【Review】ジョゼフ・ロージー『恋』の独創的な構成について text 井澤佑斗

 窓ガラスに水滴が映っている。途端に、不協和音から始まるピアノの独奏が開始される。その窓ガラスにオーバーラップして『恋』のタイトル――原題『The Go-Between』――が映し出される。 その不吉なテーマ曲ひとつだけで、日々の何気ない行為をテーマに、2時間も観客をサスペンスで釘付けにする本作が大好きだ。

 この作品は1971年に公開され、同年のカンヌ国際映画祭では最高賞のパルム・ドールに輝いた。舞台はロンドンの北東で、主人公の少年・レオが大人たちの逢引を手助けする話だ。テーマは追憶。監督はジョゼフ・ロージー。彼はアメリカ生まれで、赤狩りの影響でイギリスに亡命した後も精力的に映画を作った。

 本作の魅力は、数十年後の時点から主人公が過去を振り返るという設定を観客に説明せず、観客に違和感を与えることをためらわずに、数十年後の世界のカットを序盤からちりばめた大胆な作りにある。つまり、鑑賞する観客の脳内で次第に違和感が解決して、全貌が脳内で完成される映画だ。そして、私は委ねられている状況にとても楽しさを感じた。映画と観客との信頼関係が、本作には構築される。

 もし、数十年後の世界を冒頭に映して回想形式を明示する構成にしたら、1970年代にしてすでに構成はありきたりだったと想像する。

  では、どのようにして全貌が脳内で構成されるのか。作品は、レオが友人一家の館に遊びに来たシークエンスからはじまる。レオの目線よりも高い位置でカメラをかまえ、レオと友人が館を探検する。レオとその友人の他に、大人も十人ほどいる。 レオの目線には、真っ白のワンピースを着た、マリアンというお姉さんが映る。 

 翌日、晴れた野外で家族楽しく食事をする。レオが厚手の服を着ていることがわかり、マリアンが「レオが溶けてしまう」と茶化し、彼の夏服を街に買いに行くことになる。 二人は馬車で出かけ、マリアンの顔のアップショットになる。馬車にのったレオの顔が切り返しショットで映される。「You fell too near the sun.」(あなたは太陽のような人だった)と大人の男のナレーションが聞こえ、レオが好ましいものを見る眼差しでマリアンを見ている。この一瞬、ささやかな違和感がある。この一秒ほどのショットには、登場していない男の声が一瞬聞こえて、それがレオの声ではないので、観客は違和感を覚える。本来は、レオの声がナレーションされてこそ、切り返しショットとして成立するからだ。

 しかし、このショットはミスではない。なるほど、田園や裕福な館、またきれいなワンピースやモーニングスーツを着こなす何不自由なさそうな英国家族とを映す情景は、観客にサスペンスを想起させない。しかし一方、先述の違和感のあるショットと、不吉なテーマ曲は明らかにそうした情景とは不釣り合いで、そうした不調和が、ささやかなサスペンスを形作っている。衣装や舞台の担当者と、カメラマンと、音楽の担当者は、まったく異なる世界観を基礎に仕事を任されており、そのチーム間の不調和をあえて監督が指示したのだ。そのおかげで良いサスペンスの作品になったことは想像に難くない。 

 二人は街を散策する。マリアンはある人と会い、レオはリンカーングリーンの夏服を得る。

 館の家族とレオは食堂で食事前のお祈りをした後、教会へ向かう。家族の十数人はカメラの左手前を横切るが、レオだけはカメラの右手前を通過し、カメラが右にパンする。背景の建物を数秒ほど映す。次は、建物の中からカメラを回して、画面奥から画面手前へと人が入って行く。本作のカットは、奥行き方向の移動と、パンが多い。ほとんどのカットはレオや登場人物が動き、そのためにカメラを左右にパンする構図になる。カットの動きが複雑になる。カメラを固定する映画とは、趣が異なる作風だ。この一貫したカメラワークの手法により、館内の何気ない日常はドラマチックに表現されている。

 レオは館を離れ、森を抜けたところに動物小屋と居住地を見つける。そこでレオは怪我をして、小作人であるテッドに介抱してもらう。この男は、マリアンとは身分差を無視した禁断の恋仲にある。

 レオは、自分がマリアンと二人きりになれることをテッドに告げる。テッドは、レオに手紙をわたし、手紙をマリアンに渡すように依頼される。カットが切り替わる。 

 館の庭で、レオは画面右から登場し、画面左手前に歩いて水を受け取り、水を飲み、画面左横に移動すると、男女が登場して、彼らの「マーキュリーを?」「一番小さい惑星のことでしょ」「もともとは神々の使者であり伝言を運んでいた」との会話を聞き終えて、レオは画面右奥へと歩いて行く。レオの登場から退場までをワンカットで作ったジョゼフ・ロージー監督は、ユニークだ。このワンショットは、レオがテッドの手紙のメッセンジャーになったことを、観客に再確認させる。そして、74秒間のワンショットで作り上げる点が独創的だ。 

 前のカットの途中から連続して陽気な音楽が流れ、馬車の群れが右から左へと移動してカメラがパンする。次のカットでは馬車の上にカメラが置かれ、馬車の運転席でレオはテッドのうわさ話を聞く。次のカットは、馬車の運転席後方にある4人席を、運転席から俯瞰するショットであり、画面右下にいるマリアンが手前上空を振り返って見上げる。つまり、マリアンは、レオと運転手の会話を盗み聞く。彼女は笑っている。数秒で流されるので見逃されてしまいがちだが、 マリアンとテッドに関係性があると暗示する巧妙なカットだ。

 館の広場でレオが呼び止められ、マリアンを探してくれと頼まれる。 草の茂みからマリアンがかがんで出てくる。彼女に遭遇して、テッドに手紙を渡すようにレオが依頼される。  

 テッド、マリアン、テッドと情景が入れ替わる。レオは、テッドに手紙を渡すと画面右に走り去り、次のカットは、そのまま画面左から右へと走ったレオがマリアンに手紙を渡す。原題である『The Go-Between』のタイトル通りに、男女の間を伝令係として主人公が往復を繰り返す。カットの中で右へのパンと、左へのパンとを組み合わせて、登場人物に左右の動きを追加するのが、本作中の以降も徹底される手法だ。これが本作の映画の個性を形作る。

 手紙を笑顔で受け取り、マリアンは画面左奥へと歩いていく。画面右手側面には大きいものを含めて10以上の絵画がまとめて飾られており、左手にも絵画と静物がある。その廊下を、その奥の下り階段まで、マリアンは背を向けたまま振り返らずに歩き去る。レオは、その様子をずっと見ている。嬉しそうな表情のレオ。カットが変わり、ウサギを撃ち殺すバージェス。レオの表情は曇る。まるで、嬉しそうに懐いて伝令をして回るレオが、裏切られてウサギのように撃ち殺されるかのような、映画表現におけるユニークな比喩がある。

 野外で人々がクリケットをする。スポーツ後のパーティーで、テッドが歌を披露することになる。ピアノ伴奏役は誰かいないかと募られ、しばらく沈黙した後にしかたなくマリアンが出てくる。「輝く瞳」を歌う。ミスターモズレーがパイプに火をつけて聴いている。その手前で、モズレー婦人が悲しそうに見つめる。モズレー婦人は、娘であるマリアンをいつも悲しそうに見つめる。その演技は本作が悲劇であることを観客へと強調せずにはいられない。しかし、この時点で何が悲劇なのかも具体的でないため、その謎は本作にミステリーとサスペンスを形作る。彼女の悲しそうな表情がなければ、本作のミステリーには重厚感が欠けただろう。

 次のカットは、車が野外を移動していて、「レオは歌える?」とマリアンの声がオーバーラップする。その次のカットでは、レオが歌う顔のアップショットが来る。ここにも、本作の特徴がある。車が野外を移動するカットを映したのに、パーティー会場に車は来ない。後には、マリアンがトリミンガム卿と婚約したとわかりレオが落ち込むシークエンスが続く。車の移動シーンは何だったのだろう? この1時間9分の時点でのショットもまた、ミスショットではない。 あえて説明をせずに、数十年後のシークエンスの断片を編集で入れ込んでいるのだ。当然、初見の観客はそれに気づく術は無い。

 レオが長椅子で寝ている。後ろからマリアンがくる。マリアンが手紙を渡してほしいと言う。レオは、トリミンガム卿が怒るから手紙を渡せないと言った。マリアンが怒り始める。「あなたはただの客」。レオは手紙を受け取り、泣きながら森の中を走る。さらに悲しいことに、到着した家でテッドとも喧嘩する。次のカットでは、窓越しの中年男が映り、レオの「お母さんへ。家に帰りたいです」とのナレーションだけがオーバーラップする。後には、ミスターモズレーがテッドに軍隊への入隊を勧めるシークエンスに移る。またもや、紹介されていない中年男のカットが挿入される。このシークエンスのあたりで、観客は明瞭にカットの違和感を認識して不安にかられる。ジョゼフ・ロージー監督はそれを計算済みで編集を進める。

 レオは、テッドにお別れを伝える。去り際に「伝言はないかな」ときくと、テッドに「明日はダメだ。金曜の5時に例の場所で」と語る。二人が背を向けて去る様子が、切り返しショットを使って描かれる。次のシークエンスでは、灰色の背広を着た前記中年男が画面奥から手前へと歩いてくる。「孫にあった?」「会いました」「だれかに似てない?」「もちろん、テッド・バージェスに似てますね」「ええそうでしょう。彼に似てるわ」と中年男と誰かの女との会話だけが聞こえる。このように、レオの物語世界と、中年男の登場する別の物語世界とを、本作序盤から少ない頻度で徐々にカットを挿入して実現するという、巧妙な作品構成が明らかにされる。そのカットの起源は、作品開始後わずか13分で馬車の上で聞いた「You fell too near the sun.」の声のオーバーラップだ。 

 レオとマリアンが会話している。マリアンがテッドと結婚できないことに悲しみ、泣き出す。レオは、自分の誕生日に緑の自転車を買ってもらえることを友人から聞く。

 レオの誕生日は、大雨である。ケーキを入刀した後、マリアンは遅刻し、しかも彼女が居る予定の叔母の家にいないことがばれる。モズレー婦人は怒り、レオを連れて、彼女を探しに行く。短調のアップテンポのテーマ音楽が流れる。4回ほどのカットをはさんで、暗い建物にたどり着く。暗い廊下を5秒ほどかけて廊下を奥から手前へと歩く。喘ぎ声が聞こえる。テッドとマリアンが、マリアンが仰向けで下になり腿の付け根まで裸で、テッドがうつ伏せで乗っかっている。モズレー婦人の顔のアップショット、レオの顔のアップショットはモズレー婦人に顔を掴まれるので、カメラが動きに追随して揺れる。二人が気付いてレオを見ている。マリアンはテッドを抱き寄せる。ズームインして、マリアンの顔のアップショットは、口を横一文字にして、目の表情は普通である。 こうして、大人の恋愛の過失によって子供が生まれた数十年後の世界へと、事情の全貌が明らかになる。

 次のシークエンスで、 彼女のモノローグが続く。「私たちは素晴らしい恋をした。私たちの絆から生まれたと誇っていいのです」「幸福で美しい愛の子なのだから」。レオはマリアンの子供へと伝言を頼まれる。車が走るロングショット。不吉な音楽が始まる。この音楽は、逢引の手助けによって人間の闇を見たレオの心のうちを表現していると、観客は認識させられるのだ。

 このように、数十年後の世界のカットを説明せず、作品開始後すぐの時点からちりばめた大胆な作りは、あらゆる映画の中においてとてもユニークだ。映画において、物語の序盤に回想形式であると台詞で明示する作品が非常に多い。『恋』はその逆の構成を目指した。数々の回想形式の映画と対比させると、興味深いものがある。2020年において、『恋』の構成はなお新鮮に映るのだ。

【映画情報】

『恋』
(1970年/イギリス/カラー/ビスタ/118分) 

監督:ジョゼフ・ロージー
脚色:ハロルド・ピンター 原作:L・P・ハートレー
製作:ジョン・ヘイマン、ノーマン・プリッゲン 製作総指揮:ロバート・ヴェレイズ 
音楽:ミシェル・ルグラン 撮影:ゲリー・フィッシャー
編集:レジナルド・ベック 衣装デザイン:ジョン・ファーニス
出演:ジュリー・クリスティ、アラン・ベイツ、マーガレット・レイトン、マイケル・レッドグレイヴ、マイケル・ガフ、エドワード・フォックスほか

【執筆者プロフィール】

井澤佑斗(いざわ・ゆうと)
1990年東京都新宿区生まれ。
大学在学中に、植物を傷めずに植物表面へ任意の画像を印刷する技術を特許取得し、井澤特殊花社として経営している。