30年の時を経て、スキャンダルが再燃したのは必然なのか?
だが、アレンの映画作家としての危機は、時を経て現在、アレンにとって最悪のかたちで到来することになる。連載の第1回でも述べたように、現在のアレンがスキャンダルの渦中では想像できないほどの難境──文字通りの映画作家としての「死」の可能性──を迎えているのは、スキャンダルが発覚してから大きく時間を経たのちの「再燃」によるものだ。誰もがハラスメントや差別を批判することができるようになった現在、アレンの性虐待(疑惑)を批判する権利は当事者でなくても持ち合わせている。「#MeToo」運動の高まりと連動したアレンとスキャンダルへの強い拒否反応は、多くの人々によってSNSにおいても表明された。その意味では、アレンがハリウッドから「追放」されることは、時代が要請した必然の帰結なのだろうか。
1998年に公開された『セレブリティ』においてアレンが戯画的に描き出したのは、いわゆる「セレブリティの生態学」であった。それはブーアスティンの言葉を借りれば、「他の世界の有名人と同様に、彼らが特別な人物になりうるのは、有名であるということだけのためである」というトートロジーに要約されるものだ。この映画のなかでアレンは、のちの大統領ドナルド・トランプをカメオ出演させている。平凡な主婦から一躍、芸能レポーターへと転身したロビン(ジュディ・デイヴィス)にインタビューされた大富豪のトランプは、今後も予定として「カトリック教会を買収しようと考えている」と発言する。セレブリティの代表格として彼が登場することは、ある意味であまりに自然の成り行きだろう。そして当然のことながら、トランプが大統領の座につくとは当時誰も予見していなかった。
現代では、ドナルド・トランプは「ポスト・トゥルース政治」の代名詞ともなっている存在である。この連載のタイトルでもある「ポスト・トゥルース時代」とは、信頼できない「事実」が出回り、あからさまな虚偽がまかりとおるだけではなく、真偽が不確かな情報も数多く生み出されて共有されるような時代のことを指す。ポスト・トゥルースとは何よりも「事実」が客観的に存在しない状況のことであると、ひとまず理解できるだろう。そして、アレンやその作品がポスト・トゥルースという同時代の現象と共鳴する部分があることは見逃せない。
ハラスメント行為がハリウッドの業界で「公然の秘密」とされていたハーヴェイ・ワインスタインとは異なり、ドメスティックな場におけるアレンの疑惑は「消極的事実の証明」をめぐる立証困難性の新たな例題ともなった。アレンのスキャンダル自体が、何が真実であるのかが外部からは追求不可能なものでしかない。事実、アレンの幼女虐待の容疑は複数の調査の結果として立件されておらず、推定無罪の原則により無罪となっている。にもかかわらず、アレンがハリウッドから「追放」されている事態が生じている。アレンのスキャンダルは、「感情や個人的信条のアピール」によってその「真実」が定義されうる事柄でもあり、「ポスト・トゥルース」のアクチュアルな問題となっているとも考えられる。ブーアスティンは人々にとって「真実」という言葉を発するとき、何より「信憑性」が重要になっていると指摘した。だが、ポスト・トゥルース時代における信憑性とは、何を意味するのだろうか。
第1回で述べたことの繰り返しとなるが、あらゆる差別やハラスメントを批判できる状況自体は望ましい。だが、それが「信じる」ことの表明である場合には、より注意が必要になってくるだろう。客観的な事実が存在しないポスト・トゥルース的な状況とは、各々が主張する複数の事実が濫立する事態としても理解されうるならば、アレンのスキャンダルをめぐる意見の表明は、かなりの慎重さを必要とする。もちろん、アレンのスキャンダルをめぐる「真実」が不明瞭なものであり、その罪状の確定はできないとして無罪をことさらに強調することもまた、危険である。
ポスト・トゥルース時代にウディ・アレンの映画を見ること
しばしば「ポスト・トゥルース」の同心円状に広がっているとされるのは、ポストモダン的な相対主義である。先に触れたカクタニは、ポスト・トゥルースの要因の一つにジャック・デリダやポール・ド・マンなどが牽引したポストモダニズムの言語観や特徴をあげている。いわく、ポストモダンの理論は「人間の知覚から独立して存在する客観的実在を否定し、認識が、階級、人種、ジェンダー等のプリズムによってフィルタリングされていると主張する。客観的実在が存在する可能性を否定し、真実という考えを視点や立場の概念に置き換えるポストモダニズムは、主観性の原理を尊重するのだ」。
同様にリー・マッキンタイアの『ポストトゥルース』も、ポスト・トゥルース的な状況やオルタナティヴ・ファクトと呼ばれる状況の起源にはポストモダン思想があると批判する。こうした図式化には反論する言説も少なからずあるものの、現実と虚構の境界をあいまいにする作品の特性から「ポストモダン」な映画作家とも名指されてきたアレンにとっては、その呼称は今や皮肉な響きを帯びて、かつ、より自身に似つかわしい呼び名ともなっている。「真実」がどこにもないならば、アレンの作品には罪はないのだと開き直ることも可能なのだろうか?
少し立ち返ると、『アニー・ホール』はまさに、特権的な唯一の真理などないという典型的な「ポストモダン」的態度を反映した作品である。回想することそのものを自己言及的に語る物語であった『アニー・ホール』では、絶えず過去の出来事は語り手の干渉を強く受けており、通常の物語映画のように語られる出来事は客観的なものではありえない。映画の終わりで披露される卵をめぐるジョークは象徴的だ──ある男が精神科医に「先生、兄の頭がおかしいんです。自分のことを鶏だと思い込んでいるんです」と相談すると、医者が「なぜ辞めさせないんだ?」と問う。すると男は「そうしたいのですが、私も卵が必要なもので」──この「卵」は作中では恋愛のメタファーとして機能するが、同時に、あらゆる概念の代入が可能なレトリックともなりうる。
確認してきたとおり、『アニー・ホール』以後もアレンは現実と虚構のせめぎ合いを物語のモチーフに選んできた。自身が中心的な登場人物を演じる作品においては、その境界線をあいまいにする「語りの戦術」を機能させて、映画作家としての真価を発揮してきたのである。そのことは『夫たち、妻たち』のスタイルにも見出されるものであった。しかしながら、「真実」が何かを見極めることが困難な「ポスト・トゥルース時代」が到来した現在において、これらの作品たちを素朴に味わうことには、いささかの抵抗感がまとわりつきもする。
アレンのスキャンダルという個別の事例のみならず、「いかなる事象であっても客観的な事実を追求すべきである」という前提のもとで、あらゆる被害者が生まれない社会の実現を目指すことも共有されている倫理である。そのような倫理とともに、私たちがアレン作品から見いだすことができる教訓は、せめぎ合う現実と虚構(あるいは真実と虚偽)という明確に分割された二項対立をこえた次元へと備えることである。それは映画作家としてのアレンの先駆性をことさらに強調することではなく、作品をこえて(正確には作品をも巻き込んで)熱を帯びたスキャンダルをめぐる複雑な事態の、冷静な把捉に努めることでもある。
繰り返し援用してきたように、真偽の「転倒」もしくは「対立」というポスト・トゥルース的な事態は、ブーアスティンの「疑似イベント」という概念に最初からプログラミングされていた警告であった。私たちが思考を進めていくためには、異なる場所からさまざまな「真実」が均質に立ち上がるポスト・トゥルース的な状況へと備えていかなくてはならない。その意味ではアレンのスキャンダルをめぐってムーヴメントを巻き起こした、何を「信じる」のかという政治的なスタンスの表明は、時計の針を半世紀以上前の「幻影の時代」に逆行させうる、あまり歓迎のできない態度だろう。
そしてアレンの作品について今一度、思考を進めるために必要なのは、なぜアレン作品において現実と虚構を区別する境界はあいまいなものでしかないのか、という問いである。これに答えるためには、私たちは新たな問題系に思いをめぐらせなければならない。それはアレン作品に通底する「運命論」をめぐる主題である。
【執筆者プロフィール】
大内 啓輔(おおうち けいすけ)
1990年生まれ。早稲田大学大学院演劇映像学コース修士課程修了。