【Review】喪失と再生の先に――『ドライブ・マイ・カー』 text 若林良

「へだたり」を示すさまざまなメタファー

 音との「へだたり」を示すのは、音が死ぬまでの序盤と、中盤以降の物語構造の対照性もあるだろう。物語の序盤では家福が自身の愛車であるサーブ900を運転するものの、やがて彼が緑内障を患ったことや、また演劇祭の規定もあり、そのハンドルの操作主は、20代初頭ながら経験豊富なドライバー・渡利みさき(三浦透子)に取って代わられる。また舞台も東京から広島に移動し、物語が進むにつれ、音がその世界の中心であった、前半とのずれはより顕在化していく。そうした描写ののちに「やつめうなぎ」のシーンが現れることで、音と家福との「へだたり」はいよいよ決定的なものとなるのだ。

 また、音とは直接的な関係はないものの、「へだたり」の強調に寄与するものとしては、作中における物理的な「向き合う」機会の乏しさもまた挙げられるだろう。本作は車での移動シーンが多くを占めているため、その中で座る人物たちは――運転席のみさきと後部座席の家福にせよ、後部座席に横並びに座る家福と高槻にせよ――身体ごと向かい合って話をすることはできない。また中盤、家福と高槻は幾度かバーで酒をたしなむものの、そこでも彼らが腰かけるのはカウンターであり、ふたりが正面から向き合うことは、劇中では周到に回避されている。

 こうした構図の好例を映画史から参照すれば、森田芳光の『家族ゲーム』(1983)がそれに当てはまるだろう。『家族ゲーム』では次男の高校受験をめぐるトラブルを通して、ある家族の心理的断絶が提示されるが、象徴的なのは、一家4人(に加え、松田優作が演じる家庭教師)が長机に座って、視線を合わせることなく食事をするシーンである。これは『家族ゲーム』のもっとも印象的なシーンと目されており、お互いに目を合わせずに黙々と食事にいそしむその姿から、彼らのあいだに横たわるへだたりが観客には了解されていく。

 そして、『ドライブ・マイ・カー』を語る上で外せないのが、劇中で上演される演劇における、言語の多様性である。『ワーニャ伯父さん』は英語や日本語、ひいては韓国手話までが入り乱れる多言語演劇として構成されるが(それぞれの言語は字幕が舞台上のスクリーンに映されるため、観客に意味は伝わる)、演劇に登場するさまざまな言語は、それぞれの俳優の母語である。そのため表面的には、各俳優の台詞と台詞のあいだにはずれが確認でき、また言語が異なるもの同士では、演出家と俳優であれ、また俳優同士であれ、流暢なコミュニケーションを取ることは難しい。じっさい、リハーサルにおいては自身の母語とは別な言語について「お経みたい」と語る俳優も現れる。

 同じく演劇のプロセスを映し出したシーンとして、家福の車中における稽古にも類似性は確認できる。家福はカーステレオで音が仕込んでくれた『ワーニャ伯父さん』の録音テープを流し、音の台詞の間に、自分が言うべき台詞を口にする。つまり、そこでは劇の上での「会話」は成り立つが、本当の意味での「会話」が成り立つことはない。声の主である音がすでに彼岸の人ということもあって、これらの点にもまた「へだたり」の一端が見て取れるだろう。

「へだたり」の先にあるもの

 ここまで作中に現れるさまざまな「へだたり」の存在について語ってきたが、「へだたり」はしかし、放り出されたままに終わることはない。
 作中で示されるへだたりは、「つながり」と紙一重である。それはけっして矛盾したことではなく、村上の原作では、たとえば以下のような台詞がある。

 「どれだけ理解し合っているはずの相手であれ、どれだけ愛している相手であれ、他人の心をそっくり覗き込むなんて、それはできない相談です。そんなことを求めても、自分がつらくなるだけです。しかしそれが自分自身の心であれば、努力さえすれば、努力しただけしっかり覗き込むことはできるはずです。ですから結局のところ僕らがやらなくちゃならないのは、自分の心と上手に正直に折り合いをつけていくことじゃないでしょうか。本当に他人を見たいと望むのなら、自分自身を深くまっすぐ見つめるしかないんです」

 相手のことを完全に理解することはできない。しかし、自分の努力によって、どこかの部分を「覗き込む」ことはできる。本作における家福は、まさにこの理解と無理解のあわいを旅し、やがて自身にとっての光を得ていく。

 それは大きくは、みさきとの関係の変化である。前述の車のシーンに即して説明すれば、当初は車を他のドライバーに任せることに懸念を示していた家福は(その理由については女性ドライバーへの拒否感から、愛車を自分が運転することへのこだわりへと焦点がずらされている)、彼女の運転技術の高さに舌を巻き、彼女を受け入れたうえで自身は後部座席に座る。そして、彼女の高度な技術の背景にあった、やむを得ない理由を家福が知るにつれ、その関係性はしだいに変化していく。

 やがて家福ははじめてみさきが運転する車で、後部座席という定位置から助手席に移り、ふたりはともに煙草に火を灯す。そして灰を飛ばすためにサンルーフを開け、ともに火のついたままの煙草を上空に掲げる。このシーンでは、先述のように「向き合う」こと自体は回避されているものの、家福とみさきの距離はより近づき、ふたりの間に芽生えた情感を示すような温もりを感じさせもする。

 煙草が彩りを添えるシーンでもうひとつ印象的であるのは、終盤、ふたりがみさきにとっての喪の場所――母を亡くした場所である、北海道上中川滝村を訪れるシーンである。ここでの家福は、音の死に対して「ちゃんと向き合えていなかった」ことを告白し、みさきを抱きしめる。これまでの両者のあいだには前述のように、運転席と後部座席のような境界、または宿の2階に泊まる家福にみさきが屋外から声をかけるような一定のへだたりが目立っていたものの、ここに至って、ふたりを分断していた物理的な距離は、ついにゼロへと到達する。

演劇をめぐるつながり

 「距離の無化」は、終盤、西島自身の主演で『ワーニャ伯父さん』が演じられるシーンにも見て取れる。そこでは韓国手話を使う女優が作品のヒロインのひとりとなるソーニャを演じるが、彼女は人生に絶望したワーニャ――すなわち家福に対して「生きていきましょう」と語りかけ、背後から家福を抱きしめる。これは韓国手話と日本語という、異なった生活言語を持ち、かつ、演出する側/される側という対照性をはらんだふたりのへだたりが解消されるシーンであると同時に、過去から現在にあらたな「つながり」が芽生えたことを示す補助線としても機能する。

 『ワーニャ伯父さん』は19世紀末、作者であるチェーホフが健康を害し、まさに死と隣り合わせにあった中で執筆された。「生きていきましょう」というラストの台詞がチェーホフの諦念の裏返しであったのか、それとも確かな生への希望を反映したものであったのかといった判断こそ、後世の私たちには難しい。しかし、(作中で繰り返し描かれる)劇の稽古を通してこの「生きていきましょう」という言葉がたしかに女優の中で身体化され、また、自身の中での大きな転換を経た家福がそれを享受することで、「生きていきましょう」はたんなる劇の台詞としてのみではなく、家福自身を祝福するものとしても位置付けられる。同時に、家福という個人のあらたな出発は、先人たちの遺産のあらたな継承という形をも帯びていくこととなる(本作で現れるもうひとつの演劇『ゴドーを待ちながら』もまたオリジナルではなく過去の名作であることも、「継承」を際立たせる伏線として機能するだろう)。

 考えてみれば、死が人間から分かちがたいものである以上は、人が紡いできた歴史とは、極言すれば他者との出会いと別れ、その繰り返しであっただろう。誰もが人との出会い、そして別れを経験する中で、そこに付随する感情も限りなく、希望と絶望のあわいを揺れ動く。前述のシーンはたんなる物理的な距離の無化に留まらず、さまざまな時代、また社会を内包した大きな流れの中に家福や音、みさきの物語も位置づけられ、やがて次世代が受け継ぐ新たな流れの源となることをも示している。こうした重層化によって、「喪失と再生」はより大きな束となって私たちの前に顕在化し、映画『ドライブ・マイ・カー』は最後に、観客に大きな感動をもたらすのだ。

 まとめよう。『ドライブ・マイ・カー』の構造自体は「喪失と再生」というシンプルなものであり、それは原作の核を受け継いだものでもある。しからば、その物語を傑出した映画として昇華させるにあたって何が重要となったか。それこそが本稿で述べてきた「へだたり」の重層性であり、同時に「つながり」の重層性であったのではないだろうか。

(*)この効果には、準備の段階ではスケジュールを読むような形で、いわば無機質に台詞を読み、本番の段階で初めて感情を台詞に込めることが求められる「濱口メソッド」と呼ばれる演出が作用していることは疑うべくもないが、それについての言及には別稿が必要だろう。

【映画情報】

『ドライブ・マイ・カー』
(2021年/日本/1.85:1/179分)

監督:濱口竜介
脚本:濱口竜介、大江崇允
出演:西島秀俊、三浦透子、霧島れいか、パク・ユリム、ジン・デヨン、ソニア・ユアン、ペリー・ディゾン、アン・フィテ、安部聡子、岡田将生
原作:村上春樹『ドライブ・マイ・カー』(短編小説集『女のいない男たち』所収/文春文庫刊)
音楽:石橋英子
製作:『ドライブ・マイ・カー』製作委員会
製作幹事:カルチュア・エンタテインメント、ビターズ・エンド
制作プロダクション:C&I エンタテインメント
配給:ビターズ・エンド
画像はすべて©2021 『ドライブ・マイ・カー』製作委員会

公式サイト:https://dmc.bitters.co.jp/

【執筆者プロフィール】

若林 良(わかばやし りょう)
1990年生まれ。neoneo編集委員。