「僕が跳びはねる理由」
NHKの番組で東田直樹さんをはじめて知った時、東田さんの身体全体での感情表現を前に「なんて感情豊かで純粋な人なんだろう」と当時感極まって号泣したことを覚えている。それから数年後、東田さんの著書『自閉症の僕が跳びはねる理由』を手に取った私は、光り輝くビー玉を天に透かして覗き込むような感動を持って、1ページずつを大切にめくった。
ドキュメンタリー映画『僕が跳びはねる理由』は、2005年に出版されたエッセイ『自閉症の僕が跳びはねる理由』が原作となっている。著者である東田直樹さんは執筆当時13歳。自閉症の症状のためにうまく話すことができないもどかしさや「普通」とは違った自身の中にある感覚を豊かな言語表現をもって綴った。映画の中では美しい映像と共に、原作の中の東田さんの言葉がいくつも散りばめられている。それらは自閉症である5人の登場人物やその家族との映像に寄り添いながら、私たちを彼らの見ている世界へと優しく、そして時に驚きとともに促してくれる。
登場する5人は、インド、イギリス、アメリカ、シエラレオネとそれぞれ境遇も個性も全く異なる自閉症の症状を抱える少年少女たちだ。また、作中には『自閉症の僕が跳びはねる理由』の翻訳者で作家であるデイヴィッド・ミッチェルさんも登場する。彼の息子もまた自閉症を抱えている。彼は東田さんの本について「僕にとって未知の国からの使者だった」と語った。それは東田さんの著書が彼の息子、そして自閉症を抱える数々の人々がどのように世界を捉え、どのように感じているのかを理解する「救い」となったことを表している。
本作では、自閉症を抱える人のものの見え方の特徴である「全体ではなく、部分を先に捉える視点」を積極的に取り入れている。そのカメラワークもあり、鑑賞中はまるで彼らの見ている世界を実際に体験しているかのように感じられた。映像からは、改めて世界の美しさとその豊かさに思わずうっとりとしてしまうような瞬間もあれば、混沌とした世界の中でその映像が一体何を表しているのかを見失い、混乱してしまいそうになる瞬間もあった。また、映画は自閉症を抱える人々の生きている世界を視覚、記憶、言葉、友情、そして差別といった側面から多面的に映し出していく。
インドに暮らすアムリットは、絵が得意で街の人々をスケッチしては個展を開催するほどの優れた視覚感覚の持ち主だ。イギリスのジョスは、時折鮮明に残る幼少期の記憶を口にして両親を驚かすこともあるという。アメリカに住むベンとエマは7歳から共に学び合う友人だ。彼らは会話でのコミュニケーションの代わりに一文字ずつアルファベットの書かれた文字盤を指すことで意思表示をし、それによってお互いの友情を確かめ合うこともできる。そしてジェスティナは、その屈託のない笑顔で人々を魅了する。ジェスティナの両親は彼女が晒される差別や偏見の目を前に立ち上がり、西アフリカのシエラレオネで自閉症を抱える子供を持つ親と語り合う場を設け、学校を設立するなど積極的に活動を行っている。それぞれが個性的な魅力を持ち、そして何より普通の子供と同様に家族に愛し愛されているのだ。
「言いたいことが言えない生活を想像できますか?」
彼らはそうした豊かな感性を持っていながら、言葉をうまく話すことができない。そして、何度も同じ言葉を繰り返してしまったり、時にはパニックを起こしてしまう。しかし、それらは彼ら自身が望んで行っているわけではない。彼らもまた自身の身体に混乱し、苛立ち、制御しようと必死でいろいろな努力を試みている。
作中にも出てくる東田さん自身の身体を表す言葉に「壊れたロボット」という比喩がある。彼らはそのロボットの中で操縦に困ってしまっているのだ。そう理解した時、彼らが一見平然としていたとしても、そこには彼らの並々ならぬ努力があるのだということを教えてくれる。
彼らがパニックに陥ってしまう様子を見て、反射的に怖いと感じる人もいるかもしれない。しかし、混沌とした世界や感覚過敏、伝えたいことを伝えられないもどかしさの中、苛立ちや混乱を抑えるのはどんな人間にとっても至難の技である。
また、彼らの記憶は、健常者のそれとは異なるという。線のように繋がっているはずの記憶が、彼らの中では点となりバラバラとなっていて繋がらない。そのため随分前の出来事であっても、彼らにとってはつい最近の記憶と変わらないのだ。そうした鮮明な記憶は、しかも自身でコントロールすることが難しく、良い記憶も悪い記憶も突如として彼らの目の前に現れてしまう。ジョスの父親が作中で言うように、それは「まるで制御不能なスライドショー」のようである。そのような状況を抱えながらであれば、「普通」の人であったとしてもたった一歩を踏み出すことですら難しくなってしまうのではないだろうか。そう一つひとつを紐解いていくと私たちが考える「障害」はいつしか「障害」ではなくなっていく。
誰かと、そして社会と関わりたい。そう強く思った時、彼らの「個性」はたちまち「障害」へと姿を変えてしまう。本作のように美しい世界の中で、また自身の時間感覚の中でのびのびと遊んでいただけなのに、気がつくと彼らの前には「障害」という言葉が壁となって立ちはだかった。「普通ではない」という焦りはますますパニックを生み、パニックが生じるとありとあらゆる言葉は不安の波にさらわれ、またある時は言葉が感情のマグマと共に火山のように噴火して、指揮を失った身体はたちまち自他を傷つける暴君と化してしまう。
それらをただ「症状」と呼び、コミュニケーションから排除してしまうのか。あるいは「症状」だからと特別視するのか。彼らはそうした差別を、また過剰な特別視も必要とはしていない。東田さんは、著書『あるがまま自閉症です』の中で「僕は、決して障害者を有利にしてほしいと言っているわけではないのです」と語り、「お互いが気持ちよく過ごせるために必要なことがあるのではないでしょうか」と綴った。その「お互いが気持ちよく過ごせるため」にも、私たちには想像という力を存分に使って、「障害者」としてではなく「一人の人間」として相手の立場を尊重することの大切さを忘れてはならないだろう。
「人間が求め続ける愛の理想は「共存」ではないでしょうか」
上に引用した、『自閉症の僕が跳びはねる理由2』の東田さんが人間愛について語っている言葉の中に「共存」という単語が出てくる。「お互いを気持ちよく過ごせるために必要なこと」とは、この愛のある「共存」のことではないだろうか。そして自閉症を抱える人々は、こうした「共存」を夢見てその心に深い愛を秘めているのだ。
「共存」がもたらすもの。それは彼らにとっての社会の「安全」である。そして、社会が安全なものになれば「障害」は「障害」ではなくなるはずだ。自閉症を抱える彼らにとっての安全は、健常者にとっての安全もまた意味することだろう。そのはじめとしてはまず相手を知ろうとすること、理解し合うという事が重要となってくる。映画『僕が跳びはねる理由』は、「障害」のない社会への一歩を踏み出すその架け橋となってくれるはずだ。
【映画情報】
『僕が跳びはねる理由』
(2020年/イギリス/シネスコ・カラー/5.1ch/82分)
監督:ジェリー・ロスウェル
プロデューサー:ジェレミー・ディア、スティーヴィー・リー、アル・モロー
撮影:ルーぺン・ウッディン・デカンプス
編集:デイヴィッド・シャラップ
音楽:ナニータ・デサイー
原作:東田直樹『自閉症の僕が跳びはねる理由』(エスコアール、角川文庫、角川つばさ文庫)
翻訳原作:『The Reason I Jump』(翻訳:デイヴィッド・ミッチェル、ケイコ・ヨシダ)
原題:The Reason I Jump
字幕翻訳:高内朝子
字幕監修:山登敬之
配給:KADOKAWA
公式サイト:https://movies.kadokawa.co.jp/bokutobi/
画像はすべて©2020 The Reason I Jump Limited, Vulcan Productions, Inc., The British Film Institute
2021年4月2日(金)より全国公開
【執筆者プロフィール】
柴垣 萌子(しばがき・もえこ)
1994年生まれ。小説、映画脚本、映画レビューを執筆。