【Review】素朴な声に導かれて―――小森はるか『空に聞く』 text 五十嵐拓也

 タイトルの文字すら見出せぬまま、映画館のスクリーンには、パソコンを操作し何かの準備を進める女性の手つきが映し出され、ギターの音色が響く。観客は、女性が誤って音を二重に流してしまう様子から、この女性がラジオ放送の準備を進めていたことを窺い知る。そして、女性がマイクに向かって語りかけ始めた時、ラジオのパーソナリティーとしての女性を初めてスクリーンに発見する。このパーソナリティーの流暢な話しぶりに感心していると、あっという間にシーンが移り変わってしまう。リスナーに語りかけていた女性は、別の服装でカメラの横にいる取材者に対してラジオの経験を語り始める。

 『空に聞く』冒頭のこの場面転換において、不意に時間が変わったこと以上に驚くのは、女性が自身の経験を語り始めた途端、ラジオに語りかける口調から急に変化してしまった点であろう。女性が取材者へ話しかける口調は、ラジオと違って目の前にいる人へ向かって投げかけられるものなのだから、ラジオで語りかけていた流暢な話しぶりと違って当然だ。しかし、スクリーン上で素朴に話し続ける女性は、ラジオの流暢な口調と違う響きによって、我々に何かを伝えようとしている。

 小森はるか監督の『空に聞く』は、陸前高田災害FMでパーソナリティーを務めた阿部裕美さんが語る回想に立ち戻りながら、取材を進める阿部さんを中心に過去の陸前高田を振り返る。2013年から2018年までに撮影された映像は、たった73分[i]で、東日本大震災前に生活していた土地が津波対策のために埋め立てられ、そこに「新たな町」が築かれるまでの長大な時間を辿っていく。

 取材者に向かって過去を回想していく阿部さんの語りは、映画内で刻一刻と変化していく陸前高田のその後を予感させるサスペンスを生み出している。ある時点から過去の陸前高田を語りなおすのだから、映画内でそのサスペンスはごく自然と起こりうる。ただ、それと同時に、阿部さんが取材者に向かって語りかける口調は、ラジオの口調との違いによって観客に違和感を抱かせる。

 小森の前作『息の跡』(2016)と同時期に並行して撮影されたこの作品でも、引き続き小森自身がカメラを回している。小森のカメラは、阿部さんが取材をする人々の笑顔を捉え続ける。たとえば、仮設住宅に住む老人は、時にカメラに視線を向けながら、傍らで語りかける阿部さんに、かつての妻の話や毎日を元気に生きる秘訣などを嬉々として話している。また、埋め立てられる直前の地面で最後に行われる七夕まつりでは、男性がまつりを楽しむようにビートたけしのモノマネを披露しながら阿部さんの取材を受けている。他にも、他のパーソナリティーと共に行ったのであろう公開収録では、聞きにやってきたリスナー達(特にお揃いの服を着た姉妹が魅力的だ)が笑顔でパーソナリティーの呼びかけに応えている。

 しかし、彼らはただ笑いを見せ続けているわけではない。ビートたけしのモノマネを披露した男性は、自分が楽しんでいる七夕まつりに対し、震災前は開催意義自体に疑念を抱いていたことを教えてくれる。公開収録に集まったパーソナリティーやリスナーも、かつて住んでいた大地を嵩上げのために埋め立て始めた様子を伝える中継音声に、無言のまま、真摯な表情を浮かべている。また、嵩上げによって埋められてしまう五本松の巨石[ii]をラジオで語り合うパーソナリティー達も、3月11日の放送における選曲を「震災」ではなく「春」をテーマにして選ぶ。思い出を多く残したであろう五本松の巨石について楽しそうに語った彼らも、語りきれないものを抱えている。

 そんな陸前高田の人々の語りきれない無言を丹念に捉えるべく、小森のカメラは常に彼らの表情を阻害しない位置から寄り添い続ける。この無言を一口で理解することはできないだろう。そこには、被災によって失ったものに対する思いや、五本松の巨石のように「復興」の名の下で失われる故郷に対する思い、そして、この二重の喪失を経た彼らにしか分からない思いがある。このようにまとめ上げても、映画から彼らの喪失の一つひとつを全て理解することはできないだろう。だからこそ、笑いの中で突きつけられる彼らの無言の表情は、陸前高田で快活に生きる人々の豊かな世界を露わにし、我々の視線をスクリーンに釘付けにする。

 彼らの無言を代弁するかのように、阿部さんは流暢な口調のまま、生放送で毎月11日に黙祷を捧げる。黙祷を捧げる静かな時間を生放送で伝え続ける意思は、阿部さんの周囲にある無言によって支えられているのだろうか。いや、単にそれだけではない。映画は、知人の母の墓参りからの帰り道に「ここから見える風景を撮っておけばよかった」と突然呟く姿や、自宅の跡地を訪れて痕跡を探る姿、新たな自宅で写真と共に飾られた瓦礫によって、阿部さん自身の語りきれぬ無言を既に示し続けてきたはずだ。

 再び阿部さんが過去を回想する場面に戻り、素朴な口調で阿部さんが黙祷を生放送で行う意義について「生放送でやらない理由がないからやるんだ」と毅然と言い放つ時、観客がそれを当然として受け入れるのは、阿部さんを含む人々の無言を観てきたからであろう。そして、素朴な口調で話す阿部さんは、流暢な口調で話し続けた時の姿勢と変わりなく、むしろ語りきれなかった言葉をより明確に伝えようとしている。

 これほどまでに人々の豊かな表情を見せてきた映画は、唐突に番組終了を捉え、観客に幸福な営みの終焉を知らせる。阿部さんの流暢な声を通じてラジオ番組の終了を告げられた観客は、悲しさに涙を堪えるしかないだろう。だが、映画はまだ終わらない。

 埋め立てが終わった土地で料亭「味彩」を営み始めた阿部さんは、過去を回想していた時と同じように、画面外にいる取材者へ話し続ける。話は、料亭を始めた直後から徐々に現在の考えへと移り、徐々に埋め立てを終えて新たな姿を見せた陸前高田の風景と共にヴォイス・オーヴァーとなって響き渡る。

 ラジオのパーソナリティーであったことを尊重するように声だけを響かせたこのクライマックスで、阿部さんは、過去を振り返りながら未来へ向き始めたことを素朴な口調で伝えている。そこに、ラジオ放送で陸前高田の豊かな表情を伝え続けた流暢な口調は、もはやない。しかし、それでもなお、このヴォイス・オーヴァーが我々に深い感銘をもたらすのは、生放送の意義を毅然と述べた時と同じ素朴な口調が、流暢な声の語りと間違いなく地続きになっていることを我々が知っているからである。その素朴な声は、陸前高田の風景を浮遊するように捉えるカメラと相まって、過去と未来の狭間に響いている。

 そして料亭から見える風景に、この監督のトレードマークとも言うべきエンディングのタイトル「空に聞く」が浮かび上がった時、73分の上映時間は、阿部さんの声と無言の世界に耳と目をすましたかけがえのない時間へと変わっているだろう。

 

[i] 2018年の第23回アートフィルム・フェスティバル、2019年の「ほぼ8年感謝祭 あわいの始まり、まちの始まり」、あいちトリエンナーレ2019で上映されたバージョンは、上映時間が75分である。なお、あいちトリエンナーレ2019を除くバージョンは、著者自身が同一であることを確認している。今回公開される73分版は、2019年の山形国際ドキュメンタリー映画祭以降の上映時間と思われる。

[ii] 陸前高田市宮森地区にあった五本松の巨石は、小森と瀬尾夏美のコラボレーションによるいくつかの作品で描かれている。また、小森の『石と人』(2016)において、「五本松神楽」という独自に編み出した舞を踊る佐藤德政の作品も重要である。特に、「3がつ11にちをわすれないセンター」のWebサイト(https://recorder311.smt.jp/)に掲載された佐藤徳政による「ほんじつの巨石」(第一話~第五話)は、五本松の巨石が埋められるまでを記録している。

 本論の執筆にあたって、2017年に陸前高田市を訪問した経験が参考となった。ちょうど五本松の巨石が埋め立てられる直前の陸前高田で生活を送る人々から直に話を聞くことができた。初対面にもかかわらず車に同乗させてくださった映像作家の岩崎孝正氏、気さくにお話を聞かせてくださった陸前高田市の皆様、そして単に仙台に作品を見に来ただけの私を一緒に行ってみないかと誘ってくださった小森監督に、今一度この場を借りて感謝を申し上げたい。

 

【映画情報】

『空に聞く』
(2018年/日本/DCP/ドキュメンタリー/73分) 

監督・撮影・編集:小森はるか
編集・録音・整音:福原悠介
特別協力:瀬尾夏美
企画:愛知芸術文化センター
制作:愛知県美術館
エグゼクティブ・プロデューサー:越後谷卓司
配給:東風

公式サイト:http://soranikiku.com/

画像はすべて©KOMORI HARUKA

11/21(土)より、ポレポレ東中野にてロードショー
他全国順次公開

【執筆者プロフィール】

五十嵐 拓也(いからし たくや)
早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程在籍。アメリカ映画研究。東京・池袋の新文芸坐にて上映企画提案にも関わる。主な論考に「『偽りの花園』における奥行きの演出――アンドレ・バザンと表現の明白さを巡って」、「映画『コレクター』の脚本調査報告」など。上映企画提案に「5年目の『3.11』を前に/ドキュメンタリー『息の跡』関東初上映」、「特別レイトショー『王国(あるいはその家について)』」。