、アラブという生活圏全体のほんの一部でしかないだろう。それでもやはり、日本人のもつステレオタイプのイメージの一歩先に進むことが出来る展示であることは確かであり、アラブ社会の新たな見え方を指し示してくれることは断言できる。
そして、率直に思うことは、アラブ出身の美術家たちが、今まさに、自らの生い立ちやアラブの歴史や伝統との対話の中でフラストレーションを昇華させようとするエネルギーに満ちあふれているということである。アラブ圏の美術を取り囲む環境はこの10年で大きく変化している。例えば、2003年以来、シャルジャにて国際ビエンナーレが開催され、ドバイでは毎年アート・フェアが行われている。また、2010年にはカタールにアラブ近・現代美術を所蔵する美術館が開館し、アブダビにはルーブル美術館やグッゲンハイム美術館の分館が会館予定である(***)。アラブ圏における現代美術関連のインフラは整いつつあり、この地域の芸術活動を支える基盤となるだろう。アラブの芸術や文化は熟し始めている。しかし、まだそれは、青い果実である。おそらくそれが、成熟するにはまだまだ時間がかかるだろう。この展示を機に、アラブの国々の芸術の発展を静かに見守るのも面白いかもしれない。
* 戦時中の様子を絵画で残すようなものや、戦争や紛争の経験と精神状態、個人の感情を絵画として表現しようとするものがある。日本人画家では、藤田嗣治などが有名で、2006年には大規模な回顧展が開かれている。
** 荒井信一 1991「ゲルニカ物語」(岩波新書) 参照
*** 本展図録参照
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|展覧会情報
アラブ・エクスプレス展 アラブ美術の今を知る
2012年6月16日(土)-10月28日(日)
森美術館(六本木ヒルズ森タワー53階)
公式サイト
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|執筆者プロフィール
成澤智美(なりさわ・ともみ)
1987年生まれ。立教大学大学院現代心理学研究科修士課程在籍(映像身体学)。主に現代美術のフィールドで活動中。ビデオアートの制作、執筆活動の傍ら、アートキュレーショングループ『FLOR』の一員として、展示やzineのディレクションを行っている。